近衛兵マカロンと、隠したい恋心
近衛軍の初級兵士となってから、マカロンの一日はさらに詰め込まれたものになった。
朝は、まだ薄暗い時間に裏庭での自主練。
その後、近衛訓練場での正式な剣術・体術・隊列訓練。
昼からは、これまで通り文書棟や厨房の手伝い。
夕方には、再び近衛としての演習。
夜は、魔導式の練習と、時々、手紙を書く時間。
「……ふっ!」
近衛訓練場の木製の床を踏みしめて、マカロンは木剣を振り抜いた。
相手は、同じく初級兵士の青年。近衛になったばかりのマカロンに、最初は少し遠慮していたが、今はそうでもない。
「速いな……!」
青年が、ぎりぎりで受け止めて後ろに跳ぶ。
「そこまで!」
ブルートの声が飛んだ。
訓練場の端で腕を組んでいた西門隊長は、顎に手を当てながら二人を見比べる。
「マカロン、今の踏み込み。相手の剣を弾き飛ばすなら、あと半歩前だ」
「はい!」
「それと、副隊長。新人だからって全力を出さない、ってのは失礼だぞ」
「う……はい」
周囲から小さな笑いが起こる。
いつの間にか、マカロンは「守られている子ども」ではなく、「同じ土俵に立つひとりの兵士」として扱われるようになっていた。
訓練が一段落した頃、ケインが訓練場を訪れた。
白虎軍元帥。
だが、今日は軍服ではなく、王城用の軽装。胸元には、いつも通り何のワッペンも見えない。
元帥ワッペン――プラチナの十字架に白虎のシンボルが立体的にあしらわれたもの――は、服の下に隠されている。
「おはようございます、ケイン様」
ブルートが敬礼する。兵士たちも、さっと姿勢を正した。
「訓練の様子を見にきただけだよ」
ケインは、穏やかな笑みを浮かべる。
「近衛に新しい星が増えたと聞いてね」
「こちらです」
ブルートが、マカロンを一歩前に出した。
マカロンは緊張して、背筋を伸ばす。胸元の木製ワッペンが、汗で少し湿っている。
「近衛軍初級兵士、マカロンです」
「うん。知っているよ」
ケインは、少し目を細めた。
「帳簿の数字を一つずつ丁寧に追えて、路地裏からここまで上がってきた子だろう?」
「……そんなところまで」
マカロンは、恥ずかしさで耳まで赤くなった。
「僕もね、マリア陛下も、『守る側』に立つ人間の顔は、できるだけ覚えておきたいんだ」
ケインの視線が、マカロンの胸元に落ちる。
星形の木のワッペン。
「それは、最初の星だ」
「木の星から、鉄の星、銅の星、金の星。そして、十字架へと続いていく」
「……私には、まだ、遠い話です」
マカロンは、思わず本音を漏らした。
「ブリッ……」
危うく名前を口に出しかけて、慌てて飲み込む。
(今ここで、ブリッツさんの話はだめ)
(だめですマカロン)
「南の偉い家の、誰かを思い出した?」
ケインの口元が、わずかに緩む。
「……っ」
完全に図星だった。
「大丈夫」
ケインは、いたずらっぽく笑った。
「ブリッツ君は、まだ三級兵士にもなっていない」
「え……」
「朱雀軍の修練は厳しいけどね。あの子はあの子で、南方でちゃんと星を増やしている」
「だから、君も君で、ここで星を増やせばいい」
「いつか、胸元にぶら下がっている星を見せ合えばいい」
マカロンは、一瞬目を丸くしてから、少しだけ笑った。
「……はい」
「それは、いいですね」
(胸の星を、見せ合う)
(それなら、ブリッツさんの足を無理にここに縛り付けなくても済むかもしれない)
(それぞれの場所で、ちゃんと守る側になって――それから、会いに行けばいい)
ほんの少しだけ、胸の中の「言えない気持ち」が、「待てる気持ち」に変わっていった。
帝都へ、定期的に南方の風が届く。
ブリッツが帝都に来る時期は、だいたいマルセ商会の帳簿が少し賑やかになる時期と重なっていた。
「ブリッツ様、お入りください」
マルセ商会の応接室で、ガルヴァンが笑う。
「また、砂糖と契約の匂いを連れてきたね」
「今回は契約の方が主ですよ」
ブリッツは、苦笑しながらも否定しきれない顔をした。
「でも……」
「マルセ商会に用があるときは、王城のお使いの子が来ていないかつい気にしてしまうのは事実です」
ガルヴァンは、豪快に笑った。
「素直でよろしい」
「今日は、いるよ」
「えっ」
「さっきまで、帳簿の控えを持ってきていた」
ガルヴァンは、窓の外を指す。
「多分、今は通りの向こうの屋台でパンか何かを買っている頃だろうね」
ブリッツの心臓が、跳ねた。
「行ってきても?」
「契約書にサインしてからな」
「ですよね」
通りの向こう。
