十三 温泉の子どもたち02
目が覚めると、雨が降っていた。
雨には汚染物質が入り込んでいるから、迂闊に濡れるのは危険だ。
俺のコートとヘルメットである程度防ぐことはできるが、止むかどうか、しばらく様子を見た方が、無難かもしれない。
薄暗いが、それでも建物の中の様子は見える。ケリュケイオンを近くの柱にチェーンで括り付け、館内を探索することにした。
どうやらここは小さめの旅館だったようで、俺が寝ていた場所の近くに、カウンターのようなものがあった。引き出しを開ければ、和紙でできたノートが出てくる。開いてみれば、人の名前と住所。
「宿帳か」
ここに人が行き来していた、証だ。
手書きで、文字の大きさも、太さもまちまちのそれは、書き込んだ宿泊客の性格が現れているのだろう。
「会ったこともねぇのに、なんか……この人たちがここにいたと思うと」
中には、横浜市中区――俺の家があった辺りだ――の住所の記名もある。もしかしたら、すれ違ったことがある人かもしれない。
「日付が……あぁ、バベル・エデン計画よりも随分と前だな」
俺の生まれるよりもさらに前の日付で、宿帳は終わっていた。つまり、宿はもう四十五年以上も前に、営業を終えていたということだ。
廊下を進むと、客室が連なって見える。
畳が腐り、一歩でも入れば踏み抜いてしまいそうだ。
破れた障子は、それでもなお障子紙が張り付いたまま残っていた。宿帳もそうだが、和紙というのは、随分としぶといものらしい。
「ん? 地下があんのか」
絨毯があったとおぼしき階段の中央は、繊維が僅かに残る。そこを、滑らないようにゆっくりと下っていくと、広間と二つの入り口があった。
「こりゃぁ、大浴場か」
温泉の出る場所にある宿だ。大浴場があって然るべきだろう。
「どっちが……男湯だったんだろ」
たとえすでに使われていなくても、なんだか女湯を覗くのは気が引ける。何かヒントがないかと見回せば、青い暖簾の残骸が見つかった。
「こっち……ってことで、いいかな」
時間帯で男女を変える大浴場、という温泉もあったらしい。小さい頃読んだ本に、そんな描写があったことを思い出す。
温泉といえば、バベル・エデン計画で再汚染となる前に、両親に連れて行って貰ったことがあった。人生で一度だけの温泉だったが、死ぬ前にもう一度入ってみたい、なんて温泉宿に来たからか、思ってしまう。
ガラスとアルミでできている引き戸は、地下ということもあって、腐食は少ない。中に入ると、湯の流れが浴槽にあった。
「え……。まさか温泉が湧き続けてんのか?」
近付き、匂いを嗅ぐ。特に強い匂いも、色もしていない。
アルカリ泉か。
手をそっと入れてみる。
――温かい。
湯はどこからか流れてきて、そして流れていく。湧きだし続けているようだ。
「ちょっくら入らせて貰うか」
宿の中を見て回っても、今のところ誰にも会わない。であれば、まぁせっかく湧いている温泉に、入っても罰は当たらないだろう。
「温泉は汚染されにくいらしいしな」
多少汚染されたとしても、温かい湯に体を浸すことを考えたら、温泉に浸ることを選んでしまう。死ぬ前にもう一度、とほんの数分前に思っていたことが、こんなにも早く実現するなんて。
服を脱ぎ、置かれた桶を使って湯を掬う。体表を流れる湯が、体中の汚染を流れ落としてくれるような、そんな気がした。
「濡らしたタオルで体を絞るのとは、やっぱりワケが違ぇな」
いつもは、水を使わないで済む洗浄剤を使っているが、せっかく温泉があるのだ。しっかりと流したい。
いよいよ湯に入る。
「あーっ」
思わず低い声が出る。
湯温は四十二、三度くらいだろうか。
温かく、体が芯からほぐれていくような感覚になる。空気清浄フィルターのリミットがなければ、いつまでもここに滞在してしまいそうだ。
「……って、リミットがあるからな」
いつまでものんびりしていられるわけではない。
名残惜しいが、湯から上がり着替える。
僅かな時間。それでも、体の疲れが取れたような気がした。
「あぁ、いい湯だった」
そう呟いたとき。
「おい、お前!」
若い――いや、幼い子どもの声が響く。
「聞こえてるだろ! こっち見ろよ!」
声の主の方へ振り向くと、小さな子どもが、さらに小さな子の手を握り、脱衣所の入り口で、俺を威嚇していた。
「おう、坊主。聞こえてる」
