四 地下鉄の老婆02
四ツ谷駅の地下は、思ったよりも深くはなかった。
近くを外濠が通っているから、深く掘れなかったのだろうか。
「やっぱり、空気はマシみたいだな」
ゴーグルに表示される空気清浄フィルターのランプが、薄い緑の点滅をしている。これなら、フィルターの消耗を抑えられるだろう。
空気清浄フィルターは一度装着してスタートすると、途中で外しても、停止しても利用可能時間は変わらない。だが、汚染が激しい地域に長くいると、その分能力を摩耗するから、利用可能時間が短くなってしまうのだ。
地下鉄跡はまだ下にも続いていたが、深く潜りすぎると地上に戻るのが難儀だ。俺は『丸ノ内線』と書かれた文字を確認し、線路跡へと乗り込んでいった。
そこから十数分。
赤坂見附という看板と、古びた駅のホームが見える。地下は汚染が少ないからか、以前の姿を強く残していた。
ふと、聞き慣れない音楽が聞こえる。
耳を澄ませ、音の発信源を確認すると、どうやらホームよりも先から流れてきているようだ。そっちにあるのは、地下道。
「人がいるのかもしれねぇ」
誰かがいるのであれば、この辺りの情報を聞ける可能性がある。
蛇蝎の如く罵倒される畏れもあるが、ケリュケイオンの不具合を直せるなら、それは些末なことに感じた。
ホーム端の階段を、ケリュケイオンのケツを押し上げる形でホーム上に登る。そのまま、通過儀礼のためだったらしい機械の間をすり抜けた。
音がどんどんと近くなってくる。
「……おや、珍しいじゃないか」
音楽がしたと思った場所には、老婆が一人。
地上への階段の奥。
以前は店があったであろう様子が見て取れる、大きな間口の部屋だった。
開け放たれたその場所の一角に、彼女は座っている。
こちらをゆるりと見ると、片眉をあげて小さく笑った。
まるで油彩画の中の老人のように、皺だらけの険しい表情に、着古した洋服。その上に着物のようなものを羽織っている。色をなくし、白よりも透明に近くなった髪の毛は、短く切られ、ふわふわと頭の上に浮かんでいた。
「どうも。珍しいのは人? それとも」
「配達人も、人も珍しいさね。ここはもう、滅多なことじゃ人は来ない」
彼女の目には、配達人に対する侮蔑の色が一切なかった。
「人が来ない?」
「この辺りは何もないからね」
目を細めて、俺を見る。
確かに、人の気配は他にしない。集落はできていないのか。
「飯はどうしてるんだ、婆さん」
「あたしゃ、あんたの婆さんじゃないからよしとくれ」
「ああ? 面倒な婆さんだな」
「だから婆さんじゃないよ」
「だったら、なんて呼びゃぁいいんだ」
俺の言葉に、婆さんは笑った。
「ネモさんって呼んどくれ」
「ネモさん?」
「オオタ・ネモネーシュ。それがあたしの名前なのさ」
「は! そりゃ随分と洒落た名前だな」
俺のケリュケイオンと張る。
彼女は駅のホームとは逆側を見て、フンと鼻を鳴らした。
「ご飯は自分で取りに行くよ。ここの地下鉄をずっと先に行くと、集落があるんだ」
戦争の前までは、国の偉い人が集まっていたというエリア。トンガリ頭の石の建物は、俺も遠目に見たことがある。なんでも、自分たちは特権階級だと、未だに言い張る人々の集落が、そこにあるらしい。
ネモさんはその場所まで行って、食べ物を分けて貰っているという。
「こっちは婆ぁ一人だからね。向こうも親切な人間を気取りたいのか、随分と好意的に、毎回分けてくれるんだ」
そう言って笑うネモさんは、彼らを馬鹿にしたような顔を浮かべた。
「特権階級、特権階級っていうけど、あそこに配給される食べ物は、別に他と比べて豪勢なわけじゃない。同じだよ」
すでに国家という枠組みもなく、人々は地域で助け合うだけの生活をしている中で、特権階級だなんだとまだ言ってる奴らを、蔑んでいるのだろう。
昔は国ごとにあった貨幣も、全て統一された。
金持ちの多くは死に絶え、生き残った奴らが持ってる金は、一瞬にして価値がなくなった。大事に金を蓄えていた奴らは、泣き叫んだだろう。
今はそうした奴らでも、クロノスシステムによる、集落ごとの食料の配給を受けているのが一般的だ。まぁ、俺のように集落に所属していない人間は、そのおこぼれに預かることになるんだけど。
それなのに特権階級だなんて、笑ってしまう。
失った無価値の立場に固執して、何がしたいのか。金も地位も意味がない今、価値があるのは、誰かの役に立つ人間だ。
それに、本当の特権階級ってやつらはきっと、どこか遠くにある、空気清浄システムが建物全体に作動しているような場所にいるのだろう。そこはこの世の中とは隔絶されていて、汚染されていない、飲み物や食べ物――例えば旨い肉でも食って、苦しみなんてない生活を送り、病に倒れても清潔な場所で、診察をして貰えるのだ。
――このドブのような空気の中にいる、俺たちと違って。
「まだ娘がいたときは、配達人さんが娘からの届け物をしてくれたもんだけどね」
ネモさんは、自分の手を見ながらそう言った。
「娘さんがいたのか」
「横浜にね」
「奇遇だな。俺も横浜出身なんだ」
彼女の目が、ほんの少しだけ見開く。
「そうかい。そりゃ、あんたとここで会ったのも、縁なのかもしれないねぇ」
どこか遠くを一瞬見たかと思ったら、彼女は俺を見て笑う。
あの日、横浜が海の底に落ちたのは一瞬だった。




