近衛軍少将叙任、 路地裏の少女が昇る日
帝都スエンジール王城、白の謁見の間。
磨き上げられた白大理石の床に、朝の光が静かに反射していた。天井近くのステンドグラスから差し込む光は、帝国の紋章と四聖獣、そして太陽を描き出している。
まもなく始まるのは、近衛軍の階級叙任式。
だが、そのなかに、ひときわ異例の一件が含まれていた。
(……私が、ここに立ってる)
マカロンは、待機列の一番前で、汗ばむ掌を制服の裾でそっと拭った。
装いは近衛軍の礼装。純白に近い上衣、金糸で縁取られた襟、肩には近衛を示すひまわりと十字の刺繍。そして胸元のワッペンは――近衛軍兵士隊長としての銀の星。
本来なら、この星から上がるには、長い年月と戦功、書類選考と上官たちの推薦、多段階の試験が必要だ。通常ルートなら、
初級兵士 → 二級兵士 → 三級兵士 → 兵長 → 兵士副長 → 兵士隊長 → 連隊副長 → 連隊長 → 大連隊長 → 少将……
という長い階段を、一段ずつ上がっていく。
しかし、今日呼ばれるのは、兵士隊長からの――特進。
(兵士隊長から、いきなり近衛軍少将)
(正直、今でも信じられない)
列の少し後ろで、囁き声が飛び交っていた。
「ほんとに特進なんだってよ」「兵士隊長から少将なんて、前代未聞だぞ」「むしろ、元帥たちが健在だったら止められてたかもな……」「でも、あの子、戦果だけなら十分じゃないか?」
耳に入る声を、マカロンは意識的に押し流した。
気にしている暇はない。ふらついて転ぶわけにはいかなかった。
玉座の前には、純白のマントを羽織ったマリアが立っている。
仮初の女王――太陽星権能《獅子》の担い手。
その隣には、深い赤のドレスを纏ったブランディア・テスタロッソ。宰相にして月星《蟹》、マリアの右腕。
列の端には、近衛軍の古参たち。西門管理隊長ブルートを始め、東西南北各門の責任者、現役の将官たち。さらに、その後列には十二星の面々の一部も控えている。
やがて、儀式の開始を告げる角笛の音が鳴り響いた。
「これより、近衛軍階級叙任式を執り行う」
司祭の声が謁見の間に広がる。
いくつかの昇進者の名が順に読み上げられ、それぞれが前へ出ては新しいワッペンを受け取っていく。兵士たちが隊長へ、副長が隊長へ。地道な階段を一段ずつ上がっていく。
そして――
「近衛軍兵士隊長、マカロン」
その名が響いたとき。謁見の間の空気が、ほんのわずかに変わった。
(……来た)
マカロンは、一歩踏み出した。
膝が少し震えているのが、自分でも分かる。けれど、足は止まらない。
真っ直ぐに伸びる赤い絨毯の先。玉座の前。
路地裏で倒れていた少女が、今、その場所に立とうとしている。
「前へ」
マリアの声は、よく通るが、どこか優しい響きを含んでいた。
玉座から数歩分手前――叙任者が跪くための位置で、マカロンは足を止めた。
胸の前で拳を握り、一度だけ深呼吸。そして、片膝をつく。
「顔を上げて」
マリアの言葉に従って顔を上げると、金色の瞳と真正面から目が合った。
ひどく懐かしくて、それでいて、今までよりもずっと厳しい光を帯びている。
「マカロン」
「……はい」
「あなたは、近衛軍兵士隊長として帝都防衛戦線、路地裏での魔族斥候撃退戦、城門防衛戦……
数えきれない戦いで隊を率い、守るべきものを守ってくれた」
マリアの声が、謁見の間の隅々まで響いていく。
「元々、近衛は“王城の中”だけを守る部隊だった」
「でも、あなたはあの日、ひまわりの家の子どもたちが西門までたどり着いたときから
“城の外”にも剣を向けてくれた」
あの日の光景が、胸の奥によみがえる。西門で担架に乗せられたビッケたち。泥と血にまみれた姿。「謎の盗賊」に追われて帝都まで逃げてきた彼ら。
