いなくなった“うるさい男”と、世界の違和感
そうして、完全に日常と化した追いかけっこにも、少しずつ変化が混じり始めた。
ある日、アネッサはふと、センイチロウの動きに違和感を覚えた。いつものように飛行具で突っ込んできて、いつものように吹っ飛ばされて、いつものように土煙の中から立ち上がる――はずが。
「……あれ?」
立ち上がるまでの間に、ほんの少しだけ「間」が空いたのだ。息が上がっている、というほどではない。だが、三年間見続けてきたアネッサには、その一瞬の遅れがやけに気になった。
(……疲れてる?)
その程度の疑問で、剣を振るう手は止まらない。けれど、その日の夜、アネッサは珍しく自分の寝床でひとり、天井を見つめていた。
(もし、あいつが急に来なくなったら……)
森の静けさが戻る。門に飛行具が突っ込んでくることもなくなる。神官たちの悲鳴混じりのツッコミも聞こえなくなる。
(……静かで、いいんじゃないの?)
そう理屈では思う。だが、胸の奥が、少しだけ――ほんの少しだけ――ざわつく。
(ウブね、私)
自分で自分にそう言って、枕に顔を埋めた。
「好き」とは、まだ認めない。けれど、「嫌いじゃない」ことくらいは、とっくに分かっている。
三年目の初夏。ようやく、自分の感情をぼんやりと自覚し始めた矢先のことだった。
唐突に、センイチロウは姿を消した。本当に、ある日を境に、ぱったりと。神界に突っ込んでくる飛行具もなければ、空から落ちてくる金属塊もない。
森で昼寝をしようとしても、落下物の気配ひとつ感じない。
あまりに唐突な静寂に、アネッサは自分でも驚くほど落ち着かなかった。
(……なに、よ)
(あれだけしつこく追いかけ回してきて、いきなり音沙汰なしって……)
イラつきにも似た感情の奥に、微かな不安が混じっていた。胸の奥のどこかが「いつもの音」を待っていることに、ようやくはっきり気づく。
「……仕方ないわね。ちょっとだけ、探してあげる」
誰に聞かせるでもなく呟き、アネッサは神域から下界へ降り立つ。探し当てた場所は、最初に出会った、あの森の草地だった。そこに、センイチロウが倒れていた。
「センイチロウ!」
アネッサは駆け寄る。顔色は悪く、息は浅い。白衣の下には無数の擦り傷と打撲、魔力暴走の痕跡が見て取れた。
「……馬鹿ね、あなた。そんなボロボロになるまで、何を――」
回復魔法を編もうと手をかざした瞬間――
「――にひひ~。つ~かまえた!」
満面の笑みで、センイチロウが跳ね起き、女神を抱きしめた。
「っ!? ちょ、離れなさい!」
「三年と二か月と十一日!! 追いかけて、追いかけて、追いかけて……ようやく、君の方から“会いに来てくれた”!!」
「そのためにここまで傷だらけになったって言うの!?」
「そう!! 『いなくなったら心配してくれるかどうか』の実験は、見事大成功!! データは上々!!」
「データって言うな!!」
アネッサは怒鳴りながらも、彼を突き放せなかった。腕の中の体温が、思っていたよりずっと低いいことに気づいてしまったからだ。
しばらく荒い呼吸を整えていたセンイチロウの表情が、ふっと真面目なものに変わる。
「……アネッサ」
「なに」
「この世界、ちょっと“おかしくなり始めてる”」
アネッサは眉をひそめる。
「おかしい?」
「うん。戦争や災害の“起こり方”が、妙に都合が良すぎるんだ。誰かが、見えないところから、出来事を“並べ替えてる”みたいな感じ」
センイチロウの目に、いつもの狂気とは違う、鋭い光が宿る。
「偶然で片付けるには、統計的に変なんだよね。“誰かの好み”とか“都合”とかが混ざってるみたいな……」
アネッサは沈黙した。女神として長く世界を見てきた彼女にも、最近、説明のつかない“違和感”を覚える瞬間が増えていた。
「あなたは、何か知っているの?」
「全部は分からない。ただ――このままだと、『この世界に生きてる人たちの選択』が、どんどん軽くなっていく気がする」
センイチロウは、薄く笑う。
「俺さ、こう見えて真面目に世界が好きなんだよ。自分の頭で考えて、自分の足で転んで、それでも立ち上がるやつらが、いっぱい居る世界がさ」
「だから、決めた」
彼は、アネッサの手をそっと取った。
「世界の中から、“この世界の筋書きに殴り返せるヤツ”を生み出そう」
