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氷室の野望(仮)第弐巻 ~立志編~  作者: 和音


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32 続きからはじめる(1570年11月4日 京)【帝と公家】


『1570年11月4日 京――』



京の町は、静かだった。

いや、正確には静かすぎた。


この京はかつて足利義昭が治めていた都だった。

だが今は明智光秀が実効支配していた。


そして、愛知川での敗報は既に京にも届いていた。

「明智軍敗走」

「徳川が参戦」

「織田信長、勝利」

噂は瞬く間に広がり、公家も町衆もみな、固唾を飲んで情勢を見守っていた。



そして、二条御所――



「……負けたか」

静かな声だった。

そう呟いたのは近衛前久。

公家衆の中でも、今や光秀政権に最も近い男である。


障子の向こう、部屋には数名の公家が集まっていた。

誰も口を開かない。


やがて

「近衛様」

一人が恐る恐る言った。

「このまま……明智様は……」

「まだ終わっておらぬ」

前久が即座に遮る。

しかしその表情には焦りがあった。



愛知川で明智が負けた。

それ自体も驚きだったが、それ以上に"徳川が参戦した"ことは衝撃だった。


「織田と徳川が完全に結びついた……」

前久が低く呟く。

「これで畿内だけでは抑えきれぬ」


その時、障子の外から声。

「明智様、ご到着にございます」


全員の空気が変わった。




--------------------------




ゆっくりと障子が開く。


入ってきたのは明智光秀。

鎧は既に脱いでいる。

だが肩口にはまだ血がこびりついていた。


そしてその後ろには細川藤孝。

明智秀満と荒木村重が続く。


全員が疲弊していた。

だが――光秀だけは笑っていた。


「いやあ、負けた負けた」

あっけらかんと言う。


公家衆が絶句する。


「十兵衛殿……」

前久が立ち上がる。

「何を悠長な!既に織田軍は近江を制圧しつつあるのだぞ!?」


「うん」

光秀は平然と頷いた。

「知ってるよ」

そして、そのまま上座へ腰を下ろす。

まるで敗軍の将とは思えない。


「……何故、そこまで落ち着いておられる?」

藤孝が低く聞いた。

光秀は笑う。

「まだ終わってないから」

「ですが!」

珍しく秀満が声を荒げた。

「兵は三万以上失いました!和田惟政も討死!

諸将にも動揺が広がっております!」

「うん」

「京を守り切れる保証など――」

「だから捨てるんだよ」

光秀が遮った。


静寂。


「……は?」

村重が固まる。


光秀は扇を開いた。

ぱちり、と乾いた音。

「京は捨てる」

さらりと言う。

「山城も。近江も」

「なっ……!」

前久が絶句した。

「き、京を捨てるだと!?」

「そう」

光秀は笑う。

「信長は京を欲しがってる。

それなら、くれてやればいい」

「馬鹿な!」

前久が叫ぶ。

「都を失えば正統性を失うぞ!」


すると光秀は、ふっと笑みを消した。

その目だけが冷たい。

「正統性?」

低い声。

「そんなもの、勝った奴に後から付いてくるだけだよ」


空気が凍る。


光秀は続けた。

「いいかい?今の信長は勝った。

だから皆、信長へ流れる。だがね――」

口元がゆっくり吊り上がる。

「勝ち続けられる者など居ないんだよ」


誰も言葉を発せない。


「人は勝つほど歪む。権力を持つほど敵を作る。

信長はこれからもっと大きくなる。

だからこそ、必ず綻びる」


そして、光秀は静かに立ち上がった。

「私は負けたんじゃない」


障子の向こう。

京の空は、夕暮れに染まり始めている。


「――次の盤面へ移っただけだ」




--------------------------




『同刻 近江国・織田家 佐和山城――』



勝利した織田徳川連合軍は、各地の掃討を進めていた。



佐和山城内、軍議の間。

信長(真紀)は地図を見ている。


その周囲には

織田信広(誠人)。

羽柴秀吉。

柴田勝家。

黒田官兵衛。

丹羽長秀。

そして徳川家康と榊原康政。


愛知川の戦いでの勝利。

だがその空気は、勝ち戦にしては重かった。


「京を放棄……?」

秀吉が呟く。

「左様」

官兵衛が答える。

「明智軍は既に山城方面から退却を開始。

京の防備を縮小しております」

「逃げたか」

勝家が鼻を鳴らす。


「違いますな」

家康が初めて口を開いた。


全員が家康を見る。

「明智光秀は、逃げる時ほど危険でござろう」

静かな声だった。


「……徳川様もそう思われますか」

官兵衛。

家康は頷く。

「負けを認めるのが早すぎる。あれは次を見ておる」


信長は黙って聞いていた。


すると信広が言う。

「では追いますか?」

「追う」

信長は即答した。その目に迷いは無い。

「だが京へ入るのは後だ」

「……何故です?」

長秀が聞く。


信長は地図上の一点を指した。

そこは――丹波。

「光秀はここへ行く」

官兵衛が目を見開く。

「まさか……!」


「山陰道」

家康が低く呟く。

「畿内を捨て、中国方面と繋がる……と?」


信長は頷く。

「奴はまだ終わっておらぬ。ならば終わらせる」


その時だった。


「申し上げます!」

母衣衆が駆け込む。


「申せ」

信広。


「京にて動きあり!

帝、公家衆の一部が西へ移動を開始!」


空気が変わる。


秀吉が呻く。

「……連れて行く気か」


もし帝を伴って逃れられれば、光秀は“朝敵”ではなくなる。

正統性を維持したまま再起できる。


「やはり抜け目ない」

家康が呟く。


だがその瞬間。


信長が笑った。

静かに。だが獰猛に。


「ならば――」


全員が信長を見る。

信長は軍配を取ると、京を指した。

「先に帝を押さえる」


その一言で、この戦が単なる合戦ではなく、天下を巡る戦いへ完全に変わったのだと、誰もが理解した。




--------------------------




京の都。夜。

静まり返った御所の一角。

そこへ、一人の女房が慌ただしく駆け込んでくる。


「帝!」

御簾の奥。

若き帝が静かに顔を上げた。


「……何事じゃ」

「明智様より、御動座の準備をとのことにございます!」


沈黙。

若き帝はしばらく何も言わなかった。


やがて、ぽつりと呟く。

「また……戦になるのか」


その声は、誰にも届かぬほど小さかった。




今回の愛知川の戦いで、各武将のパラメータが変動しています。

次回更新して記載予定です。

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