外伝 捲土重来の章
元亀四年四月。西条作戦の途上で病を悪化させた武田信玄は領国甲斐へ引き返す途上、信濃駒場で息絶えた。信玄は甲斐に辿り着けなかった。そして…。
目覚めた時彼は一人きりだった。そこは死後の世界にあるもう一つの日本国。戦いの中で死んだ者が落とされる修羅の世界である。死の原因となった傷や病は癒える。正しくはそれ以上は悪化しないと言うべきだろうか。
討死であれば、共に戦った者たちが揃って同じ所へ落とされる。病死であれば、多くの場合は本拠地で亡くなるのでさほど危険はない。だが信玄の場合、陣病没。戦場に出て期間中での死であったために、味方も居なければ土地勘もないと言う最悪の状況であった。
甲斐へ戻ろうと北へ歩みを進めたが、その途上高遠城で行く手を阻まれた。高遠の城主は諏訪の庶流高遠頼継。一度は本家を裏切って信玄に仕えた男だが、恩賞に不満を抱いて離反、最後は自害に追い込まれていた。死後は主家に帰参と言うよりも、武田の庇護下にあるらしい。
頼継が亡くなってからすでに二十年は経っていたので、向こうは信玄の素性に気が付かず、信玄は危ういところで逃走に成功した。
幸いにも、すでに死んだ身であるが故に食料を必要としない。彼は情勢の変化をじっと待った。彼を知る味方が落ちてくることを期待して。
二年後の天正三年。無論信玄はこの改元を知らなかった訳だが、三河長篠の地で信玄の後継者勝頼が織田徳川の連合軍に大敗した。武田家にとっては終わりの始まりであったが、冥界の信玄にとっては待ちに待った救いの一手であった。
長篠の敗軍が武田領へ戻ろうとする途上で信玄と遭遇した。山県三郎兵衛、内藤修理、馬場美濃守と言った後に四天王に数えられる功臣との再会は信玄を元気付けた。四天王で此処に居ないのは上杉家の抑えに回されていた高坂弾正だけ。
「これだけの将を一度に失ったとあれば、四郎はこの後苦労するであろうな」
と現世の息子の心配をしたが、家臣たちから聞こえるのは勝頼への不満ばかり。
信玄は己の失敗を悟った。家臣たちは信玄に心酔するあまり勝頼を信玄をことあるごとに比較して軽んじたのだろう。
山県、内藤、馬場の三名はもともとは別の苗字であり、信玄に見出されて名家の名跡を継ぐことになった者たちだ。故に能力もさることながら信玄への忠義は厚い。
勝頼はもともとは母の実家諏訪家を継ぐべき男児であった。だが嫡男義信を処断したことで四男だった勝頼が後継者として浮上する事に成る。義信を幽閉した時点で勝頼をすぐに甲斐へ呼び寄せて跡継ぎとして教育すべきであった。その時点ではまだ義信の廃嫡には踏み切れなかったのだが、少なくとも亡くなった二年後には決断すべきであった。結局甲斐へ呼び寄せたのは義信の死から数えても四年の後。
もう一つの誤算は勝頼が甲斐へ戻った直後にその正妻が死去したこと。この正妻は信長の姪で養女と言う体裁で嫁いできていた。つまり勝頼の嫡男信勝は織田家の血を引いている。勝頼の正妻が存命で織田家との縁を繋いでいてくれれば、その後の両家の関係も違っていただろう。
義信の死から程なくして、織田家との同盟関係を強化するために娘の松姫と信長の嫡男信忠の婚約を成立させたが、二人がまだ幼いために婚儀は先送りになっていた。織田家との関係が強固であれば、信長の介入を考慮せずに徳川攻めを行えたかもしれない。信玄最後の軍事行動の実態は単なる徳川領攻略であったのだが、信長が絡んできたことで上洛を企図したとも言われたが、西上作戦と言う名称ですら過大評価である。
集まってきた家臣たちは口々に甲斐への帰還作戦を提案してきたが、
「一族同士の戦いは望まない」
と差し止める信玄。彼の死の翌年に父信虎が高遠で亡くなってその地に留まっているので、このまま甲斐へ進めば父との戦いは避けられない。
「まずは三河を手に入れよう」
だがそれも容易な話では無かった。
この世の三河を支配するのは松平清康。現世では家康の祖父として知られる人物だ。清康が尾張守山城攻めの際に家臣阿部弥七郎に殺害されたのは天文四年の事。信玄がまだ元服する前の話だ。この世では前世での無念が力に変わる。それ故に戦いで亡くなった者が強く、病に倒れたものはそれよりも弱い。清康のように若くして討死した者は厄介だ。すでに死んだものなのでそれ以上老いることがない。清康が四十年以上も現役で暴れられる所以である。