二人は兄弟だろうか。それにしては、全然似ていない。二人とも、ぼさぼさに伸びた髪の毛に、細っちょろい体。目が少しくぼんで大きく見えるのは、栄養バランスのせいか。この温泉で使われていたであろう子ども用の浴衣を着ている。それでも清潔感があるのは、温泉のお陰だろう。
「お前、ハイタツニンってやつだろ? 荷物よこせよ!」
今にも飛びかかるぞ、と言わんばかりの体勢で、兄貴分が叫ぶ。
「確かに俺は配達人だが、お前に荷をやるわけにはいかねぇな」
「うるさいっ! 飯を……! 飯をよこせっ!」
彼は俺に突撃してくる。だが、十歳かそこらのひょろい子どもが飛びかかってきても、何ということはない。そのまま受け止め、抱き上げてやった。
「お前ら、ここに住んでんのか」
「……おう」
驚くほど軽い彼の体を抱きしめると、泣きそうな顔を隠すように返事をする。
もう一人の子どもは、五歳くらいだろうか。不安そうな顔でこちらを見てくるので、兄貴分を抱いたまま膝をつき、その子も呼び寄せた。
弟分は――いや、この子は女の子だった。妹分も兄貴分の様子を見て、近付いてきて俺に抱きつく。
「大人は?」
「随分前にいなくなった」
「そうか」
ここにいた大人は死に絶え、子ども二人で生き延びてきたのか。こうして抱きしめられることも、きっと長い間なかったのだろう。
俺は別段子どもが好きなわけではない。それでも、目の前で震える子どもがいれば、抱きしめるくらいは、してやりたくなる。
「飯、ないのか」
「あんまりない。虫を捕まえたり、草を食べたりしてる」
浴場の窓の向こう側に、汚染耐性植物だろう草木が生えているのが見えた。
「あれか?」
「そう。オンセンモリのじいさんが、アレを食えっていってた」
「オンセンモリ? ……温泉守か。その爺さんが、最後の大人だったのか?」
「うん。僕たちには、じいさんしかいなかったのに」
ぐすり、と涙が出てきた兄貴分の背中を、優しく撫でてやる。
あまり深入りをするな。
情が移ったら、残しておくのが辛くなるぞ。
俺の中で、もう一人の俺がそう警鐘を鳴らす。それでも、目の前の子どもを無視し、いないものとすることなど、できやしなかった。
二人を抱き上げたまま、浴場の外にあった広間へと連れて行く。あそこなら、三人で床に座ることもできそうだ。
広間には、今にも壊れそうな椅子がいくつも置いてあった。今にも壊れそうというか、もう壊れているというか――。
二人を床におろし、俺が先にその場に座ると、彼らも同じように座った。
「俺はホウジョウ・エメス。二人は?」
「僕は、サクマ・デルピニ」
「あたちは、アクマ・テミ」
「テミ。アクマじゃなくて、サクマ。もっぺんいってみて?」
「サアクマ・テミ」
うまく言い切れない。それでも、デルピニは満足したようだ。
テミは五歳にしては、言葉がつたない。大人がいない状況になって、大分経つということだろうか。
「さっき言ってた、温泉守の爺さんってのは、二人の爺さんなのか?」
デルピニは首を左右に振り、テミをぎゅうと抱きしめた。
「オンセンモリのじいさんは僕が小さいときから、一緒だった。僕は、気付いたら父ちゃんも母ちゃんもいなかったから」
「うん」
「テミと、テミの母ちゃんは、じいさんが連れてきた。でも、少ししたら、テミの母ちゃんは死んじゃった」
「二人で生きてきたんだな」
デルピニとテミの頭を撫でてやると、二人は大きくはない瞳いっぱいに涙を浮かべ、泣き出した。小さい子どもが泣いたときに、どうしてやれば良いのかなんて知らない。だから、ひたすら頭を撫でながら、二人が泣き止むのを待った。
デルピニの親は、彼が物心つく頃には死んでいたようだ。他の大人の名も出てこないことから、その頃にはもう、この集落には温泉守しか大人はいなかったのかもしれない。
サクマというのは、その温泉守の爺さんの苗字なのだろう。
子どもだけになっていった、その詳細を尋ねるのは、残酷すぎる気がしてできなかった。
「配達人のことは知ってたのか?」
彼は、俺に荷物を渡せと言ってきた。配達人が他所から食べ物を運んできたことが、あったのだろう。
「じいさんが、何度かハイタツニンって人から食べ物をもらってた……から」
「そうか」
俺は体につけている鞄から、荷を取り出し見せる。
「これが食い物かどうかは、俺は知らねぇ。俺は荷を届ける。それだけだ」
二人の子どもに荷を見せつつ、手の届かない高さに持ち上げた。彼らが手を伸ばしてきたからだ。
「でもな」




