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結婚と算盤~新妻の百貨店経営奮闘記~  作者: けもこ


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第5話 新妻、謎の見習いと出かける

目的をもって東京の街を歩き回るのは、実に楽しく充実している。

上野花菱館の後、翌日には白蝶屋本店はくちょうやほんてんへ行き、昨日は鈴屋百天館すずやひゃっかてん。そして今日は銀星百貨店ぎんせいひゃっかてんへ行く予定だ。


「梅。ついて来てくれるはずの丁稚の子は、まだ来とらんの?」

「ちょっと呼びに行ってきましょうか」


ダラダラと日々を過ごしていた時には、昼頃まで部屋でだらしない格好をしていた日もあったが、ここ数日は外が明るくなるとともに目が覚めてしまう。


毎日、見に行った店で気づいたことや興味深かったところを帳面に書き止め、それを眺めるのも楽しい。


そうこうしているうちに梅が、ハンチングを目深にかぶり、長い髪を後ろで束ねた、えらくスラリとした身なりの青年と戻って来た。どう見ても丁稚、という年齢ではないようだが。


「あ、あの奈江さま。今日はこちらの……」


珍しく梅が声を詰まらせながら、おどおどとその青年の方を見た。彼は、梅のその様子にふっと口元に笑みを浮かべた後、私に向かって笑いかけた。


「おはようございます、奥さま。ご同行させていただく運転手見習いの“さくや”と申します 」


屋敷で一度も見たことのない顔だが、正直、屋敷内の使用人は知らない人の方が多い。

運転手見習いができるくらいだから、それなりに裕福な家の息子で、勉強に来ているのかもしれない。

ハンチングのせいでじっくりとは見れないが、随分と上品な顔立ちだ。


「あの。申し訳ないけど、車で行く予定じゃないのよ。路面電車に乗るのだけど」


車を出すつもりで来たかもしれない、と思い、そう伝えると、さらに笑みを大きくして「承知いたしております」とお辞儀をした。


なんでも同行予定だった丁稚が急に腹痛になったとか。


昨日の夜のうちに調べておいた銀星百貨店ぎんせいひゃっかてんへの行き方を書いた紙を手に、2人に声をかけた。


「日本橋で市電を下りてから、ちょっと距離があるみたいなの。結構歩くみたい」


いつもなら、えぇ~、だの、へえへえ、だのと、なにがしかの返事をするはずの梅の声が聞こえない。

顔を上げると、梅は何やら心ここにあらずという感じだ。


「どうしたと?梅。具合でも悪いと?」


いつも厚かましほどの勢いで返事をするし、到底使用人らしからぬ物言いをする梅なのに、何やら様子がおかしい。


「あ、いえ、ええと……」


袖で汗を拭いている。


「梅さん。あまり調子が良く無さそうですね。もし奥さまが良ければ、今日は梅さんはお休みされてはどうですか? 私が奥さまについて行きますので」


さくやはそう言うと、薄い唇を弓なりにして、ともすれば妖艶ともいえそうな笑みを浮かべ、梅の表情を覗き込んだ。梅は手を前に突っ張ると、じりじりと後ろへ下がるようにして妙な顔をしている。

