10 発売
「発売、明日……いや今日だよね」
「そうですね」
ぺったんぺったん。
貸本屋2階の作業室でアレクと二人でテーブルに向き合って座り、しょぼしょぼする目でパンフレットの仕上げをしている。現代の電灯に比べ灯りが暗いので夜は目が疲れやすい。
今回のパンフレットはパイロット版なので低価格にするためページ数を抑えている。プリンターやコピー機はないので印刷は印刷所でやってもらったが、白黒印刷なこともあり目を引く華やかさという面では少々弱い。
そこで、スタンプで表紙に赤い色を入れてはどうか、と提案したのは私である。
そして今の家内制手工業に至る。
何故こんなことを思い付いたかというと、高校時代の文化祭の経験だ。
うちのクラスが配るチラシが出来上がってみたら思いの外地味だったので、消しゴムはんこ作りが趣味のクラスメートが提供してくれた可愛いイラストのはんこを、色々な色で皆で押しまくったのだ。
赤い染料は手に入った。でも丁度いい消しゴムはなかったので、生のじゃがいもを彫った。芋版画という奴だ。
私の腕では難しいものは彫れないので、この街の花として親しまれてい赤い花をモチーフにした。
一冊一冊、多少花の位置がずれても味だよねと開き直り、2つ作ってアレクと手分けして表紙にぺたんぺたんと押している。
テーブルにはパンフレットがぎっしり並び、乾いた順に箱に詰めていく。
……何故なのか、イベントで薄い本を売っていた友人を思い出した。
「初日でそんなに沢山出ることはないので、明日の分はここまでで十分でしょう」
頷いて二人で片付け始める。
「ありがとうアレク。遅くまで付き合わせてごめんなさい」
「いえ、これはうちの店の製品ですから。それにこの方が目を引きますよ。面白いアイデアですね」
「こういう本はないんですか?」
「あるかもしれませんが俺は聞いたことがありません。印刷技術としてはカラー印刷もありますが、印刷代が割高なのでうちの貸本屋では色刷りの本は作ったことがない筈です。まぁ、絵本やレシピ本と違って、字ばかりの本は黒い文字の方が読みやすいですしね」
私は歴史オタクだけど、出版までは突っ込んで勉強したことがないから、私の世界ではどうかは分からない。
勉強していたら、もっとこの時代に人気でそうなアイデア出せたのだろうか。悔いが残るが今はこれが精一杯だ。
「……こんなに苦労かけて、店にも印刷費出させて、うまくいかなかったらごめんなさい」
思わず、弱気な言葉が漏れる。言っても仕方ないことなのに。言われた方も困るだろう。
「商売では上手く行く時も上手くいかない時もあって、これはその一つに過ぎません。それにパイロット版なので影響も大きくありません。どちらに転ぼうとも、囚われすぎる必要はないですよ」
大丈夫と嘘をつくのではなく、事実だけ言う誠実さがアレクらしくてほっとする。
気軽そうに言ってくれるのが気遣いだとは分かっているけれど、彼の言うことも一理あると自分に言い聞かせる。
この世界に来て初めての仕事なので、ナーバスになっているようだ。いずれにせよ人事を尽くした。明日の天命を待とう。
明日に備え少しでも多く睡眠が取れるよう、自分のベッドの中で冴えた目を無理矢理つぶった。
◇◆◇◆◇◆
翌日。
蓋を開けてみれば、評判は上々で、胸を撫で下ろした。貸本も出たが、特に販売が良かったらしい。
この店の店頭にも置くが、このパンフレットの主なターゲットは駅売りだ。それで、今日は特別にアレクが駅のキオスク前で売り子をしに行った。
普段はキオスクの店員が貸本や販売業務を代行するが、今回のパンフレットは客にとっても新しいタイプの商品のため戸惑うかもしれないと、説明者を兼ねて。
私は本店たるこの店で店番をしていたが、ここは客層が街の人ばかりなこともありパンフレットを手に取る人は殆どいなくて、地の底まで落ち込んでいた。
