南の風と、燃える境界線
南方マルス地方――
アル・スエンジール帝国の地図で言えば、南端を広く抱える朱雀の領。
灼けるような陽光。
赤土の大地。
遠くに連なる黒い山脈。
その一角に、朱雀軍の野営地が築かれていた。
「……熱い」
ブリッツは、額の汗を手の甲でぬぐった。
帝都の石畳とはまるで違う。
空気そのものが、火の匂いを含んでいる。
朱雀軍の陣幕には、火の鳥を象った紋章。
一つひとつの火の粉が、
いつでも爆ぜて飛び出していきそうな気配があった。
ブリッツの胸には、
朱雀軍の三級兵士であることを示す木製ワッペンが光っている。
星型の板に、火の鳥のシンボルが刻まれたものだ。
(三級兵士、か)
(“一応貴族だから”って理由で最初から飛び級させてもらう選択肢もあったけど――)
(それをやったら、ひまわりの丘でパンを半分こしたあの子に、胸張って会えねぇもんな)
肩口の星を軽く叩きながら、ブリッツは野営地の外に広がる地平線を見やった。
そこにはうっすらと、黒い霧のようなものが漂っている。
魔族領との境界だ。
「ブリッツ」
背後から声が飛んだ。
振り返ると、炎のようなオレンジの瞳を持つ男が立っていた。
朱雀軍元帥、アレキサンドル・ルビリア・マルス。
だが今は、元帥としての顔ではなく、「マルス領の親戚筋のおじさん」としての顔に近い。
「はい、アレキサンドル様」
ブリッツは姿勢を正した。
「そんなに固くならなくていい」
アレキサンドルは、笑いながら
ブリッツの肩を軽く叩いた。
「お前は“坊っちゃん”であり、同時に“兵士志願の若造”だ」
「どっちの顔も、ちゃんと使い分けろ」
「……がんばります」
「それと」
アレキサンドルの視線が、遠くの黒い境界線に向く。
「南の風も、そろそろ、本格的に燃える境界線を知っておく必要がある」
「境界線、ですか」
「そうだ」
アレキサンドルは、指で空中に線を描いた。
「帝国の地図では、ここまでがマルス領」
「その先は、“まだ地図に描かれていない場所”だ」
「だが、現実には――」
地平線の向こうから、低い唸り声のような音が聞こえた。
「魔族が動き始めている」
数日前まで、南方の戦は「遠い噂」だった。
都市同士の紛争。盗賊団。反乱者。
そういったものとは別の、「外側から来る何か」。
朱雀軍はその動きにいち早く気付き、境界線に防衛線を敷き始めていた。
最初は、小規模な襲撃だった。
角ばった頭と、黒い鱗を持つ獣。
人の形をしていながら、目の奥に光がない者たち。
「“魔族”ね」
アレキサンドルは、その姿を、どこかで見た記憶と重ねていた。
「数はまだ少ない。けれど――」
(これは、偵察だ)
(本隊が動く前の、探りの手)
朱雀軍は、その手を叩き折りながら、逆に情報を集めていた。
「今のところ、押し返せている」
アレキサンドルは冷静に言う。
「だが、境界線は徐々に熱を帯びてきている」
「ブリッツ」
「はい」
「お前を、先遣隊に入れる」
「……!」
心臓が、どくんと鳴った。
「マルス領から海を渡り、魔族領の手前まで進む」
「そこから先は――朱雀軍の少将、アルト・ワーグナーが指揮を執る」
「アルト少将が、ですか」
「“永獄の黒鳥炎”の使い手だ」
アレキサンドルは、少しだけ誇らしげに笑う。
「お前も一度、目に焼き付けてこい」
「はい!」
返事は、迷いなく出た。
海。
帝国の南端からさらに南。
黒い海域。「黒海」と呼ばれる海域が広がっていた。
「嫌な匂いですね」
甲板の上で、ブリッツは鼻を押さえた。
潮の匂いに混じって、どこか鉄と腐敗の匂いが漂っている。
「魔族の匂いだよ」
近くにいた朱雀の兵士が、軽く肩をすくめた。
「慣れたくはないけどね」
船団は、数隻。
その中心に、アルト・ワーグナー少将の乗る旗艦がある。
ブリッツは、一度だけその姿を遠目に見た。
黒い軍装。肩には、火の鳥ではなく、黒い鳥のシルエット。
「永獄の黒鳥炎」
その異名が示す通り、彼の背後には常に黒い「影」が揺れているように見えた。
「クラーケン!」
誰かの叫び。
海面が、急に盛り上がった。
巨大な触手。
吸盤の列。
船一隻を軽々とひっくり返せるほどの太さの腕が、
船団の真下から突き上がってきた。
「全員、持ち場につけ!」
アルトの声が、低く響いた。
朱雀の兵士たちが、一斉に武器を手に取る。
