ひまわりと風の、帝都での一日
市場の中央広場は、朝の光でまだほんのり白んでいた。
人通りは増え始めているが、昼の喧噪にはまだ遠い。露店の店主たちが布をめくり、パン屋が焼きたてを並べ、香辛料の匂いが少しずつ混じり合っていく時間帯だった。
広場の端。噴水のそばで、ブリッツは一度深呼吸した。
(落ち着け。今日は“視察”じゃない)
一応は帝都への仕事の出張だ。マルセ商会との商談、その後の報告、アレキサンドルへの挨拶。それらを全部、きちんとやり遂げたうえで――
(これは、その“ご褒美”みたいなもんだ)
胸元を少しだけ整える。いつもの視察用の服より、少しだけ質の良いジャケット。髪も、何度もやり直した。寝癖を直すのに、いつもの三倍くらい時間が掛かったことは誰にも言っていない。
広場の向こうから、淡い色が近づいてくるのが見えた。
朝の光を受けて揺れる、薄いラベンダーの布。
ひまわりみたいに、まっすぐな背筋。
マカロンだった。
いつもの使用人服ではない。膝丈のワンピース。軽く巻かれた黒髪はハーフアップにまとめられ、小さな銀のひまわりの髪飾りが、耳の横でさりげなく光っている。喉元には、淡い紫水晶がひとつ。
ブリッツの頭の中で、何かの計算式がまとめて吹き飛んだ。
(なにあれ)
(めちゃくちゃ綺麗じゃない?)
さっきまで「最初何を話そうか」と考えていた台詞が全部消えた。
ただ、近づいてくるのを見ているしかできない。
マカロンも、こちらに気づいたらしく、少しだけ歩みを早めた。頬が、ほんのりと色づいている。
「お待たせしてしまいましたか?」
いつもの少し控えめな声。だが、服と髪型が違うだけで、まるで別人に聞こえる。
「い、いや。俺もさっき来たところだから」
完全な嘘ではない。だが「さっき」の幅は、一般的な感覚よりかなり広い。
ブリッツは、目線のやり場に困った。
全身を見たら失礼な気がする。
かといって顔だけ見るのも、直視がきつい。
結果、彼の視線はマカロンの肩の辺りでうろうろしたあと――
ふと、正面から目が合った。
マカロンが、少し不安げに眉を下げる。
「あの……変じゃないですか?」
「え?」
「この服……普段は制服ばかりなので、こういうの慣れてなくて」
マカロンは、スカートの端をつまみ上げ、ぐるりと一回転する。裾がふわりと広がって、朝の光を受けて揺れた。
「変じゃないかなって……」
ブリッツは、喉がひどく乾いていることに気づいた。
「……すごい」
「え?」
「すごい、かわいい」
口が勝手に動いた。
その瞬間、自分で自分の言葉に驚いて、耳まで熱くなる。
(俺今、何言った?)
