春日巡荘(荘園視察)
太行山脈の険しい稜線が、午後の柔らかな光に溶け、群青色の影を落としている。そこから吹き下ろす風は、峻烈な岩肌と深い森を潜り抜けてきた清涼な気を孕むが、竹林に遮られた池のほとりでは、春の陽気に温められて柔らぐ。
湿った土と芽吹いたばかりの草木の青い匂いが混じり合い、吸い込むたびに五臓六腑が洗われるような心地好さ──こくりを舟を漕ぎ、花采蓉ははっと目を覚ました。
慌てて手元を見るが、かろうじて竿は手放さないでいたようだ。
「気持ちよさそうに居眠りしていたな」
ほっとして竿を握り直したところを、すかさずからかわれる。呑気な居眠りを見られた決まりの悪さに、つい唇を尖らせた。
「義兄上、起こしてくださればいいのに」
いかにも子供っぽい仕草に吹き出したのは、景廷章。
景家の長子であり、景廷毅の五歳上の異母兄、──そして阿慎の父である。
彼も景大夫人の実子ではなく、今は亡き側妻の所生である。大夫人の実家からついてきた、幼馴染のような腹心の侍女が、嫁して五年経っても懐妊の兆しがない主の体面を守るために、子を産むことを期待されて側妻となった。
自分のために夫の側妻となり、待望の男子を産んですぐに亡くなった侍女を、大夫人は心から悼み、今も手厚く供養している。その供養には、残された赤子を──二代に亘って立派に育て上げることも含まれた。
彼女の養育は、ある意味で成功し、ある意味では失敗していた。
景廷章は重い病に罹ることもなく、尚書家の御曹司に相応しい好青年に育ったが、五度目の科挙の受験中に倒れた。
試験期間中、受験生は貢院(科挙の専用施設)の、正面の壁がない吹きさらしの独房に閉じ込められる。そこで煮炊きもしながら三日間の試験を受ける中、孤独と重圧で発狂する者もいた。彼にも、気の病という噂があった。
そうした事情は、嫁ぐ前に次兄から知らされていた。今は、開封から三日の距離のこの地──懐州修武に住む彼が、弟の婚礼にも招ばれなかったことが、一族における彼の立場を象徴していた。
今回花采蓉がこの地を訪れたのは、彼に会うためではなく、景氏が所有する荘園の視察のためである。
荘園管理は一族の収入に直結するため、家政の中でも特に重要だが、景大夫人も高齢である。普段は専任の管理人に委任しており、不正や横領を防止するため、年に数度本家から家令を遣わして監査を行っていた。嫁いで半年の「少夫人」も、一族の祖地にある家廟への参拝を兼ねて、監査の同行を命じられたわけである。
景廷章は、家廟の墓守として家を出されたため、この地を訪れたら彼に会うことはわかっていた。
科挙に何度も失敗し──これは至って普通のことであり、天乾の弟が突出しているだけなのだが──、放蕩の末に幼い息子を残して家を追われた、いわくつきの長男である。義父母や夫がいない中で対面するのは、少々気詰まりだった。
──が、雄大な黄河を渡河しての道中、そして太行山脈の裾野に広がる修武の美しい風景に、十九歳の好奇心がささやかな気鬱を凌駕してしまった。
「まったく芳修は面白いな。一目見れば名残の桃花の化身かと思うが、泥だらけになるのもかまわず畦の補修を手伝ったり、かと思えば帳房先生にまとわりついて算木の使い方をあれこれ質問したり。手入れをしていない山裾まで、悪路もかまわず延々歩き回って……あれは従者が気の毒だった」
「おかげで、手付かずの地黄の群生地を見つけましたからっ」
「はいはい、お手柄だったな。ひ弱なお坊ちゃんが来たと思ったら、意外にもしっかりしていて感心した。流石、二弟の選んだ嫁だ」
嫌味な風でもなく、微笑みながら景廷章が言う。あまり似ていない兄弟だが、目を細めて愛おしむように笑うところはそっくりである。
夫の態度からも察していたが、兄弟の間に確執はないようだ。何よりもそのことが、花采蓉の心を軽くしていた。
放蕩と深い挫折に荒み、世を拗ねた人物を想像していたが、景廷章はいたって気さくな人物だった。元々の資質が科挙の重圧で一時的に歪められたのか、もしくは取り繕っているだけなのか──それはわからない。
