33 続きからはじめる(1570年11月4日 京)【逃れる者と追う者】
『1570年11月5日 京――』
夜明け前。
京の空にはまだ薄い霧が残っていた。
だが都の空気は重い。
町衆は戸を閉ざし、公家屋敷では牛車の準備が慌ただしく進められている。
「明智様が帝をお連れになる」
「いや、織田が先に来る」
「また戦になるぞ……」
噂だけが静かに京を巡っていた。
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二条御所――
御簾の奥。
若き帝は庭先へ落ちる紅葉を静かに見つめていた。
その背後では女房たちが慌ただしく動いている。
「急ぎませぬと!」
「御車の準備を――」
「供回りは如何いたしましょう!」
落ち着きのない声が飛び交う中、帝だけが不思議なほど静かだった。
やがて。
障子の向こうから声。
「明智様にございます」
空気が張る。
ゆっくりと障子が開くと明智光秀(芳香)が姿を現した。
戦装束ではなく濃紺の直垂。
しかしその立ち姿にはまだ戦場の気配が残っていた。
光秀は御簾の前まで進むと、静かに膝をついた。
「帝」
しばし沈黙。
やがて御簾の奥から声が返る。
「……十兵衛」
光秀が顔を上げる。
「また都を戦場にするのか」
静かな問いだった。
責めるでもなく、怒るでもなく。
ただただ、悲しげな声。
光秀は少しだけ目を伏せた。
「……申し訳ございませぬ」
その言葉に周囲の公家たちがざわつく。
あの明智光秀が頭を下げた。
だが次の瞬間、光秀は再び顔を上げた。
その目にはいつもの冷たい理性が戻っていた。
「ですが、ここで信長に帝を渡せば天下は完全に織田のものとなります」
「それが何だと言う」
帝が返す。
「戦が終わるならばそれで良いではないか」
光秀は僅かに笑った。寂しげに。
「終わりませぬよ」
そして続ける。
「信長は止まりませぬ。あの者は天下を獲れば更に先へ進む。
天下布武とは、そういう事です」
御簾の奥が静まる。
「ならば其方なら止まるのか?」
帝。
光秀は答えなかった。
長い沈黙。
その後、光秀は静かに頭を下げる。
「御動座の準備をお願い申し上げます」
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『同刻、京南方――織田家』
織田軍の先鋒は既に山城国へ入っていた。
丹羽長秀と羽柴秀吉であった。
「急げ急げっ!!」
秀吉が馬上で叫ぶ。
その後ろでは、槍隊が街道を埋め尽くしていた。
長秀が険しい顔で言う。
「光秀は帝を連れ出す気だ」
「分かっとりますわ!」
秀吉が苛立ちながら返す。
「だから急いどる!」
その時、前方から母衣衆が駆け戻ってきた。
「申し上げます!」
「何じゃ!」
秀吉。
「伏見にて明智勢確認!」
空気が変わる。
「数は?」
「およそ五千!」
長秀が即座に地図を広げた。
伏見――京へ至る南の要衝だ。
「足止めか……」
長秀が舌打ちする。
「秀満でしょうな」
秀吉。
「しつこい男だで、ほんま」
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『同刻、伏見――明智家』
宇治川沿い。
白地桔梗紋の旗が風にはためいている。
その中央、馬上で前方を見据える男は明智秀満。
愛知川での負傷はまだ癒えていない。
肩には包帯。
だがその目に陰りは無かった。
「殿は、既に御所へ向かわれた」
静かに呟く。
傍らの兵が聞く。
「では我らは……」
秀満は太刀へ手を掛けた。
「時間を稼ぐ」
その一言だけだった。
だが配下たちは理解した。
ここは捨て石。
それでも誰一人退こうとはしない。
「……来ます」
前方に土煙が見えた。
黒い旗。
永楽通宝。
織田軍だった。
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京。
二条御所――
「御車の準備、整いました!」
女房が叫ぶ。
公家たちは青ざめた顔で右往左往している。
だが光秀だけは静かだった。
その時、藤孝が近づいてきた。
「殿」
「ん?」
「本当に、帝を連れて行かれるのですか」
光秀は少しだけ考えた後、笑った。
「嫌?」
藤孝は即答しない。
やがて低く言う。
「……都を捨てれば、もはや後戻りは出来ませぬ」
「後戻り出来る必要がある?」
光秀。
藤孝は黙る。
すると光秀は、ふっと視線を外へ向けた。
そこにはもう織田軍が迫っている。
「信長は強い」
ぽつりと言う。
「正面から戦えば、多分もう勝てない」
藤孝が目を見開く。
まさかだった。
あの光秀が敗北を口にするとは。
だが光秀は平然と続けた。
「だから戦い方を変える」
その目が細くなる。
蛇のように、冷たく。
「信長は天下を欲している。
なら私は――天下そのものを壊す」
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同刻。伏見南方――
「突破せよ!!」
秀吉軍が突撃した。
宇治川沿いが一瞬で戦場へ変わる。
「止めろ!!」
秀満が叫ぶ。
明智家の桔梗紋の兵たちが槍衾を作る。
そこへ織田勢がぶつかった。
衝撃と悲鳴が飛び交い、血飛沫が舞う。
秀吉は馬上で舌打ちする。
「硬い!」
長秀が冷静に叫ぶ。
「左右へ展開!川沿いを抜ける!」
だが、秀満はそれすら読んでいた。
「鉄砲隊!」
銃声が鳴り響く。
川沿いへ回った織田兵が次々倒れる。
「ぐあっ!」
「退くな!!」
戦線が膠着する。
その後方、丘の上からその様子を見ていた信長(真紀)は、静かに目を細めた。
「……明智秀満か」
官兵衛が頷く。
「はい。あれは時間稼ぎに徹しております」
「死ぬ気だな」
信長。
そして、ふっと笑った。
「ならば、望み通り時間を奪ってやろう」
皆が信長を見る。
信長は軍配を持ち上げた。
「勝家」
「はっ!」
「山へ入れ」
官兵衛が即座に理解する。
「まさか……!」
信長は笑った。
「正面で止まるなら、横から喰うまで」
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京。
二条御所。
ついに牛車が並び始める。
帝。
公家衆と女房衆。
行先は――西。丹波であった。
その移動が始まろうとしていた。
だがその時、遠く東の空から。
ぶおおおおおおおおっ!!!
法螺貝だ。
続いて地鳴り。
御所の空気が凍る。
「まさか……」
藤孝が顔を上げる。
光秀だけが笑っていた。
「来たねえ」
障子の向こう。
京の東に黒煙が上がり始めていた。
織田軍がついに京へ到達した。
天下を巡る戦は、新たな局面へ突入しようとしていた。