まぁ、こんな美男に顔を近づけられては、ちょっとドキドキしてしまいそうだけど。

とはいえ、梅はどうやら本当に具合が悪そうだ。


「今日は行くの止めようか?」

「い、いえいえ、そんな。私ごときの為に奈江さまが、そんなそんな」


いよいよ、梅の様子がおかしい。

博多からこっちに来て、自分の都合の良いように彼女を引きずり回していたことに、今更ながら配慮が足りなかったのでは?と後悔する。慣れない土地で心労もあっただろうに。


「梅。今日はゆっくり部屋で休んで。私も今日は出かけるの止めとこ……」

「それはいけません!」


梅が叫んだ。驚いて目を丸くしていると、慌てて取り繕うように額に手をおいた。


「あー、ちょっと熱があるかもしれませんし、風邪やったら奈江さまにうつっても困ります! 1人で大人しく寝ときます」


梅の眉間に寄った皺を見ると、頭か腹が痛いのかもしれない。

そう言えば来るはずだった丁稚も、急な腹痛と言っていたし。

変な病が家で蔓延していないといいけど。


でも、確かに私がいたら、ゆっくりとは休めないかもしれない。


「そう?だったら、今日は部屋で休んでて。私はさくやと一緒に行ってくるね」


梅は眉間に皺を寄せたままで、なんとも奇妙な表情をして、私と目を合わせない。

ここで立ち話をしているのも辛いのかもしれないし、と、早く部屋へ行くようにと伝えると、さくやに向かって頭を下げて、足早に屋敷の方へと向かって行った。

「さくやが気づいてくれて、助かりました。梅は今まで具合の悪いことなんてなかったものだから」


そう声をかけながら、庭の木立を抜けて裏口の方へと向かう。


「奥さまは、いつも裏から出かけておられるのですか?」


木戸を開けながら佐久弥がそう聞いて来た。


「表から出てもいいのだけど、こっちの方が路面電車の駅に近いのよ」

「車はお嫌いなんですか?」


運転手見習いの彼からすると、家人が車を嫌うのはあまり嬉しくないかもしれない。


「嫌いでは無いわ。どちらかと言えば好きよ。でも、この家のご大層な車であちこち乗りつけると、町の本当の姿が見えない気がするのよ」

「町の本当の姿、ですか」

「そう。店の人も車で乗り付けるような相手にはやっぱり態度が変わるでしょ?そういうのがあまり好きではないの」


そう言いながら彼の方を見ると、随分と楽しそうに笑みを浮かべている。いくつくらいだろうか。私より4つか5つくらい上か。

日に焼けていない白い肌が、彼が良家の子息であることを教えてくれる。


坂を降り切ると停留場の札の下には、すでに何人もの客が並んでいた。

やがて、遠くからチンチンと鈴の音がして、緑色の電車が大通りを曲がってくる。


隣に立つ青年は、物珍しそうに首を伸ばして、路面電車が近づいて来るのを眺めている。


「さくやは、路面電車に乗ったことはないの?」

「はい。お恥ずかしながら一度も」


東京の生まれではないのかもしれない。でも、田舎臭い訛りはないように思う。


電車に乗り込むときには、さくやが先に立って手を取ってくれた。


――こういうのは手慣れているのね


席に座るとカタカタと電車が動き始める。


乗車賃を回収しに車掌が私たちの前に立った。さくやは、梅に持たされた巾着を握ったままだ。


「さくや。巾着から14銭を出してくれる? 一人7銭なの」


慌てて巾着の袋を、白くて長い指が開ける。女性用の巾着など開け慣れていない感じが、妙に可愛く思える。

車掌が、小さな紙片を私とさくやに手渡す。その紙片を、彼は指で伸ばしながらしばらく眺めていた。


「はじめて市電に乗った時、私もワクワクしたの。車もいいけど、こういう乗り物もいいでしょ?」


振り向いたさくやに、ドキッとする。


近くで顔を見ると、随分な美男子だ。白い肌、細い鼻筋、とがった顎、切れ長な目。

昔、博多の寺で見た京雛のお内裏様のよう。


「そうですね。車とは違って開放感がありますし」


薄桃色の唇の端が、キュッと上がる。その顔が発光しているように見えた。ま、眩しい。


「さ、さくやは、いつから岸田の家で奉公しているの?」


思わず目を反らし、声が上ずってしまう。

正直、こちらに来てから妙齢の男性と2人きりで話をするなど無かったから、それを意識してにわかに緊張してしまう。


「最近です。奥さまは、岸田の家に嫁がれてふた月ほどですよね。快適にお過ごしですか?」


その言葉に、我に返る。そうだ、私は結婚しているのだ。岸田家の当主と。

まあ、その当主に、まだ会ったことないけど。


「家の方も奉公人も、皆良い方たちばかりだと思うわ。私のこんな我儘を放っておいてくれるのだしね」

「何よりですね」

「さくやは、ご当主の朔之介さまにあったことはある?」

「……いえ、ございません」


私が嫁いできてから、一度も家に寄りついていないのだから、最近、奉公に入ったさくやが知るはずもないだろう。


「実はね、私も無いのよ。さっき家人は、皆良い方ばかりって言ったけれど、肝心のご当主はどうなのかしらね」

「ご当主さまは、お忙しいようですね」

「そうね。さぞや、お忙しいのでしょうね」

――一度も嫁に会えないほどにね


「奥さま、旦那さまにお会いになりたいですよね」


さくやのその言葉に、うーんと考えてしまった。


「旦那さまは、私に会いたいかしらね。なんか、祝言にも来ないなんて。本当は、あんまり乗り気じゃなかったのかもしれないわよね」


そう口に出してから、今日会ったばかりの奉公人につまらないことを言ってしまったと気づく。

使用人の間で、よくない噂の種になってしまうかもしれない。


「今のは、ちょっと……」

「旦那さまは、奥さまにお会いになりたいと思いますよ。こんなに魅力的な奥さまなのですから」


慌ててさっきの発言を撤回しようと口を開くと、紳士の手本のような言葉が降って来た。

驚いてさくやの方を向く。

さくやは、前を向いたままハンチングの先を少し指で落とした。


そして、ハッと気づく。


奉公人とはいえ、年若い男女が二人きりで出かけるなんて。良くなかったのではないのだろうか。


昔、次姉の房江が部屋に置いていた夫人雑誌の中の、奉公人の若い男と良家の奥さまが恋に落ちる小説が脳裏に浮かんだ。

もしかして、私がそういうのを望んでいると、この青年はそう思っているのでは?


なんだか、女性の扱いに随分と手慣れているようだし、まさか、これは小説にあった女たらしというモノなのでは!


急に梅が傍にいないことに不安を感じてしまったが、グッと口を引き締める。

このくらいで不安がってどうする。

私は、博多の豪商、太田清太郎の娘で、東京の名門、岸田家の嫁なのよ。


――旦那さまが帰って来ないから、寂しくて身持ちが緩いと思われたのかもしれない

生来の負けず嫌いが、自分の胸の内に沸いた弱気を叱咤した。


「さくや、私は、旦那さまがいなくても寂しくはないし、きちんと家を守ることができるわよ」


少し、強張った声にはなったが、そう言い切ると黙って向かいの窓を見つめた。

さくやは、何も返さなかった。


『次、日本橋、日本橋』


チンチンと鐘が鳴り、車掌の声が下りる停車場を告げた。

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