五 地下鉄の老婆03
俺は鎌倉に出ていたから生き延びたが、両親も、友だちも、知り合いも、そしてネモさんの娘も。港のある辺りは昼の間、十数分もしないうちに、そのまま地面が落ち、海面が上がり消え去った。
ネモさんの横に置かれた、小さく赤い長方形の箱からは、地下鉄の通路で聞こえてきていた音楽が流れ続けている。
「これかい?」
俺の目線に気付いた彼女は、ニヤリと笑う。
「これはラジカセっていう、最後の大戦よりもずっと昔。あたしの婆さんの婆さんが若い頃に、流行ってたもんさ」
箱から伸びる配線は、地下鉄のどこかから引っ張り出したらしい電源に繋がっているのが見えた。
その箱の上側には、銀色の棒が伸びている。
音楽に混ざり、時折ザザ、と雑音と通話のようなものが聞こえた。
「たまにねぇ、どっかの電波が入ってくるのさ。そんなのを聞くと、この世界がまだ生きてるって感じるねぇ」
世界が生きているだって? そんなわけがあるか。地上では枯れた木々がはびこり、汚染耐性のない動物は死に絶えたというのに。
ラジカセとかいうものから聞こえてくる音が、耳に届く。
『桜』『ノア・ガーデン』『コスモスが咲いたら』『全員が死んだ』『出立は』『また会える』『種が芽吹けば』『春が来て』『子どもたちがいるから』『もうすぐ』といった単語がバラバラと、メロディと雑音の狭間で聞こえてきた。
「今流れてるのは、若い娘たちで構成されたグループが歌ってた曲だよ」
耳馴染みの良いメロディは、大衆向けに作られたものなのだろう。歌詞も平易でメロディにちょうど良くのっていて、すぐに覚えてしまいそうだ。むしろ、脳に焼き付きそうとも言えるけど。
「歌詞もね、いいんだよ。この曲に出てくる桜とかコスモスってのは、花の名前さ」
「コスモス……」
岡部で見た看板を思い出す。
『町の花 コスモス』とあった、そのコスモスだろうか。
「配達人さん。あんたは知らないだろうけど、この国も昔は、それはそれは綺麗な花が咲き誇っていたんだ」
ネモさんはそう言って、古びた本を見せてくれた。
「俺だって、写真や動画でくらいは、見たことがある」
とはいいながらも、彼女の本にある写真から、目が離せなくなる。
そこには、ピンク色や黄色、青や紫、様々な色や形の花の写真があった。驚いたことに黒い花まであったらしい。その色の花は、知らなかった。明るい色だけじゃない、どんな色もその世界には、存在していたということだ。
「コスモスってのはどれだ?」
問えば、ネモさんはページをめくる。
「これさね。ピンク色のかわいい、線の細い花だねぇ」
「こんなひょろひょろの花なのか」
先端にたくさんの花びらをつけた、ピンク色の花や白い花が群生している写真だ。そのピンク色だって、濃いものから薄い色まで濃淡が、まるで洪水を起こしているかのように溢れている。細い茎の周りには、深い緑色の葉がびっしりと生え、まるで緑の地面から飛び出してきているかのように見えた。
あの、何もない死んだような場所だった岡部にも、これがたくさん咲いていたのか。そう思うと、なんだか胸の奥が少し軋んだ。
「この花は、こぼれ種ってので増えるんだよ」
「こぼれ種ってあの?」
耐汚染性植物の増え方の一つだから、聞いたことがある。
「そう。植えときゃ、この花が作り出した種が地面に落ちて、勝手に増えていくんだよ」
「こんなに綺麗な花も、そういう増え方をすんのか」
耐汚染性植物だけの特性かと思っていた。
美しい花が勝手に増える。そんな夢のような連鎖が、かつての世界では起きていたのか。
「歌詞にあった桜はこれだよ」
別のページをめくると、そこには川沿いに植えられた大きな木に、淡いピンク色の花びらが一斉に咲いている写真が、全面に現れた。
「これはソメイヨシノ。種じゃ増えない、挿し木して増える種類さ」
「種で増えねぇのもあんのか」
「他の桜とは違って、これはクローンなんだとよ」
クローン、ねぇ。
そういえばバベル・アークの研究所で、人間のクローンを作ろうとして失敗した、って話も聞いたことがある。どこまでが本当かはわからないけど、戦争を起こすようなお偉方なら、やりかねないな、なんて思った。
減った人類を増やすために、クローン人間を作るなんて、反吐が出る。
「いろんな種類の桜があるけど、特にこのソメイヨシノを、昔の日本人は愛していたって話だよ」
「それは昔、話を聞いたことがある」
桜一つとっても、種類があって、咲くタイミングも違っていたらしい。
「ま、二度と戻らねぇ世界だな」
「どうだろうね」
ネモさんは、眉を上げて俺を見る。
戻るわけがない。
少なくとも俺や――婆さんが生きている間には。
「ほら、こっちも見てご覧よ」
ネモさんは、次々と本を見せてくれる。世界中の動物や花、それに建物も写った写真が別世界の物語のように思えてくる。
昔の日本にもなかった他の国の花には、でかくてどぎつい色のものがあるとか、首がやたらと長い動物や、大きくて鼻が長い動物なんかがいたとか。知らない生き物というのは、随分といたのだと思った。
彼女が若い頃に見た景色は、この中にあるのだろうか。
そんなことを思ってしまう。
「こうしてね」
ネモさんは、本をトントンと人差し指で叩いた。
「いろんなものを集めちゃ、ここに置いてるんだ。あたしゃどうせ、この先長くないけどね。それでも、好きなもんに囲まれて、死んでいきたいって思ってさ」
そう言う彼女の座っている周りには、何に使うのかわからないような代物が、山のように積み重なっている。
そんな彼女の着ている服のポケットから、封筒がちらりと見えた。




