十二 温泉の子どもたち01
「おい、お前!」
日が昇り、建物の奥深くで過ごしていると、不意に声が響いた。
昨日ここに到着したときにはすでに薄暗く、下手に動き回らずに、玄関先で体を横たえるのが安全と考えた。だから、今こうして建物の中を見て回り、少しばかりさっぱりとさせてもらったのだ。
そんなときに聞こえた声。
「聞こえてるだろ! こっち見ろよ!」
その声に振り向けば、そこには――少年が立っていた。
***
キルケーと別れた俺は、そのまま町田を抜け、相模大野、海老名、相模川跡を越えた。その後厚木に入った辺りで、日が暮れる。
日の落ちた後の移動は難しい。
ケリュケイオンのライトを使うのは余計なエネルギーが必要となるし、そもそも道にも家の中にもほとんど灯りがない。
人が多数通るような大きな道や、保安のために使われる駅舎などは、地底を通るクロノスシステムとかつて繋がったまま、薄暗くも灯火が点く。だが、この山の中ではそれも難しそうだ。
稀に毒成りカボチャの種から採った油で、個人で灯りを点けている集落の家もあるが、そんな家は稀だ。毒成りカボチャは実に汚染物質を溜め込むようになったので、食用としては使えない。搾油率はたった二パーセントなので、今のこの世界で夜、灯りを点けるためにわざわざ栽培することは殆どない。
灯りとして使える多くの油はクロノスシステムが保持しているという話も聞くが、産婆などの者の手に渡っているという。
「ま、夜は寝るもんだし」
時間をコントロールできない出来事にだけ灯りを配るのは、効率的だと思う。
落ち始めた太陽は、気付けば随分と地平に近付いていた。
「急がねぇとな」
入り込んだ道の中、何か集落がありそうな目印がないかと探す。
「この辺は……温泉地だったのか」
地面に落ち半分ほどが埋まっている青看板に、『七沢温泉』という文字が浮かんでいた。
「温泉地だったなら、宿の残骸くらいはあるだろ」
道路は穴があいていたり、瓦礫が積もっていたりと、荒れている。それでも、ここに来るまでよりはまだ、マシなのかもしれない。
青空の下での太陽の姿なんてもうずっと見ていないのに、夕方になったと告げるかのように、山々のシルエットが濃くなり、日はその存在感を示してくる。
山間の枯れた木々の中を通り、しばらく走っていると、いくつかの宿だったものらしき跡が、夕闇の中姿を現した。
「どれも、なかなかに風情があるねぇ」
今にも崩れ落ちそうな風合いの宿たちは、扉が消え失せて上がり框が見えるものもあれば、ぴっしりと扉が閉じられていて、その前に泥がへばりついているものもある。
ケリュケイオンを降り、押して歩く。引き戸が動きそうな宿があったので、とりあえず一夜の宿とさせて貰うことにした。
「今夜は汚染雲が、厚くなりそうだな」
ケリュケイオンと共に中に入る。
直前にちらりと見上げた空は太陽が隠れきり、黒に近い灰色の、油をたっぷりと吸い込んだような雲に覆われていた。
夜を迎えると、宿は完全に暗闇に飲み込まれる。
予想通り、この辺りは外も一切灯りが点かないようだ。
「集落としても、もう随分機能してねぇのか? バベル・エデン計画よりも前に?」
生物兵器戦争の肥大化で世界中が汚染された後、生き残った各国代表が手を取り合い、とにかく人類を生かしていくことを目的に、六十五年前に作られたチキュウ連邦。
そこの研究機関である『バベル・アーク』が、連邦結成当初から研究していたという内容で発表した計画。それが『バベル・エデン計画』だ。
なんでも、汚染を取り除くシステムを開発したとかで、再び地上で何も気にせず生活できるようになるというのが、宣伝文句だった。ついでに言えば、クローン人間を作ろうとしていたのも、このバベル・アーク。
「あっという間だったな」
それが、大失敗に終わったのだ。
いや、そもそも何が成功なのかもよくわからない。最初の一年だか二年はうまくいっていた気がする。ほんの少しだけ、太陽が明るく見えたのだから。
だがその後、浄化システムの暴走で、そのシステムが溜め込んでいたらしい汚染物質が、再拡散された。
それが十七年前。
太陽が黄色く見えたのはそれが最後だ。
あの頃二十八だった俺は、新しくできた海辺をケリュケイオンで走っていた。
フィルターなしで走れる日が来るかもしれない、そんな希望すらあの頃は持っていたことを思い出す。
結局はそんなものは夢物語だった。
一度にすべてが崩壊したわけじゃない。
でも、あれほど美しいと思えた太陽が、日一日とまるで泥を飲み込んで貯めていくように、灰色に変わっていった。
そうして再拡散された汚染物質は、世界中を死の世界に陥れた。
場所により濃淡はあるものの、人をはじめとして、生き物はただでさえ減っていたのに、そこから見る間に消えていく。
長く続く戦争を契機に、人々の生活は地下へと潜っていたため、廃墟と化していた地上の建物は、汚染物質のせいで、さらに頽れていった。
やがて、海面の局地的上昇や山崩れ、地割れなどが連日起こる。
そうして、地球という惑星は緩やかな死、から急速な死へと、時間軸を変えていった。
「ここの地域は、いつまで生き残ってたのか」
明日、明るくなった頃に宿の中を見てみよう。
もしかしたら、何か食べられるものが落ちているかもしれない。が、廃墟となると難しいだろうか。食べ物がなかったとしても、使い残しの空気清浄フィルターの一つでもあれば、御の字だ。
建物の中という、汚染が少しは薄まっている場所で眠れることに感謝し、俺は空気清浄フィルターとヘルメットゴーグルを外し、体を横たえて瞳を閉じた。