「……どうやって?」
「君と、俺で」
アネッサは目を瞬く。
「女神の力と、俺の頭脳を混ぜて――世界がどう転んでも、『自分で選び直せる子』がほしい」
センイチロウは真顔で言う。
「この世界がどんなふうに弄られても、『それでも私はこうしたい』って言えるようなヤツ。決められた筋書きだろうが、誰かの都合だろうが、『知らない。私は自分で選ぶ』って言える子をさ」
アネッサは、しばらく黙って彼を見つめていた。胸の奥で、今までうまく言葉にならなかった何かが、すっと形を持ち始める。
「……世界を守るための口説き文句なんて、聞いたことないわ」
そう言いながらも、声はわずかに震えていた。
「気に入ってもらえた?」
「ずるいわよ、あんた」
アネッサはふいっと顔をそらす。
「三年も女神を追いかけ回しておいて、なんで肝心なことを最後まで言わないのよ」
「肝心なこと?」
「そうよ」
アネッサは、真っ赤になった顔のまま、センイチロウを睨みつけた。
「好きって言いなさいよ。ちゃんと」
沈黙。
センイチロウは、一瞬ぽかんと口を開け、それからゆっくりと笑った。
「……照れ隠しなんだよ」
「知ってるわよ、そんなの」
アネッサは、唇を噛んだ。
「こんなに女神を本気にさせといて、自分だけカッコつけて世界の話ばっかりして……ずるいに決まってるでしょ」
彼女の目に、うっすらと涙が滲む。
センイチロウは、そっと彼女の肩に手を置いた。
「じゃあ、ちゃんと言うよ」
深く息を吸う。
「アネッサ」
「初めて会った時から、“これはただの一目惚れじゃないな”って、どこかで理解してた」
「過去に戻れたとしても、未来が見えたとしても、きっと俺は何度でも君を選ぶ」
「世界のため、とか、筋書きに殴り返すため、とか色々理由はつけられるけど――」
センイチロウは、苦笑する。
「本音を言えば、そういう理屈がなくても、君が好きだ」
短く、しかし迷いのない言葉だった。
アネッサは、肩の力を抜き、ゆっくりと息を吐く。
「……最初から、それだけで十分だったのに」
目元の涙を指で拭いながら、アネッサは笑った。
「じゃあ、そうね」
少しだけ顎を上げる。
「最初からちょっと気になってたから、負けを認めるわ」
アネッサは言った。
「結婚してあげる」
センイチロウは固まった。
「……今、何と?」
「だから、“結婚してあげる”って言ってるのよ。聞こえなかった?」
「脳が処理を拒否してました。もう一回、もう一回だけ言って」
「しつこい」
アネッサは小さく笑った。
センイチロウはゆっくりとアネッサの前に跪き、片膝をつく。
「アネッサ」
いつになく静かな声だった。
「君は戦いの女神で、俺を助けてくれた恩人で――でも今は、それ以上に、一人の“女の人”として君が好きだ」
「どんな苦境にあっても、どんな幸せの中にいても、その隣に君がいてくれたら、それでいい」
「俺の残りの人生を、君と一緒に歩ませてほしい」
アネッサは、少しだけ肩をすくめた。
「順番、逆よね」
「いつも順番を無視して生きてきた男だから」
センイチロウは照れたように笑う。
アネッサは、大きくひとつ深呼吸をしてから、頷いた。
「……いいわ」
「私はあなたの妻になる。だから、その代わり――」
真剣な瞳でセンイチロウを見下ろす。
「私だけを見ていてね」
「見るよ」
センイチロウは即答した。
「君以外は、どう頑張っても視界の端だ」
センイチロウから出るとは思えない直球に、アネッサは一拍遅れてから真っ赤になった。
「……ほんとに、もう」
顔を逸らしながらも、その口元は確かに笑っていた。
「ただし――私は“神”よ」
アネッサは、少し落ち着きを取り戻してから言う。
「人間と結婚するには、神界の主神エンドールの許可が必要なの」
センイチロウは一瞬だけ黙り、それからあっさり頷く。
「オッケー。じゃあ、その面倒ごと片付けてきますか」
「主神に会うのが“面倒ごと”って発想はどうかと思うけどね」
センイチロウはアネッサを振り向かせたことで十分満足している。従って、それ以降の手続き的なことはまるっと面倒ごとである。
アネッサはあきれつつも、久しぶりに会う主神に対して、入念なメイク計画を立てるのであった。
「この美貌があればきっと大丈夫」
少し、センイチロウに似てきた気がするのにはまだ気づいていない。




