近衛兵士隊長マカロン
冬が、静かに抜けていった。
城壁の雪はいつの間にか溶け、ひび割れた石畳の隙間からは、小さな草が顔を出し始めている。
春の匂いが混じり始めた帝都の空気の中で、王城の一日は、相変わらず早かった。
「――兵士隊長マカロン、こちらへ」
朝の訓練を終え、汗を拭いていたところに、ブルートの声が飛んだ。
訓練場の端。
彼の隣には、マリアとブランディアがいた。
その三人が並んで立っている光景を見て、マカロンは、胸の奥が少しだけざわつくのを感じた。
(……また、何か決まる)
「はい」
鉄と銀の星を胸に、マカロンは歩み寄った。
「まず、確認」
ブランディアが淡々と口を開いた。
「現在、帝都防衛における近衛軍の配置はこうなっています」
机の上には、帝都と王城周辺の簡略地図が広げられている。
マリアとブランディア、ブルート、そして数人の近衛士官が、その周りを囲んでいた。
「王城西門――第二小隊。
王城北門――第三小隊。
王城南門――第四小隊。
城内主要フロア――第一小隊。
“ひまわりだった場所”と孤児の集合線――特殊小隊ひまわり線」
ブランディアの指が、各地点をなぞる。
マカロンは、自分の担当線であるひまわり線の位置を確認した。
「昨晩の巡回報告では、
ひまわり線の周囲で、大きな異変はありません」
マカロンが補足する。
「ただ、路地裏で『黒い仮面』を見たという子の話が三件ほどありました。いずれも、深夜に近い時間帯です」
「黒い仮面……」
マリアの眉が僅かに動く。
「ケインに回しておいて。白虎の情報網と照らし合わせる」
「承知しました」
ブランディアがメモを取る。
「さて、本題」
ブルートが、指揮棍で机の端を軽く叩いた。
「兵士隊長マカロン」
「はい」
「ひまわり線担当の兵士隊長としての任務は、これまで通り――避難経路と集合点の掌握、路地裏巡回、孤児保護。そこに、ひとつ任務を追加する」
「任務の追加……?」
マカロンは、少し身構えた。
「“近衛軍訓練隊長代理”だ」
「……え?」
思わず変な声が出た。
近衛軍訓練隊長――それは通常、長年の実戦経験を持つ士官が務める役職だ。
ブルートの直属の部下が担うことが多い。
「もちろん、本来の訓練隊長は別にいる」
ブルートは、わざとらしく肩をすくめた。
「だが、そいつを前線に出した。今は、こっちに残っている数少ない“経験者”を訓練に回す必要がある」
「そこで――」
マリアが、マカロンを見た。
「あなたに、“ひまわり線担当兵士隊長”と同時に、“近衛軍訓練隊長代理”を兼任してもらう」
「……二つも?」
マカロンは、無意識に胸のワッペンを押さえた。
「ひまわり線の避難と、近衛全体の訓練。両方を……」
「難しいと思う?」
マリアの問い。
マカロンは、正直に頷いた。
「はい。難しいと思います」
「ほら」
マリアは、少し笑った。
「だから任せるのよ」
「“できる”と言い切る子より、“難しいけどやる”と言う子に任せたいの。少なくとも、私は」
ブランディアも、静かに頷く。
「戦場でも、政治でも、同じです。『絶対に大丈夫』と言う人間ほど、危うい」
「そのかわり――」
ブルートが、マカロンの肩を軽く叩いた。
「無理だと思ったら、無理と言え」
「はい……」
「“全部自分で抱え込む兵士隊長”は、一番危ない」
ブルートは、真顔で続けた。
「兵士隊長の仕事は、“できること”と“できないこと”を分けて、“できること”を部下に配ることだ」
「……分けて、配る」
マカロンは、その言葉を胸の中で繰り返した。
その日の午後。
近衛訓練場に、新しい顔ぶれが並んでいた。
「今日から、訓練隊長代理を務めることになりました。兵士隊長マカロンです」
整列した兵たちの前で、マカロンは一歩前に出た。
胸元には、銀の星がきらりと光っている。
「――よろしくお願いします!」
一斉に返事が返ってくる。
声の中には、いつか路地裏で遭った少年や、ひまわりの家で一緒だった子の声も混じっていた。
(変な感じ)
(同じ場所にいるのに、今は立っている場所が違う)
(この前まで、あの列の中にいたのに)
木剣の音。
掛け声。
訓練場の空気は、いつもと同じだ。
「では――本日の訓練を始めます」
マカロンは、号令をかけた。