(何言ったよ、おい)
マカロンの目が一瞬大きく見開かれて、そのあと、見る見るうちに頬が真っ赤になった。
「あ、ありがとうございます……」
声が一オクターブくらい上がっている。
「い、いえ、あの、その……ブリッツさんも、とても……」
言いかけて、喉に引っかかった。
目の前のブリッツは、いつもの「ちょっとくたびれた視察用の服」ではない。きちんとしたシャツ、落ち着いた色のジャケット、軽く整えられた髪。
フィオレアの港で見たときよりも、ずっと「整って」見える。
(かっこいい、とか)
(面と向かって言えるわけないでしょうが……)
マカロンは、内心で慌てながら、かろうじて言葉を絞り出した。
「いつもより、その……“貴族の人”っぽいです」
ブリッツは、一拍置いてから苦笑した。
「それ、褒めてる?」
「たぶん……褒めてます」
二人の間に、ふっと空気が緩んだ。
さっきまで胸の中で膨らんでいた緊張が、少しだけ溶ける。
「じゃあ」
ブリッツは、勇気を振り絞って一歩近づいた。
「今日は、一日、付き合ってもらってもいい?」
「はい」
マカロンも、しっかり頷いた。
「よろしくお願いします」
軽く会釈を交わしながら、二人は広場から歩き出した。
市場通りは、すでに活気づいていた。
露店の前を通るたびに、あちこちから声が飛んでくる。
「寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 本日限定、蜂蜜漬け干し果実!」
「新鮮な魚だよー! 朝に港に上がったばかり!」
「旅人さん、南方の香辛料はどうだい?」
マカロンは、目線のあちこちに引っ張られながらも、足を止めすぎないように気をつけていた。
(今日は、“仕事の途中”じゃない)
(でも、王城の使用人として、あまりはしゃぎ過ぎるのもどうかな……)
そんなことを考えていたのを見透かしたように、ブリッツが笑う。
「気になるところがあったら、遠慮なく止まっていいよ」
「でも……」
「今日は、視察でも仕事でもなく、“デート”ってことでしょ?」
さらっと言われて、マカロンは足を滑らせそうになった。
「で、でー……っ」
「おっと」
ブリッツが、咄嗟に腕を支える。マカロンの体が、危うく屋台の山賊串の山に突っ込むところだった。
「だ、大丈夫?」
「あ、ありがとうございます……」
マカロンは、危うく串に顔面を刺さるところだった自分を想像し、同時に「今の一言を聞き逃してやり過ごすべきか」真剣に悩んだ。
しかし、このままスルーするのも変な気がしたので、覚悟を決めて口を開く。
「あの」
「うん?」
「いま、“でー……”って言いました?」
ブリッツは、一瞬だけ目を逸らした。
「言ってない」
「言いました」
「気のせいじゃない?」
「はっきり聞こえました」
短い押し問答。
最後に折れたのは、ブリッツだった。
「……まあ、似たようなもんだろう、今日は」
マカロンの顔が、更に赤くなった。
「仕事の打ち合わせ、って自分で言ってたのに」
「それは、自分に言い訳してただけでしょ」
ブリッツの突っ込みは容赦ない。
だが、どこか優しい。
「だって、その方が緊張しないじゃないか」
「……たしかに」
言い負けて、マカロンも苦笑した。
(そうだ)
(これは、ちょっとだけ特別な“仕事の打ち合わせ”だ)
そう思い直すと、胸の中のもやもやが少し晴れた。
途中で、串焼きの匂いに惹かれて足を止めたり、色とりどりの布地を見て「アンナならどれを選ぶかな」と考えたり。
「この布、ひまわりの色に似てませんか?」
マカロンが指さしたのは、柔らかな黄色の布だった。
「言われてみれば」
ブリッツも、それに手を触れる。
「ひまわりの家の庭に、一本だけ咲いてたひまわりの色に近いね」
「覚えてるんですか?」
「忘れようがないよ」
さらりと返された一言に、マカロンは胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。
