二十 山越え03
「……すまない。会ったばかりの女性に頼むのは申し訳ないが」
「構いませんよ。ばあさまたちは今、眠ってますし」
さらに奥に部屋があるのだろう。
廊下の先をちらりと彼女は見た後、そう口にした。
「俺はホウジョウ・エメス。名前を聞いても?」
「ええ。私はオヤマダ・ミュゼス」
腕を慎重に触り、包帯を巻いてくれる。長い睫毛に、一重の瞳が美しい。すっと通った鼻筋は、まるで天女のようだ。見たことはないが。
年は四十を超えたくらいだろうか。女性に年齢を聞くのは憚られるので、見た目でしか判断はできない。
「ミュゼスさんは」
「ミュゼスでいいですよ」
頷き、俺も、と続ける。
「ミュゼスは、巫女なの――ですか?」
「ふふっ。砕けた口調で構わないわ。私もそうするわね」
右手を巻き終えたら、左手を出すように促された。せっかくなので巻いて貰おうと、図々しくも左腕を差し出す。
「私は、女優なのよ」
「女優」
それは、今はもう存在していないような職業だ。
俺が小さい頃は、かろうじてその姿を見た。
地下街の小さなステージで、地下に潜ったホールで、役者や歌手が人々の心を慰めてくれた。空を思う存分見上げて過ごすことのない日々に、青空を思い描かせてくれ、春の夕暮れに美しく咲き誇る花畑の香りを、地下の街で感じさせてくれる。そんな職業の人々だった。
ミュゼスは包帯を巻き終えると、神楽殿の方へ目を向ける。
「元々私はここの集落出身なの。若い頃には女優として、あちらこちらの都市の地下街で演じてきた」
彼女は立ち上がり、神楽殿の方へと進む。
少しだけ躊躇しつつ、俺もその後をついていった。
舞台の後ろ側ギリギリで、足を止める。なんとなく、この先にある『舞台』に、俺は立ち入ってはいけないような、そんな気がしたのだ。
「神というものが、本当にいるというのなら」
舞台に立った彼女は、先ほどまでとは打って変わったような、よく通る声で、言葉を発した。
「これは、人類に与えられた罰でしょう」
山へ向かって。川へ向かって。神楽殿の舞台が開けている、自然に向かって。
向こう側には、夜になると光る夜光苔が、集団で生えているのが見えた。夜光苔も、汚染物質を吸収するという。汚染物質を吸収し、分解し、そのエネルギーで夜に光る。一時期は、この夜光苔を電気として活用しようという動きもあったが、人工的に増やすことができず、種を断絶させる危険に晒すわけにはいかない、と、こちらも乱獲が禁止された。
暗闇の中に浮かび上がる夜光苔の光は、優美だ。写真で見たことのある、どこかの国の夜景のような華やかさはない。どちらかといえば、昔生きていたという蛍という虫の光に、似ているような気がした。
バサリと羽を動かす鳥の音が聞こえる。それと共に、甲高い鳥の鳴き声も。遠くには、獣の唸り声も響いた。
川の音と夜光苔が織りなす光。それに彼女の輪郭。
生きるものの、その音。
それらが合わさり、妙に幻想的に感じる。
まるで、生を手放してしまったかのような錯覚を起こした。
死んだ後に行く世界は、こうしたものなのか。それとも、死の後には無しかないのか。
信じる神だの仏だのがあれば、その答えは貰えるのかもしれない。けど、俺は特に信じるものなんてないから、これ以上考えるのは、やめにした。
彼女はくるりとその体を回して、俺の方を向く。
「バベル・エデン計画の失敗で、女優を続けるどころではなくなったから、私はここに戻ってきたの」
舞台に立っているからだろうか。ミュゼスが口にする言葉は、どことなくセリフがかって聞こえる。
空に、神に向かって話しかけ、声を出すイカレた奴。
そう言い切って捨てるには、彼女の瞳は生き生きとしすぎていた。
生を手放すなんてとんでもなかった。ここは、彼女の生が溢れる場所だ。
「集落の婆さんたちは、神に祈る巫女になれと、私に願った」
こうした山の中の集落では、山岳信仰や、山の神への信仰が強いのかもしれない。
自然と隣り合わせで生きてきたのは、汚染が始まるよりずっと昔。チキュウ連邦の日本エリアではなく、日本という国が存在していた時代からかもしれない。
「もう演技ができないと思ってたから、嬉しかった」
「演技?」
巫女がするのは、神への祈りだろう。
俺の疑問に気付いたのか、彼女は舞台の開けた方へ、指をさした。
「神でも観客でも、届けないといけないものがあるなら、それは私にとって演じるのと同じこと」
朗々とその声が響く。
「私が、こうしてこの神楽殿の舞台に立っている限り、私は女優でいられるの」
「見る人が、いないのに?」
失言だ、と思った。
でも、彼女は気にしていないかのように、笑う。
「いるわよ。私たちを見捨てた、神が」
神が俺たちを見捨てたのが先か、人間が神を忘れたのが先か。
それでも戦争なんてもんを始めたのは、神を気にもしていない奴らだろう。
その存在を少しでも知っていたなら、殺戮なんてしないのだろうから。
ばさり、と彼女は白い着物の上半身を剥いた。その下には、赤い襦袢が見える。
襦袢なんて、着物の下着だろうけど、エロいとか、そういう感じは全然しなかった。それよりも、なんだか目を離すことができないほどの、強烈な何かを彼女に感じてしまう。
初めて彼女を見ていたときに着けていた、シャラシャラしたものを彼女は再び額につけた。あのときはもしかしたら、何かを祈っている時間の最中だったのかもしれない。
「エメス。私が私のことを女優だと思っている限り、私は女優でいられるの」
そうして彼女が口にしたのは、よく聞き取ることのできない、祝詞と言われていたであろう神への言葉だった。
言祝ぎ、言祝がれ、日本という国が続いてきた、その祝詞。
それは今はもう、消え去った言葉だ。
市民薄明から航海薄明へとやがて空は移ろい、彼女の姿が夕闇の中に溶けていく。
きれいだな、と素直に思った。
「荷を届けるには、明朝早く出るんでしょ?」
ぼんやりと彼女の姿を見ていると、不意にトーンが戻った彼女の声がした。
「え、あ、ああ」
神楽殿の舞台から『こっち側』に戻ってきたミュゼスは、俺の顔を覗き込む。
彼女のそれは、優しくて少し気の強い、人を気遣うことのできる、日本という国に多くあったであろう、そんな表情だった。
「奥に部屋があるから、使って」
「ありがとう」
――私が私のことを女優だと思っている限り、私は女優でいられる。
彼女の言葉を思い出し、俺はケリュケイオンを思う。
あいつがいてくれる限り、俺は配達人でいられる。
ケリュケイオンが俺を、配達人たらしめてくれているような、そんな気がしたのだ。