(あのとき)
(西門で倒れていたのが、私の知っている子たちじゃなかったとしても――)
(きっと私は、同じように走っていた)
マリアは続ける。
「四神軍が南方で戦い、十二星たちが世界の外側と戦っている間」
「帝都の路地や広場で線を引き続けてくれたのは、近衛軍兵士隊長マカロン」
「名もなき子どもたちと、逃げ場を失いかけた人々のために」
静かなざわめきが、周囲から起こる。
近衛の兵たちも、他軍の将たちも、十二星も、その言葉には異論を挟まない。
「本来なら」
マリアは、一瞬だけ息を吸い込んだ。
「本来なら、あなたを少将にするには、まだ段階を踏むべきだと、制度は言うでしょう」
「兵士隊長から連隊長、大連隊長を経て時間をかけて将官に」
マカロンは、思わず唇を噛みしめた。その通りだと思っているからこそ、この昇進を「喜びだけ」として受け入れられない自分もいる。
「けれど」
マリアは、はっきりと言い切った。
「今、この帝国に、そんな時間は残されていない」
「四神軍は、南方で主力を失った。大事な仲間も囚われてしまった。」
「私の仲間の十二星の何人かは、すでに魔族領への進軍準備に入っている」
「帝都を守る“将”が、圧倒的に足りない」
その言葉は、謁見の間の全員にとって痛いほどの現実だった。
「だから私は――」
マリアは、マカロンを見下ろした。
「制度よりも現実を優先する」
「近衛軍兵士隊長、マカロン」
ここから先は、形式に則った叙任の文句だ。
だが、その中身は、明らかに“異例”だった。
「アル・スエンジール帝国仮初の女王、マリア・サン・クオンドールは」
「近衛軍兵士隊長マカロンを、近衛軍少将に特進叙任する」
ざわめきが、明確な「驚嘆」に変わる。
ブランディアが一歩前へ出た。手には、純白の小さな箱。
蓋が静かに開かれる。
中には、近衛軍少将のワッペン。
他の将官用ワッペンと違い、中央の星に小さなひまわりの意匠が刻まれている。女性向け且つ特注品だと、一目で分かる。
(ほんとに……作っちゃったんだ……)
以前、何かの冗談でマリアが言った。
『あなたの将官章は、ひまわり入りにしてあげる』
本気だったらしい。
「前を向いて」
マリアが、マカロンの胸元に手を伸ばした。兵士隊長の銀の星が外され、新しい少将章が付けられる。
カチリ。
短い金属音が、やけに長く響いた気がした。
「……重くないですか」
マカロンは、かすれた声で問うた。マリアは、ふっと笑う。
「軽いと言ったら嘘になるわね」
「でも――」
マリアは、そっとマカロンの肩に手を置いた。
「あなたなら、背負える」
(そんなこと言われたら)
胸の奥が、熱くなる。こらえきれなくて、目の端がじんわりと濡れた。
「ここからは、形式外の言葉も許してもらうわね」
マリアは半歩下がり、謁見の間に向き直る。
「皆、聞きなさい」
「これは、ただの“特進”ではない」
「これは、路地裏で倒れていた一人の少女が」
「孤児院で育ち、帝都の路地で生き延び、王城で働き、剣を取り――」
「“守られる側”から“守る側”へと変わる物語の、ひとつの区切り」
「その物語を、私は女王として」
「そして一人の“先輩”として」
「ここに祝福したい」
マカロンの目から、一筋、涙がこぼれた。拭おうとした手を、マリアが制する。
「いいの」
「泣きながら将官になったって、誰も文句は言わないわ」
ブランディアが横で小さく肩をすくめる。
「ええ」
「“泣きながらでも引き受けた役目”の方が、たいてい強いですしね」
近衛や兵たちの間から、小さな笑いが漏れた。緊張と重さを、ほんの少しだけ解きほぐす笑い。
「近衛軍少将マカロン」
マリアが、改めて名を呼ぶ。