ブリッツも、腰の剣を抜いて構えた。
(これが――)
(境界線の“現場”)
触手が一本、ブリッツの船の甲板に叩きつけられた。
木板が砕け、水しぶきが上がる。
「下がれ!」
先輩兵士が叫ぶ。
ブリッツは、一歩後ろに跳び、触手の動きを目で追った。
(動きの癖――人間と違う)
(でも、重さは……)
次の一撃が来る前に、海の向こうから、低い風切り音が聞こえた。
「――ヴァルフリューゲル」
アルトの声。
黒い影が、空を切り裂いた。
鳥。だが、炎ではなく、闇のように黒い炎で形作られた鳥。
それが、クラーケンの触手にまとわりつき、
一瞬でその表面を焼き焦がした。
「ひっ……」
ブリッツの隣の兵士が、息を呑む。
黒鳥炎は、触手を伝って本体へと飛び移り、クラーケンの全身を包み込んだ。
悲鳴のような音。
海面が泡立ち、巨大な影が、ゆっくりと沈んでいく。
「ひとつ」
アルトは、淡々と言った。
「次」
海の反対側から、今度は歌声が聞こえた。
甘く、かすかに不安定な旋律。
「耳を塞げ!」
指揮官の怒鳴り声。
ブリッツは、慌てて両耳を押さえた。
セイレーン。人の姿をした魔族。歌声で人の心を眠らせ、船を座礁させる存在。
「……っ」
それでも、少しだけ音が漏れる。
頭の芯がぼんやりとする。
その瞬間――黒鳥炎が、再び空を舞った。
今度は、空中で花開くように散って、
見えない「波」のような衝撃となってセイレーンに降りかかった。
歌声が、一瞬で途切れる。
空から、黒い影が落ちる。
火の粉のように海へ。
「二つ」
アルトの声は、淡々としていた。
「学べ」
彼は、遠くからブリッツの船の方を一瞥した。
(守るとは)
(一撃で倒すことではない)
(境界線に立ち続けることだ)
ブリッツは、その言葉を、胸に刻み込んだ。
数日後。
先遣隊は、黒海を渡り切り、魔族領の手前の海岸に上陸した。
海岸線は、驚くほど静かだった。
だが、静けさが、不気味だった。
「ここから先は――」
アルトが、地図を広げながら言った。
「帝国の地図には描かれていない」
「だが、魔族の側から見れば、ここが『彼らの世界』の玄関だ」
先遣隊は、慎重に進んだ。
森。奇妙な形の木。黒い樹液。地面に刻まれた、見慣れない紋章。
「……気味が悪いですね」
ブリッツの隣で、誰かが呟いた。
「怖いのか?」
「正直に言うなら、怖いです」
ブリッツは、笑いながら言った。
「でも、あの丘でひまわりを見ていた子に、“怖かったから逃げた”とは言いたくないので」
「……お前も物好きだな」
先輩兵士が、苦笑混じりに言った。
やがて、彼らは見つけた。
魔族の「門」。
岩山に穿たれた巨大な穴。
周囲には、黒い炎のような紋様。
門の向こうには、うっすらと光る城壁の影。
「……魔王城の外郭か」
アルトが、低く呟いた。
「ここで線を引く」
「この門を、越えさせない」
先遣隊は、門の前に陣を敷いた。
魔族も黙ってはいない。
門の向こうから、次々と姿を現す影。
角。翼。尾。
人の形をしている者もいれば、獣のようなものもいる。
「来るぞ!」
アルトの号令。
朱雀の炎が、境界線に火を灯した。ブリッツも、剣を握りしめて前に出る。
(ここで、線を引く)
(帝国と魔族の間に)
(ひまわりの家で笑っていた子どもたちと、彼らを喰おうとしているものの間に)
剣と炎が交錯する。最初のうちは、何とか押し返せていた。
だが――
「……強い」
ブリッツは、息を切らしながら思った。
(こいつらは、今まで相手にしてきた盗賊や反乱者とは違う)
(“生きている毒”みたいだ)
数が多い。一体一体も強い。先遣隊は、少しずつ押し込まれていった。
「アルト少将!」
誰かが叫ぶ。
「このままでは――」
「分かっている」
アルトは、短く答えた。
「だが、ここで退けば、今度は彼らが『押し込んでくる側』になる」
「せめて、帝都に知らせる時間を稼ぐ」
彼の黒鳥炎が、再び空を飛んだ。その合間を縫うように、ブリッツは前へ出た。
「ブリッツ!」
アルトが、短く呼ぶ。
「はい!」
「お前の仕事は、突破口を開くことじゃない」
「“ここまで来た”という事実を、帝都まで届けることだ」
「でも――」
「でも、じゃない」
アルトの声が鋭くなる。
「ひまわりの話をしていたな、先日」
ブリッツは、一瞬目を見開いた。
「……聞いていたんですか」