少なくとも、監査団の一行を丁重に迎え、使用人に命じて部屋の案内や歓迎の宴を差配する姿は堂に入っており、家廟を擁する荘園屋敷の主として、周囲から敬われていることは見て取れる。耕作地や竹林を見て回る際も付き添ってくれ、小作人たちの話を聞く時は仲立ちしてくれた。
彼らには親しみを込めて「大郎」と呼ばれており、普段から交流があることが窺える。日に焼けた顔も、屋敷に引きこもって暮らしているわけではないことを物語っていた。
仕事が一段落した今日は、こうして釣りに誘ってくれたが、餌を付けるのも竿を振るのも手慣れたものである。
つまり、明朗で活動的、人望があり面倒見のよい若主人である。兄という属性にすこぶる弱い花采蓉が、ころりと懐いてしまったのは無理もないことだった。
「二弟も大概しっかり者だから、お似合いの夫婦だな」
「僕がしっかりしているのは、哥たちのおかげなんです」
夫の功績ではないと、さりげなく釘を刺す。さりげなさを強調するために、竿を上げて確認してみる。
取れたのか食われたのか、針には何も付いていなかった。
再び餌を付けてくれながら、景廷章が言う。
「しっかり者を育てた兄上から、そろそろ返事が来る頃だろう。手紙を出すまで、随分忙しそうにしていたね」
「地黄の加工の算段と、今後の栽培計画を練っていたから……。義兄上にも助けていただいて、とっても助かりました」
かつて伝説の『竹林の七賢』が集ったこの地では、小麦と竹材が主な産物である。
景氏の荘園もこの二つが大きな収入源であり、見回りという名の山野散策に勤しんでいた花采蓉が林縁の未耕作地に見つけたのは、開花したばかりの地黄の群生だった。
「数本試し掘りしたものは、すべて赤子の手首より太かったので、『肥地黄』に分類されます。二哥に送って鑑定を頼んでいるけど、僕の見立てと同じだと思います」
「つまり?」
「この荘園に特産品ができ、小作人は工賃を貰え、花家は良質な薬材の仕入れを確保できる。つまり、三方よしです」
地黄は、万能の養生薬として非常に重宝される。五臓の不足を補う極めて重要な生薬であり、需要が多い分、偽物や粗悪品が混じりやすいことが薬舗の悩みの種である。
老舗の薬舗を営む花家でも、仕入れ時の検品には特に気を遣っていた。この荘園の極上の地黄を独占的に買い付けられたら、その負担は大きく軽減されるだろう。
「ただ、地黄は大地の精気を吸い尽くすといいます。同じ場所に植えるには、十年待たないといけないんです。その間、地力を回復しつつ収穫も得られる輪作の作物も、小作人たちと考えました。今開花しているものも、二年目のものは旬を過ぎて、この秋の収穫では硬くなっているはず。それを種根にして、来春から本格的に栽培を始めたいんです。適地であることは証明されていますから。天日干しまでここで済ませれば、乾燥して軽く小さくなる分、輸送にも向きますよ」
「確かに肥地黄なら、小麦よりよほど高値が付くな」
「帳房先生に確認したら、小麦一石(六十㌔)と、天日干しした最高級の肥地黄一斤(六百㌘)は、同じ売価になるそうです。輸送費を考えたら……」
同じ重量でも、百倍の利益が出る。
にっこりと満面の笑みを浮かべる弟嫁に、景廷章はわかりやすくぐるりと目を回してみせた。
「やれやれ、噂通りだな。花のような姿をして、花家の者は頭が切れる」
この場にいるのが自分であることを、景家の人々は感謝した方がいい──まったくアタリのない竿を小刻みに振りながら、花采蓉は思った。
もし次兄が花家当主の立場で訪れていたなら、あの麗しい花の顔にあでやかな笑みをたたえ、魅了した相手を鮮やかに言いくるめる。仕入れ値をつるりと下げさせて、さらにはその場で証文も手に入れていただろう。
一方で花采蓉は、義兄に感謝もしていた。
初対面から芳修と呼び、地坤の弟嫁だと見くびることなく、当たり前のように仕事を任せてくれたことに。
農村の夜の暗さと静けさは、不夜城の開封育ちには縁のないものである。荘園屋敷に着いた日はちょうど新月で、その闇の深さに花采蓉はこっそり怯えていた。
儒医の花家では、幼い頃から五経を学ぶが、末っ子は話本も隠れて嗜んだ。怪異譚などは大好きなのだが、その余計な知識と想像力が、真っ暗な農村の夜を不必要に不気味なものにする。
しかし、今宵は満月。
