訓練場の星たち
帝都スエンジールの朝は、少しずつ熱を帯びていた。
四神軍が南へ出てから、すでにいくつもの朝と夜が過ぎている。
帝都に残された兵の数は限られていたが、そのぶん一人ひとりの役割は増えた。
近衛も例外ではない。
「――では、次。二人一組で打ち合い!」
ブルートの声が、訓練場に響いた。木製の床板に刻まれた無数の傷。その上で、剣を構えた近衛たちが、次々と前へ出る。
「マカロン、ライン三へ」
声を掛けられ、マカロンは木剣を握り直した。木製ワッペンは、もう木ではない。
胸元で光るのは、鋼の星。銀色に輝く小さな星形のワッペンが、近衛の紋章を浮き彫りにしている。
(まだ……重い)
物理的にはたいして重くない。だが、星の線ひとつひとつに、「誰かの命」がくっついているような気がしてならない。
向かい合うのは、同じ近衛の青年だ。彼もまた、木の星から鉄の星に変わって間もない。
「お願いします」
「こっちこそ」
互いに一礼し――踏み込んだ。
カン、と乾いた音。木剣同士が交わる。マカロンの足は、以前よりも地面を捉えていた。
膝も、腰も、簡単には折れない。
「もう一歩」
ブルートの声。
マカロンは、指示に従い、もう半歩だけ踏み込む。
「そこ!」
青年の剣を外側へはじき、わずかに懐へ。木剣の先が、相手の肩口で止まった。
「そこまで!」
ブルートが手を挙げる。青年は苦笑しながら木剣を降ろし、マカロンに頭を下げた。
「マカロン、強くなったな」
「いえ……まだまだです」
「謙虚なのはいいが、現実は見なさい」
ブルートは、マカロンの胸の鉄星を軽く指で叩いた。
「二級兵士から兵長に上がったのは、近衛の中では相当な早さだ。“守られる女の子”だった頃の自分と、ちゃんと差を感じろ」
「……はい」
鉄製の星をもらった日のことを、マカロンは思い出していた。
それは、四神軍出撃の日から半年ほど経った頃だった。
帝都の空気は、相変わらず張りつめている。帝都を囲む結界は健在だが、南の境界線から時折、不穏な光が走る。避難訓練は改訂が重ねられ、城門の内側には新しい標識が増えた。
その日。
マカロンは、いつものように訓練場で木剣を振っていた。
「マカロン」
背後から声がする。振り向くと、マリアとブルートが並んで立っていた。
どちらも、少し硬い表情だ。
「はい?」
「訓練はそこで終わり。こっちへ来て」
マリアに言われて、マカロンは慌てて木剣を立てかけ、汗を拭いた。二人について、訓練場の隅――石畳に囲まれた小さな一角に入る。
そこには、簡素な机と、小さな箱が置かれていた。箱の上には、近衛の紋章が刻まれている。
「これは――」
言いかけたところで、ブルートが先に口を開いた。
「マカロン。近衛軍二級兵士マカロン」
「はい」
「本日付けで、兵長に昇進だ」
「……えっ」
マカロンは、目を見開いた。
「兵長」――木の星を卒業し、鉄の星を胸に付ける、近衛の中堅である。
「驚くのは分かるけれどね」
マリアは、少しだけ微笑んだ。
「半年の間に、あなたがやってきたことを一つずつ数えたら――この昇進は、むしろ遅いくらいよ」
「やってきたこと……?」
マカロンは、自分がしたことを素早く心の中で数え始めた。
避難経路の見直し。標識の改善案。路地の子どもたちへの声掛け。夜間警備で見つけた不審な影。
小さな火事。物資倉庫で見つけた不自然な欠品。帳簿の数字のずれ。それらの報告と、対処。
それが、全部繋がっていることを、自分ではあまり意識していなかった。
「何かが起きる前に気づいてくれる人が、一人だけでもいるとね」
マリアは、マカロンの目を見た。
「帝都全体が、ずっと守りやすくなるの」
「あなたは、その役を、よくやってくれている」
ブルートも頷いた。
「“剣を振るう兵”だけが兵士じゃない。頭も、目も、手も、全部使える兵長が一人いるだけで、部下の死ぬ数は減る」
短く言ってから、ブルートは机の上の箱に手を伸ばした。慎重に蓋を開ける。
中から、星がひとつ出てきた。
鉄製の星形の板。
中央には、近衛の紋章が銀で浮き彫りになっている。
「これが、兵長の星だ」
ブルートは、その星をマカロンに差し出した。
「初級兵士の木札も、二級兵士の木札も、それぞれ重みがある。だがな、鉄は――」
ブルートは、自分の胸元を軽く叩いた。
「人の血で錆びる」
「……」
マカロンの喉が、つっと鳴った。