市場で買った、焼きたての小さなパンを半分こしながら、二人は帝都の外れへ向かって歩く。
帝都を囲む城壁の一角には、緩やかな丘になった公園があった。
石段をゆっくり登ると、視界が開ける。
帝都スエンジールの屋根が、一望できた。
赤茶色の瓦屋根。石畳の道。遠くには王城の塔。朝の光で、すべてが少し柔らかく見える。
「すごい……」
マカロンは思わず息を呑んだ。
「ここから、こんなふうに見えるんですね」
「南方には海があるからさ。たまにこういう“陸の海”を見ると、別の世界みたいで面白い」
ブリッツは、軽く両手を腰に当てながら言った。
「フィオレアの丘から見た海も、こんなふうに広がってたよね」
「……はい」
ひまわりの家の丘。アンナと、子どもたちと過ごした日々。そしてブリッツと一緒に見た海。
青と白の光景と、今目の前に広がる赤茶色の街並みが、胸の奥で重なった。
「座ろっか」
丘の頂上近く。木陰に置かれたベンチがひとつ。
ブリッツが座り、マカロンもその隣に腰を下ろした。
少しだけ空間が空いている。
触れない距離。でも、遠すぎもしない距離。
その少し離れた場所。
背の高い木の影に、二つの人影が隠れていた。
「……ふふ」
「何を笑っておられますか、陛下」
黒髪をきっちりまとめ、地味な街娘風の服を着たリーゼロッテが、ささやくように言う。
隣では、簡素な作業服に頭巾を被った金髪の女が、やけに生き生きと目を輝かせていた。
「いやぁ、いいわねぇ、若いって」
マリア・サン・クオンドール。仮の女王にして、今は完全に「近所のおばちゃんモード」の顔だ。
「しれっと“陛下”って呼ばれるとバレますよ」
「今のは心の声だから大丈夫」
「口から漏れております」
リーゼロッテのツッコミは容赦ない。
マリアは、木の幹からそっと顔だけ出し、ベンチの二人を覗く。
淡いラベンダーのワンピースにひまわりの髪飾りをつけたマカロン。
横顔だけ見えても、頬の赤さが分かる。
「……ちゃんと、最高の美少女になってるわね」
「お任せいただきましたから」
リーゼロッテは淡々と答える。
「ヘアセットは、私の会心の出来です」
「うん。これで、どの角度から見ても“可愛い”わね。あとは、男の側の問題よねぇ」
二人の視線の先では、ブリッツが何かを言おうとして、口を開きかけては閉じる動きを繰り返していた。
「……押しが弱い」
マリアが、眉間に皺を寄せる。
「もっと“今日ここで言わなきゃ一生後悔する”くらいの勢いで行きなさいよ」
「陛下。男にも色々ございます」
「分かってるけど、見てるとちょっとむずむずするのよ」
そうぼやいているところに、後ろからひとつの影が近づいてきた。
「陛下?」
火の気配。赤を基調とした上着。少し砕けた笑み。
アレキサンドル・ルビリア・マルスが、半ば呆れたように首を傾げていた。
「何をなさっているんです? こんなところで」
「見学」
マリアは、木の陰からひょいっと顔を出した。
「南方マルス地方の“坊っちゃん”と、うちの“ひまわり”のデートのね」
「……うちの坊っちゃん、ですか」
アレキサンドルは、一瞬だけベンチの二人を見て、すぐに視線を外した。口の端が、わずかに緩んでいる。
「ほんと押しが弱いわよね。あなた、もう少し背中押してきなさいよ」
「それを言うなら、陛下もマカロン嬢の背中を押しに行っては?」
「私は既に全力で押したわ。服も髪もメイクも」
「たしかに」
リーゼロッテが同意する。
「これ以上押すと、あの二人、転びますね」
三人の視線の先では、ブリッツが何かを取り出そうとして、ジャケットの内ポケットをまさぐっていた。
「お?」
マリアが身を乗り出す。
「来た?」
「いえ、まだですね」
リーゼロッテは冷静だった。
「これは多分、昼食前の雑談用のネタです」
「よく分かるわね」