街の明かりに邪魔されることのない月の光は、煌々と地上を照らし、朧月でもはっきりと影を作る。上着を羽織り、居所の階に腰掛けての月見は、まったく怖くない。
「いい月だなあ……」
深く吐いた息は、満足の吐息だ。──あと、会えない寂しさが少し。
こちらに来て二週間、毎日が充実している。自分の持つ知見でやるべきことを見つけ、周囲の協力と教えを請いながら、関わる人すべてがより良い日々を営む道筋をつけられた。軌道に乗るまでは長い時間が掛かるが、役に立てたことがうれしい。
開封の景家では、花采蓉は景廷毅の妻であり、それ以外の何者でもない。
蔵書楼には自由に行けるし、無心に慕ってくれる阿慎は可愛い。実家に行くことも咎められず、阿月も次兄の心尽くしの土産とともに遊びに来る。結婚前に想像していたより、遥かに意のままになる生活──しかしいくら懸命に学んでも、儒医として働くことはできない。
何かを成すことはない──子供を産むこと以外は。
登高の外出をした日から、新婚夫婦は殆ど毎日、夜の営みを持つようになった。夫の求めは情熱的で、鋭い極みを得た時には、そのまま眠りに追いやられるほど執拗だ。
視察という空白のおかげでようやく消えたが、この半年、花采蓉の肌は、吸われた赤い痕で常に彩られていた。
裏切られたと思っていても、元々は加冠役をお願いした、親族のような師のような夫である。親密な時を重ねるほど、距離も少しずつ近くなる。
それでも、二人はまだ、真の夫婦となっていない。
ただし、繋がること以外、夫はしたいことをすべてしている──気がする。
結婚前も十分やさしい景哥だったのが、本来なら侍女に任せるところを手ずから髪を洗ってくれて、毎朝丁寧に梳いてもくれる。食事では毎回好物を取り分けてくれるし、連れ立って歩く時は守るように腰に手を添えてくる。
実家で暮らしていた時と同じ──次兄がしてくれたような扱いだ。
『私のすることを受け入れてくれ。──これからも、すべて』
初夜の「取引」の条件である。
盾に取られたら拒むこともできず、そもそも兄のように大事にしてもらうのは、くすぐったくて、うれしい。だからお返しに同じことをするようになり、傍目には熱愛中の新婚夫婦にしか見えなかった。
仲睦まじい様子に、景大夫人は口には出さないが、いつ孫の顔を見られるかと楽しみにしている様子が見て取れて、申し訳ない気持ちになる。どれほど仲良くしていても、種が蒔かれていないのだから、実ることもない。
それでも夜は夜で、子作りの一歩手前の色々なことをしている。妻の肌で、夫の舌と唇が触れていないところはなく、妻も夫の体に触れることを求められた。
思い出すだけで頬が熱くなる、睦み合いの数々──目隠しをされ、何をされるのかわからない状態で、弱いところを一つ一つ言葉にしながら暴かれた時には、羞恥のあまり本気で泣き出してしまった。
(どうしたらあんなにいやらしいことを思いつくの……?)
二十歳で進士及第するような天才の頭には、常人には思いも寄らないからくりが詰まっているに違いない。
訳がわからなくなるまで追い詰められて、泣かされるのは情けないが、──気持ちがいいことは嫌ではないし、触れてもらうのはうれしい。新婚初夜には感じなかった天乾の信香を連日浴びせられ、頭がぼうっとしても、害はないから何も言わずにいた。
それに、信香を放ち汗を浮かべながら見下ろしてくる夫は色っぽくて、見つめられると背筋がぞくりと粟立つのだ。兄たちとは種類が違うが、これほど誰かを綺麗だと思い、見惚れることはなかった。
しかし、それで発情期に陥るかといえば、話は別である。
花家が代々営む薬舗は、一族の身を守る牙城。天乾との不幸な接触を避けるための、二百年以上に亘る知見の蓄積である。
一族の者は、体質に合わせて調合した特別な清心丹を、幼い頃から服用して育つ。花采蓉も専用の清心丹を常用しており、夫の信香に少々体調を崩すことはあっても、惑わされることはない。
これは一族の秘密であり、花家の地坤が高嶺の花と言われるのも、その美しさと、簡単には靡かない堅固な貞操に由来していた。
(もしかして……信香でおかしくなった僕が、抱かれたいと言い出すと思っているの?)