清康は源姓新田流の得川氏の庶流を自称し世良田次郎三郎と名乗った。これがのちに家康の改姓に繋がるのであるが、果たしてこれは事実なのであろうか。家康が徳川を名乗るに際して祖父の逸話を捏造したのではないか。ともあれ清康が一度は三河の松平一門を糾合して三河一円をまとめ上げたのは事実らしい。そもそも家康の松平家は一門の宗家では無かった。家康が一門を束ねる事が出来たのは祖父の活躍があったからで、それでも足りずに徳川を名乗ることで特別な存在として君臨する事に成った。
前世で自身を討った相手と対峙した者は二通りの反応を見せる。一つ復仇に燃える場合、もう一つは恐怖から従ってしまう場合だ。三河の松平一族は後者が多かったらしい。清康はかつて討ち果たした一門を再び糾合した。中には復讐心を抱いたものも居たが、清康がある程度の勢力を築いたの後には従わざるを得なくなったようだ。
一門の再統合に約五年。敵対する吉良家を打倒して、東西に目を向けると西の尾張は比較的安定しており、東の遠江はやや混乱していた。清康が遠江侵攻の橋頭保として曳馬城を手に入れたのは偶然だった。この城は吉良家の家臣が押さえていて、東から攻めてくる今川の圧力に抗するために西の清康に支援を求めてきたのだ。
今川家との一進一退の攻防の結果、曳馬城を確保したころに息子の広忠が現れた。清康が亡くなってから十四年後。若くして病に倒れたのであるが、息子の竹千代(のちの徳川家康)を人質に取られて、苦悶の中での死であったので、条件としては討死に限りなく近い。
息子広忠は西の尾張への侵攻を提案したが、
「仇とも言うべき弾正忠(信秀)はまだ居ない。先に東の遠江を取って万全の態勢で迎え撃とう」
と言う父清康の意見を入れて遠江への侵攻を継続した。清康が曳馬に陣取り、広忠が岡崎で後方支援を行う。曳馬城とは現世で孫の家康が居城とした浜松城の前身である。清康と広忠の布陣は奇しくも現世の家康と信康のそれと一致していたのだ。
宿敵織田信秀の死は三年後だが、その情報が三河に届いたのはそれから数年後の事。それまでは終わるの守護代であった織田大和守信達が尾張を仕切っていて信秀はひっそりと過ごしていたのだ。それが激変したのが守護家の斯波義統の登場である。
現世で守護代の織田信友に殺害された義統をいち早く庇護した信秀はこれを担いで守護家を打倒し尾張の実権を掌握した。程なくして信友も信長に打ち取られて現れたが、これも信秀の手に掛かった。
この世界では兵の補充が容易ではないので、大きな戦いは起こり難い。戦局が動くのは前世で大きな戦が起きて大量の兵が落ちてくるとき。尾張と三河の国境でそれが起こったのは永禄三年。つまりは桶狭間の合戦である。
信長の軍勢に討たれた今川義元は直ちに味方の兵を集めて沓掛城に陣取った。この義元勢を巡って尾張と三河で調略戦が展開されたが、義元が選んだのは尾張の信秀との共闘だった。松平家と組めば今川領へ帰れるが、帰ったとしても実家を仕切るのは父の氏親。現世で急逝した兄の氏輝も、家督を巡って争った異母兄の玄広恵探も居て、彼の出る幕は無い。だからと言って松平家の後押しで一門と戦う気にもなれない。それならば信秀と結んで三河遠江を切り取って土産とすれば実家での発言力も得られる。と言う訳だ。
これで勢力の均衡が尾張方へ傾くかと思いきや、現世で起きた三河一向一揆により松平方に兵が供給されて再び均衡状態へと戻る。
この均衡状態は長篠勢と合流した信玄が介入することで三河勢の方へ傾くかと思われたのだが。
信玄の目的は三河勢と共闘して本領甲斐へ帰還する事。その為には駿河の今川本家とも同盟、最低でも相互不可侵を望んでいるのだが、その為には尾張に割拠する義元の首を手土産にしたい。
と言う事で駆け引きが続いていた。それらの均衡をすべて崩す一手が西より現れた。本能寺に倒れ、この冥界で短期間に一大勢力を築き上げた信長である。




