八 見えない少女02
彼女の横に、腰を下ろす。
「俺か? 俺は今日は、埼玉県ってところから来た」
「埼玉県? 遠い?」
「そうだなぁ。歩いて行くには、ちょっと遠いかもしれねぇな」
「ふぅん」
「嬢ちゃんは、いつからここにいるんだ?」
「ずっとだよ。お母さんがここで私を生んで、それからずっと」
母親のことは、この話の前には出てこなかった。ということは、きっと聞かない方が良いのだろう。そういう時代だ。
「そうか」
隣に座る俺の腕に、彼女の手が再び伸びる。
「しばらくの間、握っておいてやろうか」
俺の言葉に、彼女はぱっと明るい表情を見せた。一人で、不安だったのだろう。
「ほんと? 嬉しい」
「あんまり長くはいられねぇけどな」
「それでもいいよ。少しだったとしても、誰かとお話しできるのは、嬉しいの」
流れてくる音は、気付くと小さな子どもの歌声に変わっていた。今の時代、こんな歌声を聞くことはない。
この音源自体が、昔のものなのだろう。
「このお歌、好きなの」
そう言って、彼女は小さく歌う。
それは、俺も知っている童謡だった。
もう何年も、いや、十数年以上も口にしたことのない、歌。
今日はこの少女と一緒に、歌っても良いかもしれないなんて、思ってしまった。
歌詞は定かではない。
なんとなく誤魔化しながら、一緒に口ずさむ。
俺が歌い出したことに、少女は笑みを浮かべ、握る手に力が入った。
「一緒に歌ってくれて、ありがとね」
曲が終わると、彼女は何度も俺の手をにぎにぎとする。その所作が妙に愛らしく、早く父親が戻ってきてくれればいいのに、と思った。
「あなたはどうしてここに来たの?」
静かな波の音が流れる。
それを聞きながら、彼女が尋ねてきた。
どうして。
「仕事でな。さっき話してた埼玉から、東京と神奈川を通って、さらに先の山梨県ってところまで行くんだ」
「お仕事。何のお仕事?」
「配達人、って知ってるか?」
少女は少しだけ逡巡し、首を振った。
「知らない。教えて」
「ああ。配達人は、荷を運ぶ仕事だ」
「荷、ってなに?」
素朴な疑問に、どう答えるべきか、迷ってしまう。当たり前のことを聞かれると、こんなにも咄嗟の答えに窮してしまうものなのか。
「荷っていうのは、誰かが誰かに、届けたいものだ」
「それはなんで、どうして届けるの?」
「なんで……って」
頼まれるから。
でもきっと、それは彼女の知りたい答えではない。
「うーん」
「難しい?」
「いや……例えば、嬢ちゃんが誰かに渡したいものってあるか?」
「渡したいもの?」
言った後で、少し後悔した。
父親が食べ物を得るために不在にする環境で、人に何かを譲渡するなんてことは、ないだろう。
「あ、いやそうじゃないな」
「声!」
だが、予想外の答えが返ってきた。
「こ、声?」
「そう。私、ここで一緒にお話しした人に、声を録音して貰ってるの」
俺に触れているのと逆側の手で、彼女は器用にラジカセを操作する。二つ並ぶ再生機のもう一つのボタンを押すと、誰かの声がした。
それは、若い女性の声だったり、年老いた男性の声だったり、はたまた赤ん坊の泣き声のようなものだったりもした。
次から次へと変わる話し声に、彼女が一人でここにいるときに聞いているものなのだと気付く。
何も見えない世界で、一人父親を待つとき。彼女を暗闇から救うのは、こうした『何かの音』や、『誰かの声』だったのだろう。
「この声を、誰かに渡しちゃったら、嬢ちゃんは聞けなくなるぞ?」
「うーん。でも、その分新しい声をもらえないかな」
そうか。
彼女は荷を運ぶのは、交換だと思っているのだ。
集落で食べ物を貰うには、何か他のものと交換をする。
俺たち配達人も、集落から集落へと渡るときには、そうした交換の依頼を受けることも少なくない。
「うん、そうだな。新しい声を、貰えるだろうな」
「やっぱり! だったら、私は声を届けてもらいたい」
彼女の座る場所の少し後ろには、ネモさんのところで見た四角いケースのようなものがたくさん置いてあった。カセットテープというのだと、少女は言う。
「これは、録音ができるものなのよ」
「これって、相当古いものらしいけど、どうしたんだ?」
ネモさんの婆さんの婆さんの時代のものだというから、骨董品中の骨董品だろう。
「わかんないけど、お父さんがくれたの。この病院に、たくさんあったんだって」
昔は医療で使っていたのだろうか。
それとも、遙か昔にここに入院していた患者が、持ち込んだまま、置いていったのか。
「配達人さんって、たくさんいるの?」
「嬢ちゃんは、知りたがりだなぁ」
「うん。だって、私の知らない世界のことは、たくさん知りたいもの」
「それもそうだな。知らないことを知りたいと思うのは、いいことだ」
俺の手を握る彼女の小さな手を、もう片方の手で優しく撫でる。
「へへ。頭を撫でてもいいよ」
そう言って頭を差し出す彼女に、目が見えないのだからもう少し用心深くなった方が良いのでは、なんて父親のような気持ちになってしまう。
彼女の透けるような茶色の髪を、そっと撫でる。
「配達人がどのくらいいるのかは、正確にはわからない」
世界中に同じシステムができているが、年々減っていることだけは、わかっていた。クロノスシステムからの依頼が増え、距離も遠い場所の比率が上がっているからだ。
「でも、嬢ちゃんがしょっちゅう会う、ってことはないくらいの人数だ」
少なくとも、こんなところまで様子を見に来る配達人は、そうそういないだろう。
「そっか。じゃああなたに、声を届けてもらわないといけないかな」
「嬢ちゃんは、届けたい相手がいるのか?」
「相手がいないと、駄目?」
「ああ。配達人っていうのは、届ける先があって、初めて荷を届けることができる」
「ふぅん。じゃぁ駄目だぁ」
「でも、別に配達人に預ける必要はないだろ」
俺の言葉に、彼女は小首を傾げる。
「嬢ちゃんは逆に、こうして声を届けて貰ってるんだからさ」
「あっ」
受取人側だと告げれば、嬉しそうに笑った。
「ねぇ。だったら、配達人さんは、荷を届けるときに、相手が待っててくれるって思って運んでるの?」
その言葉に、思わず体が強ばった。




