納妾波瀾(側妻がやって来た!)
「少夫人、お目覚めでしょうか。趙様が朝の挨拶に参られました」
(……こんなに早く、誰、……趙様って、……っ‼︎)
夫の腕の中で微睡んでいた花采蓉は、侍女の呼び掛けを何度か反芻した後、──飛び起きた。
「少夫人はお支度の最中だ。少し待て」
焦る妻の代わりに、悠々身を起こしながら夫が答える。
まず妻の着替えを手伝い、次に自身の着替えを済ませてから、景廷毅は控えの間に向かって入室を促した。
「主公と少夫人に、朝のご挨拶を申し上げます」
一部の隙もなく身支度を整えて現れたのは、趙梨雲。──昨日輿入れした、景廷毅の側妻である。
「すまない、趙氏。まだ支度が終わっていなくて」
「お手伝いに参りましたので、ご指示を」
「では、その櫛を取ってくれ。少夫人の髪は絹糸のようで、丁寧に梳くほど艶が増す。怠ってはならない日課でね」
鏡の前に座らされた花采蓉は、鏡面越しに夫を睨んだ。
(どうして少夫人と呼ぶの! それに、こうなるとわかっていたなら……)
どうして昨夜、遅くまで妻の肌を求め、これほど痕を残したのか。
泣きすぎて腫れぼったい目元も、隠しきれない首元の痕も、昨日初めて会った女性にすべて見られている──。
(これも昨夜の意地悪の続きなの……?)
いたたまれなさに身を縮めるのが精一杯で、堂々と構えるべき正妻でありながら、脇に控える側妻を見ることができない。
趙梨雲は景廷毅と同い年、母方の再従妹である。
一度正妻として嫁いだが、子供を産めないことを理由に離縁され、実家に戻った。本来なら側妻を迎えて男子を産ませ、その子の嫡母として養育すれば済むところを、あえて離縁となった理由は聞いていない。
花采蓉が嫁いだ翌日、景大夫人が家政について「先のことも考えている」と言ったのは、彼女のことだった。正妻として十年間、大所帯を差配していた手腕を買われ、景家の奥向きの後継者として輿入れしたのである。
昨日は、二人の初夜だった。
それなのに夫は正妻の居所で過ごし、いつもより念入りに妻の肌を貪った。……端的に言えば、とても意地悪だった。
毎夜の営みですっかり夫の愛撫に慣れ、待ち望むようになってしまった若い肉体を、景廷毅は執拗に高めた。なのに極めようとすると、萌したものを紐で縛め、快楽の出口を塞いだのだ。
あまりのつらさに泣きじゃくり、夫に操られるまま、散々いやらしいことを口走った。許された時には、ようやく訪れた絶頂の鋭さに、墜落するように気絶してしまい──裸のまま、夫の腕に包まれて衝撃の目覚めを迎えたのである。
(いつもは寝衣を着せてくれるのに……!)
恥ずかしさと情けなさに涙目になっていると、夫が鏡の中の妻を見つめながら追い打ちを掛けてくる。
「芳修は、潤んだ瞳が満月の湖面のように美しい。そう思わないか、趙氏」
「ええ、本当に。それより主公、そろそろ大夫人の居所へご挨拶に伺いませんと」
「そうだな。──芳修、今日はこの翡翠の小冠にしよう。浅碧の襴衫にもよく合う」
簪で小冠を留めた夫に促され、羞恥に頰を染めながら、花采蓉はすっくと立ち上がる。早くこの場から逃れたい、その一心だった。
年若い正妻の瑞々しく初心な様子に、後ろに続きながら、趙氏は薄く目を細めた。
自身も辣腕の景大夫人が側妻に指名するくらいだから、趙氏の実務能力は本物である。
側妻といっても名家の出身で、実家が没落したわけでもない。ただ出戻りの居場所はなく、肩身の狭い思いをするよりは、と景大夫人の招きに応じたのである。
ゆえに閨をともにすることはないと、あらかじめ聞かされていた。側妻としての体裁を取り繕うつもりもないのか、景廷毅はこれまで通り、昨夜も正妻の居所で過ごした。
ならば側妻などという、名家の令嬢には屈辱的な立場で迎えなくても……と花采蓉は思ったが、客分では景家の戸籍に入れず、一生面倒を見ることは難しい。義母の意向でもあり、口を挟めることではなかった。