もしそうなら、──実に天乾らしい短絡的な思考である。大間違いである。
あらゆる手段で、景廷毅の妻という立場は悪くないと諭しているのかもしれないし、それは事実ではあるのだが、自分にとって決定的に大切なことを、理解してもらえないのが悲しかった。
ならば、この荘園視察は絶好の機会だ。
地黄を特産品として流通させ景家に利益をもたらすことで、認めてもらいたい。花采蓉は、兄たちのように、自分の足で立てる一人前の男だと。
そして、謝ってほしい。自立の道を閉ざしたことを。
そうでないと、幼い頃から儒医となるべく努力してきた自分が納得しない。現実を理解していても、どうしても真の夫婦となる踏ん切りがつかない──そこに恋心があったとしても。
平行線のまま暮らしていくことはできないと、わかっていた。
現在の厚遇は、いずれ天乾の跡継ぎを産むことを期待されてのことであり、花家の名誉にも関わってくる。末っ子が天乾を産まなければ、「花家の出来損ない」という中傷が、次兄にまでも降り掛かる。召された長兄が天乾を産んだおかげで聞かなくなった、次兄への残酷な中傷だ。
「早く謝ってくれたらいいのに……」
「……私が何かしたか?」
突然後ろから声を掛けられ、花采蓉は飛び上がりそうになった。
全身の毛を逆立てた猫のような反応に、景廷章が「すまない」と苦笑する。
「驚かせるつもりはなかった。夜は冷えるから、温かい月見酒を持って来たよ」
手にした盆には、温酒と炒った木の実。
隣に座った義兄から、温めた酒杯を渡される。こうした細やかな気遣いもあの人に似ている、と思うと切なくなった。
「──本当に、私は何かしたか?」
手の甲で目元を拭っていると、気遣うように問われる。
花采蓉は、小さく首を振った。
「では誰が、芳修を泣かせているのかな」
「……景大人に決まっています!」
ぐびっと杯を呷れば、景廷章が弾けるように笑い出す。
あまりに愉快そうなのが気に障り、じっとりと義兄を見つめると、視線の先の大笑いが苦笑に変わった。
「ああ、すまない。こんな愉快なことはなかなかなくてね。あの何事にもそつのない二弟が、愛妻には『景大人』などと冷たくされているのかと思うと、おかしくて……っ」
「冷たくなんてしてませんっ。夜の蜂蜜湯はふぅふぅして飲ませてあげるし、髪だって洗ってあげてます」
「……それはそれは。実にお熱いことで……」
さらなる笑いを無理矢理呑み込んだ、神妙な顔で相槌を打たれ、慌てて口をつぐむ。
嘘は言っていないが、「ふぅふぅして」というのは適切ではなかった。阿慎を相手するように話してしまった。
実際は、「息を吹きかけて」だ。
「そんなに睦まじいのに、何故『景大人』と呼ぶ? 妻が夫を呼ぶには、随分距離のある言い方だが」
「……どうしても譲れないことがあるんです」
「その譲れないことを、二弟が邪魔していると?」
「『邪魔』ではなく、『一生できなくした』です」
指先を温めるように、花采蓉は両の手のひらで酒杯を包んだ。
「景大人は……景哥は知っていたんです。大人になったら儒医になって、二哥を助けて、阿月と花家を守るつもりだったこと。四つの頃から遊んでくれたり、勉強を見てくれたりしていたんですから」
両手で掲げ、また酒杯をぐびりと呷り、空になったところに銚子の酒を勢いよく注ぐ。銚子は温碗で温められて、中の酒も冷めていない。
その隣でちびちび飲りながら、「そんなに小さな頃から目を付けていたのか……」と景廷章が複雑そうな顔で呟く。
「僕は全部諦めて嫁いだんです。大切にしてもらっているけど、景家の嫁になってしまったから、僕の夢は絶対に叶わない。景哥のことは好きだけど、僕が妻でいることを当然だと思わないでほしいんです。傷つけたって……裏切ったんだって、わかってほしい」
最後は、鼻声になっていた。