「それが嫌なら、手入れをしろ。星も、自分も、部下も。そうすれば、“錆びる前に防げた傷”も、減っていく」
マカロンは、両手でその星を受け取った。冷たい。
でも、ほんの少しだけ温かい気もする。
(アンナ院長)
心の中で、小さく呼んだ。
(ひまわりの名札の次は、近衛の星です)
(あなたが見たら、何て言うかな)
『似合ってるよ』と笑うか。
『重そうだねえ』とため息をつくか。
「胸に付けてみなさい」
マリアの声。
マカロンは、古い木製ワッペンを外し、鉄製の星をそこに付け替えた。
服越しに、星が胸に触れる。こつん、と小さな音。
「……重いです」
正直な感想だった。
「そうね」
マリアは、肩をすくめた。
「でも、その重さは一人で持つものじゃないわ」
「近衛は隊で動くもの」
「部下と上官と、太陽と月と……ひまわりと」
マリアは、わざとらしく言葉を重ねた。
「みんなで均等に持つの。そのために、兵長を置いているのよ」
「……はい」
兵長になったからといって、生活が急に変わるわけではない。朝の訓練は続く。
帳簿の数字は相変わらず毎日動き、食器は割れ、洗濯は溜まる。
ひまわりだった場所には、今日も何人もの子どもたちが顔を出す。
ただひとつ、目線だけが変わった。
「兵長!」
訓練場で、誰かが呼ぶ。振り返ると、新しく入ってきた初級兵士たちが並んでいた。
「今日の隊列訓練、号令お願いします」
「はい」
マカロンは、自分が「誰かの号令を待っていた側」から、「号令をかける側」になったことを実感する。
「列を乱さないこと。転んだ人がいたら、隣が支えること。前を見て――」
彼女の声に、初級兵士たちが動く。木剣と鉄剣の音が重なる。
訓練が終わる頃には、汗と笑いと、少しの不満が混じった空気が漂っていた。
「兵長、きついっす」
若い兵士が、冗談半分に言う。
「きつい方がいいんです」
マカロンは、笑いながら答えた。
「戦場よりは、ここで倒れた方がずっとましですから」
その言葉に、空気が少しだけ引き締まる。
(そうだ)
(ここでの汗は、向こうで流す血の代わりになる)
(できるだけ、その差し替えを増やしたい)
胸の鉄星を、そっと握った。
一定の時間が流れると、人は「今の自分」が昔からこうだったような錯覚をする。
木剣を振るっていた頃の自分。名もない使用人として皿を運んでいた頃の自分。
路地裏で膝を抱えていた頃の自分。
どれも、今のマカロンと、どこかで繋がっている。
それでも、隣で剣を振るう隊員たちは、今のマカロンしか知らない。
「兵長、今日はどこ見回ります?」
「西門からひまわりだった場所。それから、北側の避難印の確認です」
「はい!」
返事が揃う。
マカロンは、彼らの背中を見ながら思う。
(私も、誰かの背中だったんだろうか)
(あのとき、路地裏で倒れかけていた自分を、太陽と月が拾ってくれたように)
(今度は、私が)
ひまわりの剣は、少しずつ「隊の剣」に近づいていった。この頃から、帝都では小さな噂が広まり始めていた。
「最近、近衛に妙に“目ざとい兵長”がいるらしい」
「路地裏出身で、数字に強い”ひまわりの剣”と呼ばれているらしい」
「胸に付けてる鉄星が、やけに眩しいんだと」
誰かがつけたあだ名。
「ひまわり兵長」。
マカロン本人は、その呼び名を正式に耳にするのは、もう少し先のことになる。
マカロンは、その夜も、小さな机に向かっていた。
一日の報告書。部下の様子。避難経路の改善案。そして、最後に一通。
『親愛なるブリッツ様へ』
ペン先が、紙の上を走る。
「近衛の兵長になりました。まだ、一番小さな隊の長ですけれど」
「あなたの南での役目が大きくなっているように」
「私も、ここでできることを、少しずつ増やしています」
「いつか、胸の星の数を数え合う日が来たら――」
そこで、一度ペンが止まる。
(なんて書く?)
(「競争ですね」? ……違う)
(「一緒に笑いましょう」?……それは、まだ早い)
迷った末に、マカロンは簡単な言葉にした。
『どうか、無事でいてください』
封をして、蝋を垂らす。
ひまわりの印を押しながら、マカロンは小さく息を吐いた。
(守る立場になったからといって)
(怖くなくなるわけじゃない)
(でも)
(怖いからこそ、強くなる理由がある)
ひまわりの剣の星は、まだ鉄一つ。
これが、やがて金の星になるまでの道は、まだ続いていく。
その先に、近衛兵士隊長の任命が待っていることを、このときのマカロンはまだ知らなかった。