帰宅したアレクから駅売りが好調だったと報告を聞いて、膝から崩れ落ちそうに安堵した。
食卓で煮込みを食べながらアレクが言った。
「意外にも女性客が多かったのは、表紙の赤い花も良かったのかなと思いました。街の花だから男性も拒絶反応はないし」
イケメンが売り子だったのも良かったのかなとも頭を掠めたが、パンを口に入れ一緒に言葉を飲み込んだ。
まぁ、女性は財布の紐にシビアなので、売り子がイケメンゆえに買う女性は、可愛い女性ゆえに買う男性よりかなり少なかろう。
「ハナ。残っていた分のスタンプ押しはどれ位進みましたか」
「あ、店番しながらやって全部終わったからもう大丈夫」
「早いですね!その上今日は夕食まで作ってくれて」
ごく簡単な臓物と玉ねぎのシチューと、箸休めの茹で野菜と、軽く温め直したパンだけだけど。ダイニングで料理を目にした瞬間、アレクは歓声を上げた。
「今日はアレクが遅くまで外に出ていたからね。アレクの腕にはまだまだ及ばずで、お粗末様ですが」
「とんでもない。こんな短期間でこちらの器具や料理に慣れて凄いです。美味しいです」
本当に嬉しそうに食べる。そして私の顔を見て目を見開き、口元を押さえて視線をそらす。そんなアレクを見て、自分が今凄くニコニコしてたことに気付いた。
湖畔のレストランでアレクと食事した時、美味しそうに食べる私をアレクがニコニコして見ていた気持ちが分かったわー……。
いや、普段炊事担当の人にとっては、誰かが作ってくれるだけでご馳走という奴かも知れないけど。でも喜んで美味しそうに食べてもらえるのは嬉しい。
うん、こりゃニコニコするよね!
「アレク。エールもどうぞ」
こちらで飲まれているビールの一種、エールを注ぐ。
今日酒屋へピッチャーを持って買いに行ってきた。こちらでは使い捨て容器じゃないのだ。エコだなぁ。
日本に比べ水が貴重で、アルコールに強い遺伝子を持つ人が多いこの国ではエールがよく飲まれる。ビールは昔は『飲むパン』とも言われ、ミネラルやビタミンB群などが豊富で栄養源としての役割も重要なのだが……私は下戸で飲めない。
だからアレクは、普段の食事で必要な栄養素が取れるよう工夫してくれている。アレルギーの子供を持つ親御さんのように苦労をかけているだろう。
そして、アレクはお酒を飲めるにも関わらず、私に合わせているのかあまり飲んでいないのだ。
今日は仕事が一山越えてお疲れ様の意味も込めて用意した。
「ありがとう。今日は外で汗をかいたので染み入るようです」
一口飲んで息を吐き言った。うん、そういう日はビールだよね!私は飲めないけど気持ちは分かるよ!
「ハナ。ハナはこれ飲みませんか」
アレクは側に置いていた鞄から茶色の箱を取り出しテーブルに置いた。
「これ……ココア?!」
「ハナの世界にもチョコレートやココアがあると言っていたでしょう。お酒が飲めないならこんなのもいいかと思って」
「うわぁ……すごく嬉しい。ありがとう!お湯は沸いてるから今淹れてくるね!」
ココアは好きだ。だけど、お酒を楽しめない私が楽しめるものは何だろう、と考えてわざわざ買ってきてくれたその心が何より嬉しい。
そして。今日私がアレクを労おうとしたように、アレクも私を労おうと買ってきてくれたのかもしれない。今日このタイミングだし。
友人や家族のように思い遣りあえる存在がいることは、心が和らぎ、力をくれる。
キッチンへ下り、ココアと砂糖と缶入りの無糖練乳を入れ練ってお湯で溶く。紛うことなきココアの香りが立ち上る。
すぐダイニングへ戻り、カップを掲げる。
「お疲れ様!かんぱーい!」
「かんぱーい!」
エールのコップとココアのカップの縁が、コツンと音をたてた。
運輸や冷蔵技術が発達していない時代、新鮮で衛生的な牛乳を農村から都市部へ運んで流通させるのは難しいので、19世紀後半のロンドンでは加熱殺菌して濃縮して缶詰にした無糖練乳が普及しました。