それでも、正妻が勉学を続けられるように招聘された家政担当者である。相応の待遇で迎える心づもりで、こうして手土産の菓子を携えて、趙氏の居所を訪れていた。
「だからと言って、少夫人へのご挨拶を免じるというのは……」
「義母上のところには、一緒に伺いましょう。でも、朝の支度は自分でしますから……あと、僕の方が年下で、若輩者です。敬語はおやめください、趙姐」
「趙姐……」
末っ子特有の距離の詰め方に、趙氏が呆気に取られたように沈黙する。
趙氏には独立した居所が与えられ、中庭に面した入口の一室が書斎となっている。家政担当として、家の主人や侍女と打ち合わせる場所が必要になると見越しての配置である。
その書斎で早速、取り寄せた帳簿で荘園収入と邸内の仕入の細目を確認していたところを、十一も年下の正妻に突撃され、趙氏は軽く咳払いをした。
「少夫人、お言葉ですが」
「あの、よかったら僕のことは、芳修と呼んでもらえたらうれしいです」
「……少夫人。『己を修め、家を斉え、国を治め、天下を平らかにす』という教えをご存知ですか」
つまり、家庭内の身分秩序を維持できない者に、国を治める資格はないということである。
「『大学』の一節ですよね。……ダメですか?」
経典を読み込んでいても理解が伴っていない顔で、花采蓉が問う。
しかし、子犬が期待を込めてじっと見つめてくるのに、撫でずにいられるのは犬嫌いに限られる。──趙氏は、犬嫌いではなかった。
「……こうして二人の時だけですよ、芳修」
「はい、趙姐!」
見えない尻尾を振る花采蓉に、趙氏も思わずといった様子で苦笑した。
「愛らしい方だと聞いていたけれど、本当ですね」
趙氏は昨夕、裏門からひっそりと入邸した。側妻の輿入れは、正妻とは何もかもが異なり、華やかな婚礼衣装も楽隊も許されていない。
この輿入れは、花家との婚姻が決まった時には、すでに話が進んでいたのだという。新妻に余計な心労を与えないように、入邸は新婚夫婦に子供が生まれた後を予定していた。
しかし半年が過ぎても懐妊の兆しはまだなく、また荘園視察で新たな収入の軸──地黄の栽培計画が持ち上がった。従来の家政管理に加え、新事業にも対応するために、予定を早めて景家に入ることになったのである。
「せっかくですから、今後について話しましょう」
侍女に言いつけ、爽やかな香草水を運ばせてから、趙氏は実務家の顔で告げた。
「私は数字を見るのは得意だけれど、栽培や加工については知識がありません。栽培については修武の章哥にお任せして、地黄の加工については、芳修に教えを請いたいと思っています。できれば秋の収穫前に、花家の兄君とも一度取引の話をしておきたい。お運びいただくことはできるかしら」
「はい、勿論……!」
これほどあらゆる点で花采蓉の心を掴んだ言葉は、かつてなかったかもしれない。
見せかけではない受容。
謙虚に学ぶ姿勢。
一族の一員として向けられる、景廷章への信頼。
次兄への敬意。
そして何より、過去に屈せず自らの足で立とうとする気概。
そもそも花采蓉は、年上のてきぱきとした女性に弱い。強引に離縁させられ花家を去った義姉も、儒医と薬舗を営む家を切り盛りする、長兄の立派な片腕だった。
そして花采蓉には、子供を産めない──その一点だけで離縁され、けれどそれを乗り越えて前を向く趙氏に、無条件で全面的に肩入れする素地があった。
こうして景家には、蛾眉同心と称えられる稀有な関係で結ばれた、麗しい妻妾が誕生したのである。
互いの邪魔にならない範囲で、食事やお茶の時間をともにするようになるまで、時間は掛からなかった。
季節は夏に移り、五日後に七夕を控える今日も、花采蓉は彼女の書斎に遊びに来ている。
今日は、一人での訪問である。
というのも先日、阿慎と二人で遊びに来た際、帳簿の紙が入った箱を派手にひっくり返してしまい、大目玉を食らったのだ。趙氏は、理知的で落ち着いた大人の女性だが、仕事を妨げられることは極度に嫌う。