「耳は良い方だ」
アルトは、薄く笑う。
「そのひまわりを守りたいなら、ここで死ぬな」
「死ぬのは簡単だ」
「生きて戻る方が、ずっと難しい」
ブリッツは、歯を食いしばった。
(生きて戻る)
(戻って――伝える)
(境界線が、もう燃え始めているって)
「分かりました」
ブリッツは、一度深く頭を下げた。
「でも――」
「一つだけ、やらせてください」
「何だ」
「少しだけ」
ブリッツは、前に出た。
剣を構える。
(南の風は、ただ吹くだけじゃない)
(時には――)
(相手の炎を、逆に煽って吹き消す)
目の前の魔族が、不気味な笑みを浮かべながらこちらに向かってきた。
ブリッツは、短く息を吐いた。
「――失礼」
一歩踏み込み、一撃。
剣が、黒い血を散らした。
(届く)
(全部は倒せない)
(でも――)
後ろから誰かの叫び声。
「ブリッツ!」
振り返る暇はなかった。
次の瞬間、背中に重い衝撃。
鎖。
黒い鎖。
それが、彼の体を絡め取った。
「……っ!」
意識が、暗転しかける。
遠くで、アルトの声がする。
「魔族に、引きずられるぞ!」
「ひくな!」
「前を見ろ!」
門の向こうから、魔族の笑い声。
「南の風を、一つ、もらっていくとしよう」
鎖が引かれる。
視界が揺れる。
地面が遠ざかる。
(やば――)
(このまま、“向こう側”に連れて行かれたら――)
アルトの黒鳥炎が、鎖に飛びついた。
炎が鎖を焼く。だが、完全には切れない。
「くそっ……!」
アルトの顔に、初めて焦りの色が浮かんだ。
「ブリッツ!」
名前を呼ぶ声が、何度も聞こえる。
(マリアなら)
(マカロンなら)
(ここで、どうするだろう)
(多分――)
(“帰ってこい”って言う)
(ほんとは俺だって、帰りたい)
(でも――)
鎖が、門の向こうへと引きずり込む。
最後に見たのは、黒い門の縁で燃える朱雀の炎と、その向こうにかすかに見えた、奇妙な城のシルエットだった。
「……帝都に」
かすれた声で、ブリッツは呟いた。
「ちゃんと……伝えてくれよ……」
意識が、闇に落ちた。
先遣隊は、それ以上踏み込むことはできなかった。
アルトは、鎖を完全には断ち切れなかったことを悔やみながらも、残りの兵の生存と、帝都への報告を優先した。
「……戻る」
「ここで全滅したら、誰も知らせられない」
「南方がどれだけ危ないか」
「ひまわりの丘や、帝都の城壁の中にいる子どもたちに――」
「“まだ守る人間がいる”ってことを」
船は、再び黒海を渡った。
クラーケンも、セイレーンも、今度は遠巻きに様子を窺っているだけだった。
(ブリッツは生きている)
アルトは、心の中で言い聞かせた。
(あれだけしぶとかった南の風だ)
(簡単には折れない)
(折らせない)
帝都スエンジール。
朱雀軍先遣隊からの報告が届くのは、豊穣神光の祈りからしばらく時が流れ、
ブリッツが南方へ戻り、先遣隊として黒海を渡ってからのことだった。
「……魔族領の門まで到達。境界線の向こう側に、魔族の本隊と思しき集団を確認」
「朱雀軍少将アルト・ワーグナー、先遣隊の一部を率いて交戦」
「敵の力は予想以上」
「隊の一員、ブリッツ・ルビリア――戦闘中に拘束され、魔族側に囚われる」
報告書を読み終えたとき、マリアは静かに息を吸い込んだ。
隣では、ブランディアが目を閉じている。
少し離れた場所で、マカロンがその言葉を噛み締めるように聞いていた。
(ブリッツさんが)
(境界線の向こうに――)
胸の奥が、きゅっと痛くなると同時に血の気が引いた。
「南の風が、一つ、奪われた」
マリアは、低い声で言った。
「境界線が燃え始めている」
太陽。
月。
四聖獣。
そして、ひまわりと風。
それぞれが、それぞれの場所で、この報せを受け取った。
マカロンの胸元の木の星が、小さく震えた気がした。
(守る側に来るって決めたのに)
(今、私はここから動けない)
(でも――)
(動けるようになるまで、強くなればいい)
(ブリッツさんが、南で境界線に立っている間に)
ひまわりの剣は、さらに強く握り直された。
燃える境界線の向こうで風が連れ去られた日。
南の風と、帝都のひまわりの距離は、いっそう遠くなった。
それでも――
風はまだ、完全には止まっていなかった。少なくともマカロンにはつらい経験だが、今はそれも強さに変えるしかない。