出会って二週間しか経っていない相手なのに、これほど素直に吐露してしまう理由はわかっていた。
景廷章が面倒見のいい兄貴分の典型であること以上に、京城で待つ夫の面影を宿しているからだ。
わかってもらえなくて泣きたくなるほど、景廷毅という人を好きになっている。
そう気がついたのは、ささやかなきっかけだった。
出会った頃のことを思い出せないほど、景廷毅は花采蓉の人生の傍らにいる人である。
つまり、やさしくて賢くて頼り甲斐のある景哥がずっと側にいたわけで、彼の美点などとうに知り尽くしており、改めて好きになる点など残されていない。──そう思っていた。
恋に落ちるきっかけは、必ずしも相手の長所ではないことを、花采蓉は知らなかった。
起居郎である景廷毅の仕事は、皇帝の側でその言動をすべて記録することである。常に緊張と正確さを求められる職務であり、朝議が紛糾した時などはその負担も著しく、心身ともに頑強な天乾であっても、憔悴して夜遅くに帰宅することもあった。
二月前のその夜、景廷毅は珍しく、いかにもくたびれた風で妻の居所を訪れた。
「流石に今日は疲れた……」
こめかみを揉みながらかすれた声で呟く姿が新鮮で、花采蓉はまじまじと見入った。四歳からの付き合いでも、常に完璧な憧れの人──景哥のこのような姿は見たことがない。
「あの、膝枕、しますか?」
「……え?」
「頭が痛いんでしょう、揉んであげます。腕前は二哥のお墨付きだから、安心して」
さあさあ、と戸惑う夫を半ば強引に寝台に追い立て、自分はその縁に座る。膝枕に載せた頭の重みは、久しぶりの感触だった。
「髪もほどきますね」
頭頂できつく結い上げる髪型も、頭痛の種になる。
ほどけば豊かな黒髪が、寝台の上に広がる。親からもらった体を損うことは不孝に当たるため、男女とも腰を覆うほどの長い髪を、普段は高く結い上げてまとめているのである。
そうして、こめかみと首筋、手首から肩まで、丁寧に揉んでいく。膝枕の困惑顔が、徐々に安らかにゆるんでいくことに、花采蓉は満足を覚えた。
不思議な光景だった。どう背伸びしてもかなわない大人の景哥が、こうして十一も年下の弟分に、無防備に身を任せている。
(大きな犬みたいで、何だか可愛いな……)
稀有な天乾。景家の嫡子。吏部尚書の子息。眉目秀麗な、二十歳で進士及第した天才。
そうした肩書きに覆われた人物像は、世に広く知られている。
しかし弱音を吐いたり、膝枕で寛ぐ姿は、自分しか知らないのだ。
これが結婚ということなのか、と突然花采蓉は気がついた。
ともに暮らし、時には弱味を見せても補い合う。それを負担とは感じずに、むしろ満たされるように思う相手、それが夫という人なのだ、と。
天乾であることは、関係がなかった。
景廷毅が天乾で、花采蓉が地坤でなければ、男同士の結婚は認められていないから、手続き上は必要なのだが、心が伴侶として認めるのに、相手の性は関係ない──。
そのまま寝入ってしまった夫が、足の痺れに悶える妻の不自然な動きで目を覚ますまで、花采蓉はその寝顔を見守り続けた。やけに大きな鼓動が、息を苦しくさせた。
それは、結婚後に訪れた初恋だった。
目が合うと胸が高鳴るようになってしまった人と、夫婦として暮らすのは、本当に心臓に悪い。これまでに読んだどの医書にも、治療法は書かれていなかった。
それでも──だからこそ、好きな人にはわかってほしかった。なし崩しに結ばれてしまったら、これまでの自分が、これからの自分を嫌悪し続けることになる。
結婚前は、そうなるだろうと諦めていた。心を閉ざして生きていくことを、覚悟していた。
でも今は、これからの二人のためにも、自分の気持ちを諦めたくない──。
何年も会っていないから何とも言えないが、と前置きした上で、景廷章は話し始めた。