「観察の結果です」
アレキサンドルが、肩をすくめた。
「まぁ……少なくとも、あの顔を見る限り、坊っちゃん、変な真似はしないでしょう」
「変な真似くらいしなさいよ」
「陛下」
三人分の圧が、木陰で渦巻いた。
ベンチの上。
ブリッツは、もう一度深呼吸してからマカロンに向き直った。
「えっと、その……」
「はい?」
マカロンが、首をかしげる。この仕草をされると、説明しようとしていた話の半分くらいが飛んでいく。
これではいけない。
ブリッツは、内心で自分に喝を入れた。
「実は、俺の方から持ってきたものもあるんだけど」
そう言って、ジャケットの内側に手を入れる。
マカロンの目が、少しだけ輝いた。
「例の、スペシャルマカロンですか?」
「それは、後のお楽しみ」
ブリッツは、からかうように言う。
「まずは、マカロンの方から。何か、用意してきたんじゃない?」
「え」
図星だ。
(さすがに、気付かれてたか……)
マカロンは、そっと足元に置いていた布包みを膝の上にのせた。小さなお弁当箱が入っている。
「大したものじゃないんですけど」
包みを解き、中身を見せる。
小さなおにぎりのような、丸いパン。薄く切ったハムとチーズを挟んだもの。帝都の市場で手に入る安い材料を組み合わせた、素朴なおかずたち。
「王城の厨房で、端っこを分けてもらって作りました」
照れくさそうに言う。
「以前、フィオレアでパンを半分こしてもらったので……今度は私の番かなって」
一瞬、ブリッツの表情が固まった。
すぐに、目元が緩む。
「……覚えててくれたんだ」
「忘れるわけないです」
マカロンは、少しだけ視線を逸らした。
「あんまり、いい状況ではなかったですけど」
「それでも、“いい記憶”にしたいって思ってたから」
ブリッツは、お弁当箱の中身をしげしげと眺めて、頷いた。
「じゃあ――いただきます」
「はい、どうぞ」
マカロンも、自分の分を取り出す。
帝都を一望しながら、二人で小さなパンをかじる。
噛むたびに、ささやかな塩気と、小麦の甘みが広がる。
「うまい」
ブリッツが真顔で言った。
「思ったより、ずっと」
「“思ったより”とは何ですか」
「ほら、前にフィオレアで作ったおかゆの味を思い出して……」
「それは言わない約束です」
二人で小さく笑い合う。
「でも、本当に美味しいよ」
ブリッツは、真面目な顔に戻った。
「王城の料理人も驚くと思う」
「そんな、おおげさな」
「おおげさじゃないさ」
軽く肩をすくめる。
「好きな人と一緒に食べるご飯って、それだけで大抵の料理より美味しくなるからね」
「……好きな人?」
マカロンの声が、かすかに上ずる。
「え?」
「いま、“好きな人”って」
「あ、いや、その」
一瞬、空気が固まった。
ブリッツは、頭をかきながら視線を泳がせる。
「一般論です、一般論」
「そうですね、一般論ですね」
「一般論だね」
「一般論です」
二人とも、強引に話を落ち着かせた。
だが、お弁当箱の中身が少しずつ減っていくにつれて、言葉少なになっていく沈黙は、不思議と居心地が悪くなかった。
帝都の風が、丘の上を抜けていく。
遠くで、鐘の音が鳴った。
十分に時間をかけて、お弁当を食べ終える。
マカロンが小さな布で口元を押さえている間に、ブリッツはそっと足元の包みに手を伸ばした。
「じゃあ――満を持して」
マカロンが顔を上げる。
ブリッツは、白い箱を膝の上に置き、ゆっくりと蓋を開けた。
「ショコラさん、スペシャルマカロン。八個セット」
中には、色とりどりのマカロンが並んでいた。
淡いレモン色。深いチョコレート色。ミントグリーン。ベリーのような赤。ピスタチオ。ラベンダー。薄桃色。そして、真っ白な一つ。
どれも、丁寧に模様が描かれ、小さな宝石のようだった。
「……きれい」
マカロンの目が、丸くなる。
「これが、じゃんけんで勝ち取ったやつですか」
