三 地下鉄の老婆01
遠くに円形の鉄塔の上半身が、見えてきた。その逆側には、赤い三角形の頂上が。
どちらも一世紀ちょっと前までは、電波塔と呼ばれていた鉄の建物だ。今はその役目からは離れて、その姿の大半を海に沈め、東京という街がある方角の目印程度となっている。あの辺りは局地的に地盤が沈下し続けているらしい。
「俺が小さいときにゃ、もう少し姿が見えてたんだけどな」
道を走っていると、どこからともなく音楽が聞こえてきた。
右手に見える、でかい教会の中かららしい。
「この中には、神ってのを信じてる人が、まだいるのか」
むしろそんなものを信じないと、やってられないのかもしれないが。
いつかどこかで聞いたことのあるような、そんなメロディだ。聖歌なのかもしれない。
生身の人間の歌声が複雑に重なり、不思議な感覚を呼び覚ます。
死ぬときにこんな音楽でも聞こえてきたら、心置きなく死ぬことができるのかもしれねぇな、なんて思う。もしかしたらあの中の人たちも、似たようなことを考えているのだろうか。いや、まさか。
「まぁ何にしろ、あんなにでけぇ声で歌を歌えるってことは、あの教会の中は汚染が少ないんだろうな」
分厚くがっしりとした建物だ。これなら中の空気も汚染度が低く、それなりに過ごせるのだろう。
――少なくとも普段俺が過ごしている、駅舎のような場所よりも。
建物の壁に大きく掲げられた十字架が、鈍色に輝いていた。壁は汚染で薄汚れているのに、そこだけは綺麗なのは、きっと中にいる神を信じる奴らが、磨いているのだろう。
「磨いてる間だって汚染されるってのに、ご苦労なこったな」
細い道をくねくねと曲がり、坂道の上下が多い場所を通る。
左手に、かつての世界戦争のときには民間人は近寄ることすらできなかったという、旧日本国防衛省の建物が見えた。
そこではクロノスシステムを使った、何かの研究をしていると聞いたことがある。それと同時に、人の出入りを見たことがないという話も聞く。オンラインでの研究をしている場所だとか、サーバーがあるだとか。話は盛るに盛られて噂は出回る。それとも、以前は使われていたが、今はもう、というよくある話なのだろうか。
そういえば、チキュウ連邦の研究チーム『バベル・アーク』が、大失敗をしたにも関わらず、懲りずにまた研究をしているという話も、何かで聞いた。それの一環で使われているのかもしれない。
まぁ、何が本当かはわからないし、俺には一切関係がないけど。
「うおっ」
四ツ谷駅跡にさしかかった辺りで、ハンドルが一瞬跳ねるように浮いた。
次いで、ケリュケイオンがガクンと揺れる。
ガクガクと震えるボディは、まるで汚染で苦しみ暴れ回る動物の背に乗っているような、そんな感覚だ。
「……マジかよ」
手元の表示パネルが、チカチカと点滅する。
これはマズい。
「電源供給エラー、ってか」
ケリュケイオンを道の端に一度止め、工具箱を取り出す。
こいつの横腹に手をかけ、ボルト留めされた装甲パネルを外した。内部には、並列になっている銅線、太い端子に冷却用のフィンが詰め込まれている。
「あー、また緩んでんのか。ここんとこ、道がどんどん悪くなってっからな」
長く使っているバイクだから、寿命ということもあるだろう。
それでも、故郷横浜が海に呑まれ、両親を亡くしてから三十年間、ずっと一緒に居る相棒だ。そうそう手放すことはできない。
「とりあえず、っと」
工具を差し込む指先に、意識を集中する。
太陽がいつもより、少し眩しい。
「こりゃあ……しっかり繋がねぇと、この先危ないな」
だが、使えそうな銅線が今は手元にない。
周囲を見回せば、地下鉄の入り口が見えた。
「地下なら、もしかしたら何か落っこちてるかもしれねぇ」
度重なる戦争で、人々が地下に生活基盤を移して百年。
当時はまだ日本という国も残っていたので、そのまま地下都市として発達していった。その頃は地上と地下を行き来する人も多く、生活は地下、仕事は地上のまま、なんてこともあったらしい。
当時完全に地下に移らなかったのは、人はやはり、太陽と青空を求めてしまうからなのか。きっと、他の国も似たようなものだろう。
「そのお陰で、でけぇ生物兵器使われた戦争のときに生き残った人類、ってとこだが」
汚染が酷くなる前からの生活場所だったということもあって、地下には思っているよりも、人々の生きた残骸が多くある。
「よし。行くぞ、相棒。地の底だ」
まるで地獄の底に向かうような階段を、俺はケリュケイオンを引いて降りていった。