「顔を上げなさい」
マカロンは、涙の跡を残したまま顔を上げた。
視界に広がるのは、玉座と白の間。そのすべてが、少しだけ鮮明に見える。
「これより先」
「あなたは、帝都防衛の一翼を担う“将”として」
「私に耳の痛い進言をし」
「時に、私の命令に反対し」
「それでも最後には、帝都を守り切ってほしい」
「……はい」
声は震えていたが、迷いはなかった。
「命に代えても」
その言葉に――マリアは即座に眉をひそめる。
「命に代える、などとは言わない事。」
「生きて守りなさい」
マカロンは、一瞬驚き――そして笑った。
「はい」
「生きて守ります」
謁見の間に拍手が広がった。ただの儀礼的なものではない。
この瞬間、この場に居合わせた全員が、「近衛軍少将マカロン」という存在を受け入れる音だった。
やがて儀式は終わり、叙任者たちは順次退場していく。
最後に残ったのは、マカロンとマリア、ブランディア、そして近衛の上層数名だけだった。
「……お疲れ様」
マリアが、玉座の階段を降りながら言う。
「膝、笑ってるでしょ」
「正直、さっきからずっと限界です」
マカロンは苦笑した。
「でも、転ばなくてよかった」
「転んだらブルートに“やり直し”って言われるところでしたよ」
ブランディアが静かに笑う。その隣で、ブルートが肩を竦めた。
「いや、さすがに今日のは勘弁する」
「ただでさえ特進で周りから変な目で見られるんだ。足元くらいはきっちりしてもらわねぇとな」
「変な目、ですか」
「そりゃあな」
ブルートはマカロンを見やる。
「兵士隊長から少将なんて、普通は嫉妬と不満の温床だ」
「だが――」
彼は、にやりと笑った。
「今日の拍手を聞いたろ?」
「お前に関しては、むしろ“やっとか”って空気の方が強かった」
(……そう、なのかな)
マカロンは、胸に手を当てた。少将章のひんやりとした感触。
「その分」
ブルートの声が、ほんの少しだけ低くなる。
「失敗は、できないぞ」
「分かってます」
マカロンは、真っ直ぐに返した。
「私の失敗は、“守られる側から守る側へ”行こうとしている人たちの足を引っ張ることになるから」
マリアとブランディアが、同時に目を細める。
その言葉は、自分より若い少女のものとは思えないほど、重く、冷静だった。いや、これまでの経験の積み重ねがにじみ出ていたのだろう。
「だから、マリア様」
マカロンは、少しだけ顔を上げた。
「……これから起こる、嫌な話も、いい話も」
「全部、聞かせてください」
「少将として」
「この国のひまわりたちを守る役目を、ちゃんと果たしたいので」
マリアは、短く息を吐いた。
「もちろん」
「隠し事なんて、できる性格じゃないしね、私」
ブランディアが横で「それは認めます」と小さく頷く。
笑いが、ほんのわずかに広がった。
けれど、その笑いの中にも、全員が感じていた。
――この叙任式は、ただの祝祭ではない。
南から迫る戦火。四神軍の犠牲。魔族領への反撃。
そして、いずれ訪れるであろう「最後の戦い」。しかしこの時はまだ誰も知らない。守るためにあらゆるものが犠牲となることを。
それらすべての前に置かれた、一つの小さな灯。
路地裏で倒れていたひまわりが、今、帝都の一角を照らす灯火に変わった瞬間だった。
(さて、マカロン少将)
マリアは、心の中でひとりごちた。
(あなたに、すぐにでも聞かせないといけない“嫌な話”が、山ほどあるのよ)
(南からの報せ)
(四神軍の劣勢)
その言葉を口にするとき。太陽は、ひまわりの少将と共に、再び戦場に目を向けることになる。
叙任式の余韻がまだ消えない白の間で。
物語の歯車は、静かに、しかし確実に、次の段へと噛み合い始めていた。




