二十一 ヤマナカコNGRシセツ01
夜が白々と明け始めた頃、俺は起き上がった。
ミュゼスが寝る前にくれた、夜飛びカミキリの干物を口に入れる。仄かに甘く、クリーミーな味がした。
「初めて食べる虫だけど、これ旨いな」
昨日巻いて貰った薬草漬けの包帯のお陰か、体の痛みが大分楽になっている。
丁寧にそれを剥がし、畳む。貰って良いのか迷ったが、汚れたものを置いていくのも気が引けた。洗えばまた使えるだろうが、どうするか。とりあえず、手持ちの布に包んで、しまい込んだ。
俺は準備を整えて、ケリュケイオンの元へ向かった。
一夜を越えても、やはりエンジンはつかない。
「どこが悪いんだ? ん?」
ケリュケイオンの腹に手をかけ、外装パネルを開ける。
「あ? 通電はしてんな。ってぇことは……」
工具箱を取り出し、端末を取り出す。そいつに端子を繋ぎ、信号のやりとりを確認した。
「……セーフティが解除されてねぇ」
滑落時の転倒検知センサーが、『未だ点灯中』と誤認したままのようだ。
小さなパーツを詰め込んだ布袋に、手を突っ込む。あの地下街で会った婆さん――ネモさんのところで貰ってきたジャンク品が、そこに詰め込まれていた。
「ありがたいねぇ」
中からとりだしたのは、古いセンサーとジャンパーケーブル。
ケリュケイオンのセーフティ基板に、ミニドライバーを滑り込ませ、古いコネクタを一つ外す。
「このミニドラとも長い付き合いだ」
先端の鋭さが削れてきているそれを見ながら、外したコネクタを脇に置いた。
「ケリュケイオン、ちょっとお前さんの脳みそいじってやっからな」
誤認中のセンサーなんて、一部の脳が働かなくなったようなものだ。そこを直してやれば、こいつは今まで通りに動けるはず。
基板の上の配線を一纏めにし、布ガムテープで仮止めする。さっき引っこ抜いたコネクタの代わりに、ジャンパーケーブルを押し込み、片側に古いセンサーを繋ぐ。それを絶縁テープで押さえ込んだ。
「これで……どうだ?」
呼吸を整え、キーを回す。
バクバクと音を立てる心臓が、ケリュケイオンの振動かと勘違いするようなほど大きく感じた。
沈黙。
「だめ、か?」
そう口にした瞬間、ケリュケイオンが小さく唸った。
「――っしゃ!」
ボディが震え、点火ランプが青く灯る。
思わずガッツポーズをとってしまう。
「お帰り、相棒」
外装パネルを元に戻し、ボディを撫でる。
それに応えるように、ケリュケイオンの体も震えた。
「お前も、暴れたいよな」
他の箇所も点検しておく。この先、またこんなことがあったら、たまったもんじゃない。
「良い歌ね」
ケリュケイオンの点検をしながら、ネモさんのところで聞いた歌を口ずさんでいた。それを聞いたであろうミュゼスが、声をかけてきた。
「悪い。起こしちまったか?」
俺の言葉に、彼女は首を振る。
「年寄りばかりの集落だからね。朝は早いのよ」
桜だとかコスモスだとか、花の名前がたくさん出ていた春と恋を歌った、曲。
案の定、あそこで聞いただけなのに、覚えてしまった。とはいっても、サビの部分だけだが。
「こないだ会った婆さんが、教えてくれたんだ」
「へぇ。明るくて、なんだか前を向きたくなる曲」
ミュゼスは、着物姿だった昨日とは違い、今日は簡素なワンピースを着ている。
洋装になると、思っていたよりも若いのかもしれない、なんて印象を受けた。
「あ、昨日は包帯ありがと。すっかり……とはいかねぇけど、だいぶいい」
「それはよかった。巻いてた包帯は、良かったら持っていって」
「いいのか?」
「また怪我するかもしれないでしょ」
くすくすと笑う彼女は、まるで朝露の少女のようだ。
昨夜は、神がかった巫女のようにも見えたのに。
――これが、女優というものなのか。
「向かう先は、どこ?」
「山中湖だ」
俺の言葉に彼女は頷く。
そうして、俺たちが今いる場所と逆側を指さした。
「集落をあっちに抜けていって。向こう側に、昔の桃農園の跡があるわ。その中を突っ切ると、山中湖までの近道になるから」
時刻は朝の六時を少し過ぎたところ。
ゴーグルに表示された、空気清浄フィルターの残り時間は、あと僅か二時間だ。
近道になるというのなら、ありがたい。
「あなたと荷が、無事に目的地に辿り着くことを祈ってるわ」
ケリュケイオンにまたがり、体勢を整えた俺に、彼女は笑った。
誰かに祈られるのは、悪くない。
俺はうっすらと笑みを浮かべ、彼女に振り向く。
「ミュゼス、あんたも無事で」
一つ頭を下げる。そうしてすぐにケリュケイオンを走らせた。
「まだ行ける。まだ終わりじゃねぇ」
そう、呟きながら。
集落を抜けると、平地になった。少し先に見えるのは、背の低い木が規則正しく並んで植わっていた痕跡がある畑。
ミュゼスが言っていた『桃農園の跡』だろう。
「おい、ケリュケイオン。富士山だ」
薄明の空は明るさをかなり引き寄せ、太陽の光がゆっくりと富士の肩に落ちる。白い山頂は光を反射し、朝靄の向こう側を照らし出しているようだった。
「こんな景色、見たことねぇな」
ケリュケイオンを走らせ、やがて靄を抜けると、景色が更に変わる。
汚染された世界の中、この山だけは、この国が日本であった頃の矜持を残しているような気がした。
山中湖まであと少しの道を、富士山へ向かって走って行く。
***
目の前に広がったのは、大きな湖だった。
「ここは水が枯れてないのか」
朝の光が差し込み、風のない湖面に富士が映り込んでいる。実体のあるその姿とは逆さの富士山は、そっくりそのまま、湖の中に閉じ込められたように見えた。
湖の周りには、僅かだが緑色が見える。
息を呑むようなその色に、目が釘付けになった。
「フィルターの残り時間は、あと三十分、か」
目的ポイントである『ヤマナカコNGRシセツ』の場所を、ゴーグルで確認する。今いる場所からちょうど真逆の位置。問題がなければ三十分もあれば辿り着ける筈だ。
荷の入ったカバンをポンと叩く。
そこに荷がある、と実感すると、妙な感慨があった。こんな風に思う配達なんて、初めてのことだ。
「さて……いざ目的地」
きゅ、と口角を上げる。口元からは、ネモさんのところで聞いた例の曲が零れた。それは空気清浄フィルターの小さな音に吸い込まれ、外には届かない。
ぐるりと湖を半周すると、錆びた有刺鉄線と白かっただろうペンキがところどころ剥落した、それでも未だ塀としてきちんと機能している建物が現れた。
ゴーグルの座標が赤く点滅する。
「ここが『ヤマナカコNGRシセツ』ってやつか」