屋台で小さなパンを買っている少女の背中が見えた。
髪は整えられ、近衛の制服。
胸元には、小さな木の星型が光っている。
(……星)
ブリッツは、その星を見て、なんとなく理解した。
(守られるだけの子じゃなくなったんだ)
(こっちも、いつまでも「視察の坊ちゃん」じゃいられないな)
「マカロン」
声をかけると、彼女は振り向いた。
「ブリッツさん」
笑顔。
少しだけ、以前よりも「頼れる側の顔」になっている気がした。
「その……」
ブリッツは、彼女の胸元を指差した。
「似合ってる」
「え?」
「その星」
「近衛のワッペンだろう?」
マカロンは、少し恥ずかしそうに俯いた。
「初級兵士です」
「一番下です」
「いいんだよ」
ブリッツは、まっすぐ言った。
「俺も、南でようやく三級兵士になったところだ」
「星の素材は違うけど――同じ『一番下から始めた兵士』同士だな」
「……すごい」
マカロンの目が、少し潤んだ。
「ブリッツさんも、兵士さんなんですね」
「兵士“候補”かな」
ブリッツは、肩をすくめる。
「でも、あの日、フィオレアで、ひまわりの丘で一緒にいた子に」
「胸張って会えるくらいにはなりたいからさ」
「……ずるいです」
マカロンは、ぽつりと言った。
「そんなこと言われたら」
「ますます、がんばらないと、って思っちゃうじゃないですか」
「思ってくれればいい」
ブリッツは、笑った。
「俺もそうだから」
その笑顔を見て、マカロンの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
(今、ここで)
(『好きです』って言ったら)
(きっと、ブリッツさんは、真面目に向き合ってくれる)
(でも――)
南方マルス領の状況は、王城にも伝わっている。
朱雀軍が辛うじて魔族の侵攻を押しとどめていること。
アレキサンドルの負担が増していること。
南の風――ブリッツも、最前線の討伐隊に加わっていること。
(ここで私が気持ちを伝えて、ブリッツさんが応えてくれたら)
(きっと、南に戻るの、嫌になる)
(必ずとは言わないけど――少なくとも、足は重くなる)
(アレキサンドル様や、南の人たちに負担が行く)
(それは、嫌)
「マカロン?」
「……なんでもないです」
マカロンは、胸の奥の言葉を飲み込んで、パンを半分にちぎった。
「今日も、半分こしませんか?」
「いいの?」
「もちろんです」
二人で並んで、帝都の石畳に腰を下ろす。
パンの味は、フィオレアの港で分け合ったそれよりも、少しだけ豊かで、
少しだけ切ない味だった。
(言いたい)
(でも、まだ言っちゃいけない)
(きっと、“今じゃない”)
ひまわりの剣は、胸の中に言葉を一本しまい込んだまま、笑顔を保った。
「また来るよ」
ブリッツが立ち上がる。
「次は、星をもう一個増やしてくる」
「私も……」
マカロンも立ち上がる。
「次お会いするときは、できれば二級兵士になっていたいです」
「お互い、忙しくなるな」
「はい」
握手をして別れる。
指先だけが、ほんの一瞬、「好きだ」と言いかけた心を伝えようとしていた。
でも、口は、まだ追いつかない。
その夜。
マカロンは、小さな机に向かって、封の切れていない紙束を眺めていた。
ブリッツからの手紙。
南から届いた報告書の合間に、
『ちょっとした便り』として混ざってくる文。
「帝都の空は、今日もきれいですか」
「マルセのじいさんは元気ですか」
「次に会ったら、今度こそ、俺が料理を作ります」
何度も読み返した紙をそっと重ね、代わりに自分の便箋を広げる。
『親愛なるブリッツ様へ』
最初の一文を書いたところで、ペンが止まる。
(“親愛なる”って……)
(重くないかな)
(でも、嘘じゃないし)
悩んだ末、そのまま続けることにした。
日々の訓練のこと。
近衛の初級兵士になったこと。木のワッペンをもらったこと。マリアやイルマやブルートのこと。
ひまわりの家のみんなが、時々王城まで遊びに来るようになったこと。
そして、一番最後に、小さく一行だけ添える。
『――今度会うときまで、お互い「守る人」として生きていられますように』
それ以上の言葉は、書けなかった。
封をして、蝋を垂らし、小さくひまわりの印を押す。
(いつか)
(ちゃんと、全部言える日が来たら)
(そのときは、もう、誰も縛らずに済むように)
星の階段を、一段一段。
ひまわりの剣と、南の風。
二人はまだ、お互いの「好き」を胸の中に隠したまま、それぞれの空の下で、剣を振っていた。




