十 かつての戦友・かつての……01
「お、あれが調布駅跡か」
少女と別れ、元のルートに戻る。
住宅地から急に開けた広場が見えた。
新宿のような高さのビルはないが、それでも林立するビルは六階や七階程度はあるのだろう。それらが鉄骨だけを残していたり、一度は木々に侵食されたらしい痕跡が残っていたりする。
俺は京王線跡を横切り、ゴーグルが示す方向へとケリュケイオンのハンドルを切った。
再び住宅地が広がる。ここをこのまま勢いよく突っ切っていけば、目的地へも早めに着くだろう。
そう思ったが、すぐにスピードを落とすことになってしまった。
空気清浄フィルターのランプが、赤く点滅し始めたからだ。
「チッ。何があんだよ」
急速に赤い点滅を始めるということは、何か異変が起きている可能性もある。注意をしないといけない。
目の前にはボロボロになっている土手。
その向こうには、川が流れていた。
――かつては。
「ここもあっという間に、干上がっちまったよな」
東京の海沿いが沈み、川崎が沈み、横浜が沈み、そして多摩川は上流域で地形変動が起き、海と山に挟まれたエリアにあるここ多摩川中流域からは、水が消えた。
川底はひび割れ、この場所に豊かな水が流れていたとは、到底思えない。
それでも、五年程前に通ったときに怨嗟のように溜まっていた汚泥は、今はすっかり風で飛ばされていったらしい。ケリュケイオンが通るときに、そうしたものにタイヤをとられないで済むのは、助かる。
だが。
本来この辺りは、山谷風が吹く地域だ。
多摩川の川底の汚泥なども、それで乾燥し、吹き飛んだ。それなのに、今ここでケリュケイオンを止め、様子を伺っていても、風などするりとも吹かない。
「……なるほどなァ」
だから、空気清浄フィルターのランプが赤く点滅したのか。
空を見上げる。
大陸側の黄砂に汚染された空気が混ざり、昼の太陽が、遙か彼方にくすぶって見えた。
世界的な汚染により多くの生き物は種を断絶させたが、環境に順応し、耐性を持って生態を変異させ、生き延びた奴らも少なくはない。人間は順応ではなく対応をしていったため、どんどんと死に絶えていっているが。
昆虫と一部の植物は、特に順応が早かった。人類以外の脳のある生き物は、いくつかが生き延びているが、夜に活動する奴らが殆どだった。
土手の端を、これまた順応して生き延びたらしい種である蛇が、ぞぞと動いているのが目の端に入る。
「ありゃぁ、食えない蛇だな」
毒を持つ蛇は、うまいこと調理しないと腹が負けてしまう。腹下しだけならまだいい。下手したら、毒にやられて死ぬことだってある。
毒蛇も汚染に対して耐性をもって進化したらしく、種により毒の場所が異なっている。だから、詳しくないヤツが迂闊に手を出すことはできない。
「耐性アオダイショウだったら良かったのに」
汚染を溜め込む場所が分かっている生き物であれば、場合によっては食べることもできた。耐性アオダイショウもその一つで、喉の下から長く腹側に細長い袋を持ち、そこに汚染を溜め込んでいる。毒のない蛇だから、それを取り除けば、蛇肉として食うことができた。
普段は昆虫類ばかりを食べているが、たまには肉も食いたくなる。そんなときは、配達先で狩りをした。
「に、しても。マジで風がねぇな」
川の左右には鉄橋だったらしい残骸が見える。傾いた橋台に、時に何か生き物がぶつかってぶらぶらと揺れる鉄の一部は、夕刻のシルエットにでも浮かんだら、さぞやロマンティシズムに溢れているだろう。
「川底の、変なヒビに引っかからないでくれよ、ケリュケイオン」
いつまでも様子を伺っている場合じゃない。こんな場所に長くいるのは危険だ。
ところどころ大きすぎる割れ目があるが、一気にそこを通り抜ける。
渡りきれば、東京から神奈川へと足を踏み入れたことになった。
ここから先は、さらに海抜があがる。枯れた木々と岩の間を走ることになると思うと、それはそれで気が滅入りそうだ。
「そろそろ飯を調達してぇな」
この辺りに集落でもあれば、手持ちの何かと交換して貰えるかもしれない。とはいえ、手持ちの何かもあまりない。そんなことを思いながら、街道を走らせていく。
周囲はだんだんと家の密集が減り、野球場の跡地が見える。
この辺りにはもう、集落はなさそうだ。
そんなことを思っていた矢先のことだった。
「……キルケー」