普段は寛容な義母にもこってり絞られ、神聖な仕事部屋に幼児を連れていくのはやめよう、と固く誓ったばかりなのである。
「趙姐は、景哥の幼馴染でしょう」
七夕は乞巧節ともいい、女性が織女星に針仕事の向上を願う節句である。磨喝楽と呼ばれる精巧な土作りの人形を飾り、その衣装に趣向を凝らすのが流行っていた。
趙氏も、七夕に備え磨喝楽に着せる服を拵えているところである。小さな布を手際よく縫い進める手元に感心しながら、花采蓉は訊ねた。
「景哥を訪ねて、子供の頃はよく景家へ遊びに来たんですか?」
身内である趙氏の前でも、夫を「景哥」と呼ぶようにしている。
「景大人」と呼んで、彼女から義母に伝われば、夫婦の関係を疑われてしまうかもしれない。昨秋の登高で約束した通り、義父母が気を揉む事態は避けるように努めていた。
針は止めずに、趙氏が頷く。
「趙家は武家でしょう。景家の落ち着いた気風と作法を学びにいらっしゃいと、寧姑に声を掛けていただいたの」
対面する時以外、趙氏は景大夫人を敬愛する従叔母として、名の「婉寧」から一字取り「寧姑」と呼ぶ。再従兄である夫は「毅哥」である。
「では、……その、母君にお会いしたことは」
「香夫人──薛氏のことですね、ありますよ。地坤とはこれほど美しいのかと、息が止まるほどの方でした」
「……何故、家廟に位牌がないのか、ご存知ですか」
迷いのないはずの手元が、止まった。
修武を発つ前日、花采蓉は改めて家廟の掃除をした。
景家のご先祖の位牌を一つ一つ磨いていて、気がついた。夫の生母──香妻・薛氏の位牌がないことに。
天乾の跡継ぎを儲けた香妻、しかもその子が二十歳で進士及第し一族の名を大いに上げた才子であれば、生母の位牌は必ず祀られているはずである。見落としたのかと思い、再度すべての位牌を調べたが、結果は同じだった。
一方で、義兄の生母・衛氏の位牌は最下段──最近亡くなった世代の檀にあった。
家廟には、正式に家族となった者の位牌しか置かれない。半主半奴の側妻は正式な家族とは見なされず、その位牌が並ぶことはない。
側妻・衛氏の位牌を置くために、相当な労力を要したことは想像に難くなかった。家廟に祀り、子孫から永年の供養を受けられるように、「賎民」だった彼女の戸籍を「良民」に変え、「妾」ではなく「側室」として記載したのだろう。
それでも正妻以外を家廟に祀るのは難しいが、一族の長老を一人一人、時間をかけて説得したに違いない。侍女への恩を、景大夫人が忘れていない証だった。
そしてその位牌は、比較的新しいことを差し引いても、家廟の中で最も光沢があった。おそらく義兄が、供養と改悛のために毎日磨いているのだろう。
それに引き換え、薛氏の位牌は存在すらしない──。
「何故、私に訊くのですか」
常に落ち着いて取り乱すということのない趙氏の声が、わずかに乱れた。
「……と思ったけれど、寧姑は当然のこと、章哥にも訊けないことね。勿論、毅哥にも」
花采蓉は黙って頷いた。
輿入れして以来、ずっと気になっていた。教えてくれる人を──訊いてもいい人を求めていた。
景家では誰も夫の生母に触れず、昔語りもその美しさを讃える型通りのものである理由を。
息子でさえも、地坤の妻を娶りながら地坤の母について何も語らず、訊ねてもはぐらかす訳を。
「皆気を遣っているのでしょうけれど、何も知らされない方が気掛かりですね。……薛氏とは、一度しかお会いしたことがないの。毅哥と遊んでいた時、私が趙家の娘と知って、すぐに居所から出されたから」
だから自ら見聞きしたことではないと断りを入れて、趙氏は語り始めた。
愛されて当然と思っていた地坤と、地坤を愛さなかった天乾の結末を。
景廷毅の生母、薛氏は士大夫の娘だった。
平庸の両親から生まれた奇跡のような地坤の娘は、周囲からその美貌を誉めそやされて育ち、望めば手に入らない愛情などなかった。
両親は愛娘に最高の婿を望み、同じ士大夫の名家・景家の嫡子に目をつけた。正妻がいるが子供はおらず、長子を産んだ側妻も難産で亡くなっている。
