十五 床屋の男01
七沢温泉から山道を抜けて、丹沢へ向かう予定だった。
だが、昨夜からの雨で地面の状態が酷く悪い。
「こりゃ、ちょっと遠回りする必要があるかな」
地下鉄や七沢温泉で、一時的に空気清浄フィルターを外すことができたので、七十二時間のリミットが短くなることはないだろう。それに、下手にぬかるみが強い道を進むと、かえって時間を費やしてしまう可能性が高い。
「急がば回れ、ってやつだ」
俺はゴーグルの座標を確認し、伊勢原の方へとケリュケイオンを走らせた。
「へぇ。ここの神社、綺麗に残ってるんだな」
変色した木の鳥居の奥には、崩れることなく残っている社殿が見える。おそらく、この神社を中心とした集落が、今は作られているのだろう。汚染した世界であっても、手を多少かけてやれば、腐敗の速度は遅くなる。
旧国道を走る。
周囲はかつて田畑だったであろう残骸が残っていた。
「ほんとにここで、植物が育てられて、それを人々が食っていたのか?」
子どもの頃、残された写真や本、まだ繋がっていたクロノスインターネットにあがっていた動画では、それは見事な稲穂や、咲き誇る花、実る野菜を見ることができた。ネモさんのところで見た写真も、美しい色に染まっていた。あんな世界に生まれていたら……。そう思ったことは、何度もあった。
「考えたって、時間は戻らねぇけど」
それでも、とふと思う。
いつかこの世界の汚染が消え、そうした過去の世界が再び広がるかもしれない。
夢なんて見ず、消えた世界が復活することなんてないと、ずっとそう思っていたけれど、何故だか不意にそんなことを思ってしまった。
「バベル・エデン計画が失敗しなけりゃ」
かつてそれを計画した研究者や偉い人たちも、夢を見たのだろう。
同じ夢。
大人も子どもも、男も女も、偉いやつも、そうじゃないやつも。
今は誰もが同じ夢を見る。
――いつか再び、と。
しばらく走ると川の跡が現れた。
生憎、名前はわからない。この国の多くの川と同じように、川の端には木が植えられていた痕跡が残っている。
「桜、だったか」
はるか昔には、この国のシンボルだったという花。春になると咲き誇るそれは、いつ咲くか、いつ咲くか、と毎日話題になったと、聞いた。
「花が咲く日が毎日話題に出るなんて、暢気で幸せな国だったんだな」
今は誰もが、生きるか死ぬかを気にする日々だ。
花なんて見ることもないが、もしもあったとしても、食べられもしない花が咲くかどうかなんて、誰も気にしないだろう。
桜の種類を気にするというのどかさも、羨ましい話だった。
川を背に、山間の方向へとハンドルを切る。
「あ、やべ。ケリュケイオンの腹が減ってきそうだな」
途中調子が悪くなったこともあり、思ったよりもエネルギーを消費していたようだ。どこか、クロノスシステムの電源供給場所を探さないといけない。
「おっと。ラッキー」
ゴーグルの座標を確認すると、どうやらこの近くにある。問題は、その電源供給を容易に提供して貰えるかどうか、だ。
誰かがそいつを独占しているなんて状況になっていると、交換できる物資が必要になる。
電気やガス、水道といったインフラは、クロノスシステムが統括していた。壊れかけのシステムであるクロノスシステムだが、それらの管理ツールは生きているらしく、誰でも無料で使えるようになっている。まぁ水は――安全かはわからないが。
「何か――あるかな」
最悪、サクマ兄妹のところで貰った食い物を、少しだけ提供しよう。
少々心許ない持ち物を思い浮かべつつ、該当の場所へ向かった。
小さな家の集まりが見える。
昔はそれこそ、この田畑を潤していた人々の家だったのだろう。集落にある家の中に、人影が見えた。彼らはその子孫なのかもしれない。
「人がいるってことは……。できるだけ早く、ここを去るべき、か」
配達人を好まない人がいる。罵倒されることにも慣れてはいるが、だからといって、その罵倒を好んで聞きたいわけでもない。
ゴーグルに表示される位置を確認し、通り過ぎてしまわないよう、ケリュケイオンの速度をゆっくりと落としていく。
と、目の前に横長の自動車が置かれているのが見えた。
「バス?」
色あせた、肌色と赤のボディに、『Kanachu』の文字が掠れて読める。実際にバスが走っているのを見たことはない。これも、昔見た本に載っていた乗り物の一つだ。だが、どうしてこんなところにあるのか。
「座標的にはここなんだが……って、ええ?」
バスの中に人影が見える。
更に言えば、他に何か機材のようなものも積まれていた。
もしかしたら、バスを使った住処なのかもしれない。
外から様子を見てみようかと、ケリュケイオンを押して近付く。
「お客さんかい? どうぞ!」
中から七十半ばくらいの男性が、車体真ん中の扉からひょこりと顔を出した。
「あの、失礼ですが……」
短く刈り込んだ髪に、鼻の下のヒゲ。背は俺よりも高く、がっしりとした体つきだ。見た目は少々ごついが、それでも人が良さそうな男性の瞳を見て、思い切って尋ねることにする。
「クロノスシステムの電源供給って、この辺りにあるかと思んだけど」
「うちだよ」
「え」
「うちの店」
「み、せ」
バスと男性を視線で結びつける。よく見れば、閉じられている前方の扉の横に、赤、白、青のサインポールが立っていた。ぐるぐると動くことはないが、見ていると動いているように見えてくるから不思議だ。
「そのバイクの燃料かい? 満タン入れるまで時間がかかるだろうけど、その間髪でも切っていきなよ」
きれいに整えられた鼻下のヒゲを人差し指でピッと撫でて、彼は笑った。