その野球場の向かい。
石でできた鳥居が崩れた先に、見覚えのある女が立っていた。
右足に大きな怪我をしたために癖が残る、重心が傾いた立ち方。少しだけ濃い肌色に、大きめの耳。それに、左眉の横についた二つのほくろ。見間違うはずがない。
思わずエンジンを止め、降りる。
俺の言葉が聞こえたのか。
女はこちらを見て、目を細めた。
「なんだ。ケリュケイオンに乗ってるってことは、エメスか」
短時間対応の空気清浄フィルターマスクをした女――キルケーが、俺を呼び寄せる。ケリュケイオンを押し、神社とおぼしき場所へと、向かった。
境内には、紐を通していた痕跡のある二本の柱や、おそらくは神木と言われていたであろう大木の残骸が残っている。端にある石灯籠は奇跡的に残っており、その周囲を耐汚染性苔の一種がみっしりと覆っていた。
「久しぶりだな」
長く赤い髪を無造作に一つに纏めたキルケーは、俺とケリュケイオンを、社殿の中に招き入れる。階段の横がスロープになっていて、押して上がれるようになっていた。
三和土で靴を脱ぎ、ケリュケイオンを止める。
崩れかけたような木造の小さな社殿には、無数の鉄骨が外と中から立てかけられ、補強が施されていた。屋根はところどころ破れて空が見えそうだが、その隙間を塞ぐように、鉄板や板切れが打ち付けられている。見た目以上に、しっかりと住む場所として機能しているように、感じた。
空気清浄フィルターのランプは、薄い緑色を示している。地下ほどではないが、やはり建物の中は汚染がマシのようだ。ここでなら外しても問題がないだろう。
ヘルメットゴーグル、それに空気清浄フィルターマスクを外す。
「これ、キルケーが?」
鉄骨をノックすると、彼女はフィルターマスクを外しながら、「ああ」と返事をした。
「それはオデウスがやった」
それは、彼女の夫の名前。
「あいつは今、出かけてるのか?」
「――死んだんだ、去年」
「……そうか」
キルケーと俺は幼なじみで、十年前まで一緒に配達人としてタッグを組んでいた。
この仕事を随分と気に入っていたようなので、彼女が恋人と一緒になるから仕事を変えると言い出したときには、驚いた。
恋人だったオデウスも配達人だったので、そっちとタッグを組み直すのかと、思っていたのだ。
キルケーとタッグを組んでいたのは、俺が最初で、そして最後だった。
「あんた、飯は?」
「実は朝から何も食ってない。何かないか……? 俺が交換できるものなんて、今あまりないんだけど」
「いいよ。昔馴染みのよしみだ。たいしたモンじゃないけど、よけりゃ」
そう言って彼女が出してくれたのは、地底コオロギの干物と花落ち菜花の包み漬だ。どちらも汚染下で生き残り、耐汚染性変種となったもので、人が比較的簡易に増殖できる、数少ない食料だった。
「助かった。これで明日まではどうにか持つ」
「エメスはまだ、配達人を続けてるのか?」
「ああ」
さくり、と地底コオロギの食感が、音を立てたように感じる。
「俺にはこれしかねぇからな」
「そんなこと、ないと思うけど」
彼女も同じように、地底コオロギを口にした。
「キルケーは配達人をやめてから、どうやって生きてきたんだ」
四六時中、彼女と共に配達をしていたわけではないが、二人組ということで通常よりも遠くまで配達に行くことも、それなりに可能だった。
そういえば、二人で青森の方まで荷を運んだときは、春だというのに随分と寒かった。日本海に面した道路は、少し気を抜くと崖の下まで一気に落ちてしまいそうで、二人で声を掛け合いながら走ったものだ。あれも、三月の今時分だっただろう。
三月の頃といえば、水戸まで走ったこともあった。あれは複数の荷を頼まれて、二人でよたよたとバイクのバランスをとりながら、慎重に走って行ったんだった。城跡だっていう、崩れた長い壁をぐるりと回って、届け先まで行ったときには、二人で目を回しそうになったものだ。あの年の三月はやたらと暑くて、飲み水が足りなくて難儀していたことも思い出す。
駆け出しの頃、飯にありつけなくて、二人で一つの小さな昆虫を分け合ったこともあった。あの頃から、僅かな飯で生き延びる術を、体に覚え込ませていったんだった。
それに、朝起きて自分一人ではない、息をしている人間が近くにいるということは、それだけで安心感を生む。
――俺たちは恋人だったわけではない。