平庸の正妻より十歳も若い美貌の地坤を、天乾が寵愛しないわけがない。
景家としても、天乾の跡継ぎを期待できる香妻との縁談を断る理由はない。二人の婚礼はつつがなく進められ、一年後には玉のような天乾の男子が生まれた。
次代の血に安定がもたらされ、景家の将来は盤石なはずだった。──功ある香妻が京城を去り、不自然な死を迎えなければ。
天乾と地坤は番となり、運命的に、無条件に愛し合うと信じて疑わなかった薛氏は、跡継ぎを産んでも正妻しか愛さない夫を、次第に恨むようになる。そして、香妻を尊重し大事にしてくれていた、寛容な正妻を憎んだ。
夫を繋ぎとめる駒にならない、幼い息子をも疎み、遠ざけた。
その程度なら家庭の不和で片付くが、薛氏は突然、療養と称して荘園に移され、──一年後、その地で病死した。景廷毅が十歳の時だった。
「ご夫妻の間に実際何があったのか、──香夫人に何があったのか、それはわかりません。……でも亡くなられた方です。お二人は今も変わらず仲睦まじいし、毅哥も、乗り越えて今がある。芳修が気にすることではないわ」
「本当に乗り越えたんでしょうか」
手の中の器を弄びながら、花采蓉は俯いた。
「修武の義兄上が言っていたんです。景大人は地坤嫌いだって」
「……章哥が、そんなことを?」
「いえ、あの、わざわざ言われたわけではなくて、僕が眠っていると思っていて、そっと洩らしたのを聞いてしまっただけで」
趙家の女性を怒らせてはいけないことは、身に染みている。
親身になってくれた義兄に濡れ衣を着せるわけにはいかず、慌てて付け足した。
「……でもそう聞いて、腑に落ちたんです」
修武から戻って以来、ずっとわだかまっている思いがある。
夫が本当は地坤嫌いで、弟分としてなら許容できても、妻としては受け入れ難いのだとしたら──初夜の「取引」の意味が変わってくる。
妻が地坤の本能に負け、縋ってくるのを待っているのかと思っていたが、実は今も地坤を娶ることに抵抗があり、昔から知っていて拒否感が少ない相手を選んだのなら。
義務だけで結婚しても根本的な嫌悪は拭えず、また妻も望んでいないため、これ幸いと距離を置いているのなら。
毎夜の営みは周囲を騙すためで、徐々に意地悪さが増しているのも、地坤と暮らす日々に嫌気が差しているためだとしたら──。
夫が、跡継ぎは天乾でなくてもいいと思っていることには、薄々気づいていた。
そろそろ孫の顔が見たいと口を滑らせた景大夫人を、「どうしてもすぐに嫡子が必要ということなら、阿慎を養子にしましょう」と冷ややかに答えて黙らせたのだ。
(僕が「いい」と言っても、本当の夫婦にはなれないの……?)
趙氏の反応も、疑いを裏付けている。
おそらく薛氏の荘園送りには、趙氏も知らない事情がある――家廟に位牌を置かないほどの。
景廷毅の地坤嫌いは根深く、その発端を屋敷の誰も口にできず、だから彼女もこうして気まずそうに言葉を重ねるのだ。
「乗り越えたから、芳修を娶ったのでしょう。士大夫の結婚としては、随分遅かったのですよ。それほど時間を掛けてあなたを迎えたのだから、毅哥も、当然心の整理はついているでしょう」
顔を上げない年下の正妻を穏やかに諭し、趙氏は侍女に目配せして、蓮花の形をした緑豆糕を運ばせた。
「どうぞ、自信作だから食べてみて」
趙氏は、裁縫だけではなく、お菓子作りも得意としている。
四季折々の文様で型押しされた緑豆糕には、彼女の美意識が詰まっている。それは見た目だけではなく、味わいにも反映され、今日のものは中の餡に蓮花露が香る逸品である。
阿慎の分もいただいて帰ろう、と俯きながらもちゃっかり舌鼓を打っていると、
「毅哥のことは心配しなくても大丈夫だけれど、……『景大人』と呼ぶのはどうかと思いますよ」
突然の雷光のような言葉に、花采蓉は飛び上がりそうになった。
「え、と……」
「気づいていないとでも? それに私はかまわないけれど、他の側妻の前でそのような顔をしてはいけません。侮られますからね」