「私の知る二弟は、そこまで強引でも鈍くもないはずだ。あいつもここに来ていれば、話を聞いたんだが。──屋敷では、誰にも言えずにつらかっただろう。幸か不幸か、ここで何を言っても京城には届かない。溜め込まずに、全部吐き出して帰りなさい」
本格的に泣いてしまいそうなのを、花采蓉はぐっと堪えた。
「何を言っても」いいのなら、二人きりの場でぜひ聞きたいことがあった。
自分一人の悩みなどより、もっと大事なこと──三人の幸せに関わることだ。
「義兄上は……戻りたくはないのですか」
「──居場所がないところに戻るというのは、なかなか難しいことだ」
この流れで、自分のことに言及されるとは思っていなかったらしい。
景廷章は、しばらく間を置いてから答えた。
「それに何より、今ではこの地が私のいるべき場所だと思っている。村人たちとともに、どうしたら収量が上がるか知恵を絞り、日照りや蝗害が起こらないように祈る。雨の日は、雨粒が竹林を打つ音に耳を洗われながら、詩作に興じたりする。晴れても雨でも、とても豊かで、満ち足りた日々だ」
「でも阿慎は、いつも爹爹を探しているんですよ」
それに、一族の名に泥を塗った不肖の息子を、本家の女主人として表立って庇うことはできない景夫人も、心の中では、手塩に掛けて育てた長男が戻ることを望んでいるに違いないのだ。
その子である血の繋がらない孫──阿慎を、目に入れても痛くないほど可愛がっているのだから。
「ここで無官の父親を手伝いながら県城の学堂に通うのと、母上の元で一流の教育を受けながら育つのと。どちらがあの子の将来のためになると思う?」
父親の顔で静かにそう言い、景廷章は一息に酒杯を乾した。
「すべての職業は卑しく、ただ学問のみが尊い」という。
学問の末に科挙に合格して、朝廷に仕えることこそが男子の絶対的な正解である世において、彼の言葉は冷静に現実を見つめたものだった。
「私はここで生きることの喜びを見つけたが、我が子に同じ道を歩ませたいとは思わない。科挙に立ち向かうことに私は耐えられなかったが、息子にはぜひ合格し、名を上げてほしいと思う。──身勝手な親だろう」
「……多かれ少なかれ、生きていれば皆、身勝手になると思います」
「私より十五も若いのに、達観したようなことを言う。……君は、背負うものが遥かに多いだろうが」
花家の地坤に生まれたことを言っているのだと察したが、口には出さない義兄の気遣いがありがたかった。
花家の地坤に生まれたことを、恨んだことはない。
しかし花家の地坤に生まれなければ、自ら招いたわけではないこの理不尽な苦しみは、最初から存在しなかった。
「君は諦めるつもりはなかったのに、諦めなければならなかった。科挙から逃げた私とは違うが……現実を見つめ、行動する強さと賢さがある。地黄の件で『三方よし』を目標に掲げた時には、本当に感心した。学んできたことを、立場は変わっても活かしている。儒医にはなれなくても、景家を使ってできることがあるはずだ。そのために嫁いだのだと思えるような──それを模索してみたらどうだろう」
「義兄上……すごく難しいことを言ってます……」
「大丈夫、芳修は諦めない子だろう」
「子供扱いしないでください。僕、もう十九ですからっ」
「そうやって口を尖らせるところは、まだまだ子供だ」
改めて始まった月見は、楽しかった。
春宵一刻値千金──長幼の序はとりあえず横に置いて、軽口を叩き合い、杯を重ねる。
鬱屈がすべて晴れることはなかったが、清かな月光に照らされて、胸につかえたものが少しほどけたような気がした。
(これまでの自分と、景家を使ってできること──)
もらったばかりの新しい考えが、頭の中を巡る。
まったく形もないそれを追い掛けているうちに、花采蓉は義兄に凭れ、心地好い眠りに落ちていった。
「──安心したよ。二弟の地坤嫌いが治ったようで」
支えてくれる腕の温かさに安心を、かすかに届いた呟きに違和感を覚えながら。




