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路地裏の灯火  作者:
4/9

刑死者の安らぎ

路地裏に夕闇が迫る頃、店の鈴を鳴らしたのは、背中の丸まった1人の老人だった。


「この香りは…何だったかな…」


腰を痛めているのか、さすりながら歩んでくる。

くたびれた目をし、長年背負った重たい荷物を担いだように、ゆっくりと。


「どうぞ、こちらへ」


対面の椅子へと促し、月の雫のハーブティーを丁寧に淹れる、老人へとそっと差し出す。


「あぁ…ありがとう。いい香りだ…長年埃っぽい石畳を這いずってきた鼻が、洗われたわい…」


疲れた笑いを小さく浮かべ、老人は震える手でカップを持ち上げ、清涼な香りを深く吸い込んだ。

そして同じ量の息を吐いてから、お茶を一口味わう様に飲んだ。

ふぅと溜息をつき、肩の力を抜くのを穏やかな微笑で見守る。そして、静かに言葉を紡いだ。


「ようこそ。今日は、どのような運命をお探しですか?」


老人はカップの温かさを逃すまいとするかの様に、両手で包み込みながら話出した。


「わしは、長い間…それはもう、ずっとこの町の石畳を整えてきたんだ。だがな、最近腰を痛めてしまってな…いよいよ限界が来てしまったんだよ…」


そう言って、お茶を一口飲む。

ふぅと溜息をつく。


「引退するしかなくなっちまってな…仕事をとっちまったら、わしには何も残ってないように思えてな…どうにも…な…」


私は静かに頷き、相棒をシャッフルする。

丁寧に円を描くように、ゆっくりと混ぜながら、集中。

ひとつにまとめ、3つの山にし、再びひとつに合わせる。

その中から1枚目を選んで貰う。

ワンオラクル。

彼の選んだ1枚をそっとめくる。


「なっ…これはっ…」


逆さまに吊られた男

―――刑死者のカード、の逆位置


「…わしは、罪人みたいなもんなんだな。家族を養う為に、地べたに這いつくばって…必死に働いてきた…働いて、働いて。挙げ句に、身体を痛めて…何の使い物にもならなくなってしまった…この札は、わしの惨めな人生を笑っているんだな…いや、誘っているのか…?お前も早く、首をくくれと…」


「いいえ。違いますよ」


私は静かに、ゆっくりと訂正していく。


「まずは、この札。刑死者の逆位置。首を吊っているのではなく、足を吊っています」


「…首も、足も、吊られた刑死者に変わりはないのではなかろうか…?」


確かに!とは思うが、随分違うのだ。


「…いいえ。この札の男の顔をよく見て下さい。苦しんでいますか?」


老人が目を凝らすと、札の中の男は苦悶する所か穏やかな表情を浮かべ、ぶら下がっているだけだった。


「これは自己犠牲を表すものではありません。あなたが誤った方向を向き、投げやりになり、心をすり減らさないように警告を表しています。つまり、視点の変化を意味しています」


老人のカップを包む手の力が緩む。


「あなたはこれまで、町の人達の足元を支える為に、ずっと下を向いて働いてこられましたね?今、身体が動かず、立ち止まってしまう時間を罰を受けたかのように感じるかもしれませんが、そうではありません」


老人は息を飲み込んだ。


「決して罰では、ありません。今は動かずに。別の角度から世界を眺めてみなさいと教えてくれていますね」


「別の角度から…」


「はい。立ち止まったからこそ、見える景色を、です」


そして小さな窓へ視線を送り、老人を促す。

ノロノロと老人も視線を窓へと向けた。


「石畳の上の夕陽、あなたが直した道を歩く人々の笑顔、その他にもたくさんあるでしょう。それに気付く為の大切な停止なのです。札は、今の状況を受け入れることで、精神的な充足を、心の豊かさを得られると伝えています」


「動けなくなったのは、罰じゃ無かったんだな…大切な停止か…」


老人は深く頷いた。


「そうだな…たまには空をずっと眺めているのも良いもんだろう。下ばっかり見てきた人生だ。これからは、逆さまに世界を見てやろうじゃないか」


そう言うとお茶の残りを一気に飲み干し、晴れやかな笑顔を浮かべ、机の上に、数枚の銅貨を置いた。

それは誇りを持って稼いだ、重みのある報酬だった。

魔石のランプをつけ、カラン、と鈴を鳴らし老人が去るまで穏やかに見守った。



魔石のランプの下で、日記にペンを走らせる。


『刑死者のカードは、停滞の中にしかない光を教えてくれた。先代が残してくれた路地裏も、大きな光を浴びれない者たちが、逆さまの世界を見つめて安らぎを得る為の場所なのかもしれない』


老人が去ってから数週間後の朝。

月の雫を湿らせた布で、タロットを浄化しながら石畳職人だった老人を思い出した。

彼の見つめる逆さまの世界は、心の安定を導けたかな…と。


夏の陽射しが大分穏やかになってきた日の午後、買い出しに出た私は、以外な場所で石畳職人だった老人を見かけた。

老人は、自分がかつて整備しただろう場所、石畳のすぐ脇にあるベンチにゆったりと腰を下ろしていた。

かつてのような、くたびれた目はしていなかった。

背筋をピンといかないまでも伸ばし、穏やかな表情で町を眺めていた。

老人は、先代の水晶の様に澄んだ瞳で、石畳の上を歩く人々を見守っていた。


駆け回る子供達の足が石畳で躓かない事。

重い荷物を抱えた若者が丈夫な石畳の上を安心して進んで行く事。


「下を向いて働いてた時には、使う奴らの顔なんて1つも見てなかったんだがな」


後日、老人は再び訪れた時に、そう照れながら語って、お茶を一口飲み、ふぅと深く息をついた。


「お嬢ちゃん、あの札の通りだったよ。動くのをやめて吊るされてみたら、わしがどれほど素晴らしい仕事をしてきたか、ようやく見えたんだよ。この腰の痛みだってな?町のみんなを支えた勲章みたいに思えてきてなぁ?」


老人はそう言うと、晴れやかな笑顔をみせ、机の上にそっと数枚の銅貨を置いていった。

この銅貨もまた、重みがあった。


その夜も、魔石のランプの下で日記を書く。


『今日は逆さまの世界を見つめていた方が訪れた。かつては絶望に沈んでいたが、今は停滞の光を存分に浴び、誰よりも心が豊かに見えた。刑死者が教えてくれた視点の変化は、過去の色さえも塗り替えたようだった』


今日の銅貨で買ったスープは、とても豊かな味がした。

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