「他の側妻⁈」
花采蓉は今度こそ本当に飛び上がり、立ち上がって卓に手をついた。
側妻を迎える時は正妻の了承を取るものなのに、そんな話は一切聞いていない。
「あれほど正妻と仲睦まじくても、尚書公も子を持つために側妻を迎えたのです。今のままなら、芳修のためにも毅哥は側妻を持つでしょう」
さも当然と言わんばかりの口調に、何も返せなかった。
趙氏の言葉は正しい。このまま夫婦が仮の関係を続ければ、いずれ側妻の話は持ち上がる。婚約時の条件があるから、尚更だ。
正妻として娶ること。
何があっても夫から離縁しないこと。
婚家と世間から弟を守るために次兄が講じた策が、弟を追い詰めようとしている。──否、それを追い詰めるとは言わないだろう。
天乾の跡継ぎを産み、妻の責任を果たして花家の名誉を保ったら、側妻を持ってもらいたい。夫婦の営みはそちらに任せ、以降は別々に暮らしたい──そう思いながら嫁いだのは、花采蓉なのだ。
「──私は側妻を取ると告げられた時、離縁してくれるように頼みました。義母の暴言に疲れ果て、夫は頼りにならず、長年の忠孝も奉仕も認められなかった。成果がなければ、人生は虚しい。何も成さずこれ以上我慢しては、私という人間があまりに哀れだと考えた結果です」
整然と語られる趙氏の過去は、一つの縁の後始末だった。酷い痛みは伴うが、きれいで後腐れがなく、覚悟を決めれば前を向ける形の。
しかし始末をつけられない縁も、成果のない人生も、この世にはいくらでも転がっている──。
「芳修にも譲れないことがあるのでしょう。それを貫ける環境にあるのなら、貫いていい。でもそのために手が届かないものがあっても、不服に思ってはいけません。それが、選択するということです」
不服に思ってはいない、と言ってもすぐに嘘だとわかってしまうだろう。
見せてはいけないと言われたばかりの、「そのような顔」をしているだろうから。
結婚して、もうすぐ十月。
日々は穏やかに過ぎていくから、花采蓉は何もしなかった。
夫の謝罪を待ち続けるだけで、自ら胸の内を打ち明け、向き合うことはしなかった。心配を掛けてしまうとわかっているから、次兄にも話していない。
今でも、嫁がず花家の儒医になりたかったという思いはあるが、景家での日々を──好きな人と紡ぐ暮らしを、愛おしく思っていないと言ったら嘘になる。だから近しい人には、何も言えないのだ。
話したのは一度だけ──遠い修武の朧月夜、義兄にだけだった。
(謝ってくれないのは、わかっていないからではなくて、──地坤の気持ちなんてどうでもいいから?)
それでも毎夜肌を貪るのは、男子たるもの健全な欲望の捌け口は必要で、ついでに地坤を嬲りたいから──?
珍しくすっかり萎れてしまった花采蓉に、趙氏は残りの緑豆糕と、七夕用に試作した巧果という揚げ菓子も持たせて見送った。
民は食を以って天と為す──生きることは食べること。どんな悩みも、少年の食欲には優先順位を譲ることを、この一月余りで看破していた。
「……あまりにも素直だから、毅哥は扱いかねているのかしら」
一族でも子供嫌いで有名な幼馴染が、あの仏像のように穏やかで底が知れない景廷毅が、十一も年下の地坤の妻を溺愛し、手玉に取ろうとして空回りしていると知った時には、──衝撃のあまり、落ち着こうと始めた刺繍の手が止まらなかった。
仕上がった香嚢は近年稀に見る良い出来だったため、真の功労者である子犬のような少年に贈ったところ、とても喜ばれた。日が差すような笑顔に、同じ地坤でも、熟れきった夜来香のようだった薛氏とは正反対だと目を瞠ったものだ。
若さに似合う爽やかな瑞香を詰めて、ここを訪れる時はいつも腰に提げており、そうした素直さは尚書公夫妻にも好まれているが──。
「それでも、寧姑を欺くのは良い考えとは言えませんね」
背筋を伸ばしてしばし沈思した後、趙氏はゆっくりと墨を磨り始めた。
生ぬるい午後の風に、墨の清香がゆるりと溶けていく──。