「まずは基本の型から。そのあと、隊列訓練。最後に、避難用の経路確認を兼ねた模擬避難訓練です」
兵たちが動く。木剣を構え、足を開く。
「腕だけで振らない。足から、腰から、肩。順番に――」
いつのまにか、自分がマリアの台詞を繰り返していることに気づいた。
少しだけ可笑しくなって、マカロンはふっと笑った。
訓練は順調に進んだ。
だが――「順調」に見えるだけだった。
隊列訓練の途中。一人の兵が、足をもつれさせて転んだ。
「大丈夫か?」
周りの兵が手を伸ばす。
「はい……」
その兵は立ち上がろうとしたが、足元がおぼつかない。
マカロンは、すぐにその兵のところへ駆け寄った。
「足を見せて」
靴を脱がせると、足首のあたりがわずかに腫れている。
「昨日の巡回で捻ったんじゃない?」
「……はい」
兵は、申し訳なさそうに答える。
「“大丈夫”って言いましたけど、ちょっと違和感があって……」
「医務室に行って」
マカロンは、即座に告げた。
「今日の訓練は見学。記録には“軽傷”で残す。明日の訓練メニューは、その足と相談して決めるから」
「でも、訓練を……」
「足を壊したら、そのぶん誰かが前に出ることになる」
マカロンは、真っ直ぐ彼を見た。
「ひまわりの庭で、水汲みをサボったらどうなってたか覚えてる?」
兵は、一瞬目を丸くし、それから苦笑した。
「……アンナ院長に、説教されました」
「今の私には、アンナみたいな説教はできないけど」
マカロンは、少しだけ肩をすくめた。
「そのかわり、“足を壊してまでここに立て”とは言わない」
兵は、静かに頷いた。
「分かりました。行きます」
訓練場の端で、そのやり取りを見ていたブルートが、腕を組みながらひと言。
「悪くない」
「ありがとうございます」
マカロンは、少しだけホッとした。
「ただし――」
お約束の続き。
「全員の足を見て回る前に、自分の足を確認しろ」
「……はい」
訓練後。
マカロンは、自分の班の兵たちと一緒に、ひまわりだった場所へ向かった。
仮設の屋根と壁。集会所兼倉庫。子どもたちが、今日もそこに集まっている。
「兵士隊長だ!」
誰かが叫ぶ。子どもたちが、マカロンの周りに集まってくる。
「今日の“鬼役”は?」
「隊長がやってよ!」
「鬼は嫌いじゃないけど今日は訓練のあとだから、少しだけね」
マカロンは、笑いながら進行役を交代した。
「逃げる道を覚える遊び。覚えている?」
「うん!」
「じゃあ、新しい印をひとつだけ足すから、
それを辿って広場まで行ってみよう」
壁の一角に、白い印が描かれている。マカロンは、その下に小さな星を描き足した。
「これは、“マカロンの星”の印」
子どもたちが目を丸くする。
「これを見つけたら、絶対に危険な道じゃない。そこを辿れば、誰かの手が届く場所に行ける印」
「マカロンの星……」
子どもたちが、口々に繰り返す。
「隊長、それは――」
同行していた兵の一人が、少しだけ心配そうに問う。
「責任、重くなりますよ」
「元々重いので、今さらですね」
マカロンは、少し笑う。
「“ひまわりだった場所”の子たちがこの印を見てくれるなら、そのぶんだけ、私がここにいる意味も増える」
彼女の胸には、
銀の星。
壁には、白い星。
(誰かが迷ったときに、“ここだ”と言える印がひとつ増えたなら)
(それだけで、兵士隊長になった甲斐はある)
夜。
近衛の宿舎で、マカロンは机に向かっていた。
訓練の記録。
兵の負傷状況。
避難印の追加位置。
そして――最下段に、小さく一行。
『今日、新しい星を子どもたちに覚えてもらった』
日誌を閉じる。
胸の星に手を置く。
(まだ足りない)
(まだ、ブリッツさんを迎えに行けるほどじゃない)
(でも――)
窓の外には、星がいくつか光っている。
帝都の灯りに負けない、
小さな光たち。
「いつか、この星を全部まとめる日が来るんだろうね」
自分にそう言い聞かせて、
マカロンは灯りを消した。
ひまわりの剣は、近衛兵士隊長としての一日を終え、
眠りについた。
数年後。
彼女の胸には、金の星が輝くことになる。
その間の時間は、
決して「ただ過ぎた」わけではない。
日々の訓練。
小さな事件。
避難印。
ひまわりだった場所。
子どもたちの笑い声。
南から届く火の手紙。