「そう。ウルティアさんの三十連勝を止めて手に入れた一箱」
誇らしげに言う。
「最初で最後かもしれないから、今日一緒に食べようと思って」
「一緒に……」
マカロンの胸が、きゅっと熱くなった。
「はい。ぜひ」
ブリッツは、箱をマカロンの方に少し押し出した。
「どれからいく?」
「えっと……」
マカロンは、恐る恐る指先を伸ばす。
最初に触れたのは、淡いラベンダーのマカロンだった。
「これ」
「服の色とお揃いだ」
ブリッツが笑う。
「じゃあ、俺はこれにしようかな」
彼が手に取ったのは、ひまわりのような、柔らかなレモン色のマカロンだった。
「“ひまわり”のイメージで」
「それ、私のことですか?」
「さあ、どうでしょう」
軽口を交わしながら、二人は同時にマカロンを口へ運んだ。
さく。
外側の薄い殻が、ほんのわずかに抵抗を見せてから、舌の上で溶ける。
中から、香りが広がった。
マカロンのラベンダーは、優しいミルクの甘さの中に、ほんのりとした花の香りが混じっている。
ブリッツのレモンは、すっきりとした酸味と甘味のバランスが絶妙で、口の中を一瞬で明るくする。
二人は、一口食べたところで――
同時に、手を止めた。
目が合う。
互いの口元に、白いクリームが少し。
それを指摘する余裕もなく。
しばらく、ただ見つめ合っていた。
(……)
(……)
時間の感覚が曖昧になる。
風の音も、人々のざわめきも、遠くの鐘の音も、全部どこかへ行ってしまったような。
マリアが見ていたら「三十秒くらいね」と言ったかもしれない。
実際には、もっと短かったかもしれないし、もっと長かったかもしれない。
ただ、二人には、永遠みたいに感じられた。
「……」
「……っ」
先に耐えきれなくなったのは、マカロンの方だった。
視線を逸らし、慌てて口元を拭う。
「お、おいしいです」
「……ああ」
ブリッツも、咳払いを一つしてから笑う。
「ショコラさん、やっぱりすごいな」
「なんか……」
マカロンは、胸の前で指を組んだ。
「食べた瞬間、ちょっとだけ泣きそうになりました」
「俺も」
ブリッツが頷く。
「“今ここにいる”って感じがした」
「はい」
「次、どれにする?」
「全部食べ切ったら、お腹はちきれませんか」
「そのときは一緒にはちきれよう」
「それは嫌です」
二人は笑い合いながら、少しずつマカロンを分け合う。
ひとつ食べるごとに、「これはナッツが強いですね」「このベリーのやつ、ちょっと酸っぱい」と、他愛もない感想が増えていく。
言葉の合間に、時々、視線がぶつかる。
そのたびに、どちらかが少し赤くなり、視線を落とし、そしてまた笑いに戻る。
木陰から、その様子を眺めていた三人は――
「……」
「……」
「……」
それぞれ、複雑なため息をついた。
「押しが弱い」
マリアが、何度目か分からない文句を言う。
「そこで“美味しいね”だけじゃなくて、“君と食べられて嬉しい”くらい言いなさいよ」
「言えない男もいるのです」
アレキサンドルは、肩をすくめた。
「それに、あれはあれで満足してる顔ですよ」
リーゼロッテも、静かに頷く。
「マカロン嬢の表情も、今まで見た中で一番柔らかいです」
「そうなんだけどねぇ」
マリアは、頬杖をついた。
「もっとこう、“世界に負けないくらいの子になりそうな女の子”なんだから、その隣に立つ男も、もうちょっとガツンと行きなさいよ、って気持ちになるのよ」
「陛下、それは少し八つ当たりです」
「自覚はあるわ」
三人の間に、ふっと笑いが漏れた。
「……まあいいか」
マリアは、最後にもう一度ベンチの二人を見た。
スペシャルマカロンの箱は、ほとんど空になっている。
マカロンが、手のひらを口元に当てて笑っている。
ブリッツも、それに笑顔で何か返している。
「本人たちが、今のペースで満足してるなら」
マリアは立ち上がった。
「私たちが、とやかく言うことじゃないわね」
「珍しいですね」
リーゼロッテが小さく目を見開く。
「陛下が“見守る”という選択をするのは」
「たまにはね」
マリアは、肩をすくめた。
「それに、マカロンには――」
少しだけ、目を細める。
「これから、もっとたくさん“理不尽なこと”と戦ってもらわなきゃいけない」
「せめて今くらいは、普通の女の子として笑っていてもらわないと」
アレキサンドルも立ち上がる。
「では、我々は先に戻りましょうか」
「そうね。リーゼロッテ」
「はい」
三人は、そっと木陰から離れていった。
丘を下りる途中で、マリアはふと立ち止まり、振り返る。
ベンチの上の二人は、もうこちらに気付いていない。
(ちゃんと、幸せになりなさいよ)
心の中でだけ、そう呟いた。
日が傾き始めた頃。
帝都の影が、少しずつ伸びていく。
ブリッツとマカロンは、丘から下り、王城へと続く道の手前まで歩いていた。
王宮の塔が、近くに見える。
「そろそろ、戻らないとですね」
マカロンが、小さく言う。
「そうだね」
ブリッツも、足を止めた。
その場に、短い沈黙が落ちる。
忙しない日々の中にある、ふとした静寂。
その静けさの中で、言わなければならないことがあるのを二人とも分かっていた。
先に口を開いたのは、ブリッツだった。
「……手紙、送ってもいい?」
唐突なようで、自然な問い。
マカロンは、一瞬驚いた顔をして――すぐに、微笑んだ。
「もちろんです」
「王城宛てに?」
「はい。『マリア陛下のもとで働くマカロン宛て』で」
ブリッツは、少し笑う。
「それ、宛名だけで色んな人の目に触れそうだな」
「リーゼロッテさんが、ちゃんと届けてくれます」
「じゃあ、頼りにしよう」
ブリッツは、少し真面目な顔になった。
「南に戻っても、帝都には時々来る」
「仕事の話もあるし、それに……」
言い淀む。
マカロンが、首をかしげる。
「それに?」
「それに、また会いたいから」
それは、「好き」と言うほどの直球ではなかった。
けれど、「ただの友達」と言い切るには、少し熱がこもりすぎている。
マカロンの頬が、ぽっと赤くなった。
「私も」
俯きかけた顔を上げて、はっきりと答える。
「また、会いたいです」
「王都に出られる機会があれば、マルセ商会か、ショコラの店に行きます」
「そのときは――」
「また、砂糖を食べ過ぎようか」
「太りますよ」
「一緒に走ればいいさ」
「じゃあ、決まりですね」
二人は、ほんの少しだけ笑い合う。
「じゃあ」
ブリッツは、短く息を吸って、右手を差し出した。
「今日、一日付き合ってくれて、ありがとう」
マカロンも、その手を握り返す。
「こちらこそ。とても、楽しかったです」
握手は、ほんの一瞬だった。
けれど、握り合った手の温度は、しばらく消えなかった。
「それじゃ」
ブリッツは、一歩下がる。
「また手紙を送る」
「待ってます。王都に来られそうなときは、ちゃんと知らせて」
「うん。でも明日大精霊建国祭があるから、明日は帝都にいるよ」
名残惜しさは、確かにあった。
もっと話したいことも、聞きたいことも、たくさんある。
でも、それを全部、今日この場で完結させてしまうのは違う気がした。
続きは、また今度。
その「また今度」が、本当に来ると信じられるくらいには、お互いのことを信頼していた。
マカロンは、王城へ続く門の方へと歩き出す。
数歩進んでから、ふと振り返った。
ブリッツが、まだその場に立っている。
手を振る。
ブリッツも、笑いながら手を振り返した。
夕暮れの風が、ラベンダーの裾と、ひまわりの髪飾りを揺らす。
マカロンは、胸の前で手をぎゅっと握りしめた。
(またね)
声には出さない。
でも、その言葉は、確かに届いている気がした。
ブリッツも、胸の奥で同じ言葉を繰り返す。
(また)
(ちゃんと、会いに来る)
それは、いつか世界の筋書きに殴り返すことになる二人が交わした、ささやかな約束だった。




