ひまわりの記憶と、剣を取る理由
マルセ商会での再会から、その晩。王城の中庭。マカロンは、人気のない芝生の縁に腰を下ろし、夜空を見上げていた。星が、かすかに瞬いている。
昼間、ブリッツに言ってしまった言葉が、まだ胸の奥で反芻されている。
「明日の朝、ここで待ち合わせしましょう。是非ともお願いします」
(あああああ……)
思い出すたびに、耳まで熱くなる。
(食いつき過ぎた……。 でも、言えた)
フィオレアの港で、「またね」とも言えずに別れたあの日。あのとき胸に刺さった棘が、少しだけ抜けかけている気がした。
けれど、胸の中は、それだけでいっぱいにはならない。
もうひとつ、別の棘が、別の場所に深く刺さったままだ。
(ブリッツ)
名前を、心の中でそっと呼ぶ。
「またね」と言えなかった後悔。「ありがとう」と言えなかった後悔。
そして――「助けて」と言えなかった自分。
(あのとき、私に力があったら)
ひまわりの家。エレンが、自分の体を削って皆のためにパンを手に入れた夜。
マカロンは、その場にいなかった。何があったのか、誰も詳しく話そうとしなかった。
けれど、ブランディアから聞いた「報告」と。あの日、マリアが涙をこぼしながら抱きしめていたエレンの肩の震えと。
それで、全部は言葉にされなくても、分かってしまう。
(私は、何もできていなかった)
エレンが、一人で町に行くと言ったとき。ビッケも、ローラも、マックスも、バッジも、その背中を見送るしかできなかった。
ひまわりの家から追い出されたあと。路地裏で倒れかけていた自分は、ただ「生きること」に精一杯で、誰かを守るどころか、自分のことすら守れていなかった。
(今だって)
王城で働きながら、自分だけが「守られている」ように感じてしまうことがある。屋根のある寝床。空腹で眠れない夜はない。ひどい目に遭いそうになれば、すぐ近くに誰かがいる。
「守られている人」としての自分。
一方で、路地裏に倒れていた自分を、マリアが抱き上げてくれたときの記憶。西門で倒れていたビッケたちを見つけたときの、あのどうしようもない無力感。
「守れなかった人」としての自分。
その両方を抱えたまま、前に進もうとするには――何かが足りない。
(だから)
マカロンは、そっと立ち上がった。
中庭の隅。誰も使っていない古い物置小屋の横に、夜だけ使う「鍛錬場」がある。ここなら、誰にも邪魔されない。
壁に立てかけてある木剣を手に取る。
「……ふっ」
短く息を吐き、構えを取る。肩の力を抜き、腰を落とし、足を半歩引く。マリアに教わった基本の型を、ひとつ、ふたつ、みっつ。
(剣も、魔法も)
木剣が空を裂くたび、ひまわりの家の景色が脳裏に浮かぶ。
アンナ院長の笑顔。ビッケの照れた顔。エレンの強がり。マックスの大きな笑い声。ローラの涙もろさ。バッジの悪戯。
そして、エレンが赤い目で戻ってきたあの夜の話。
(少しでも、できることを増やす)
(せめて、“あのとき”みたいな選び方を、誰かにさせずに済むくらいには)
汗が額に滲む。掌の皮が、少しずつ固くなっていく。
夜の鍛錬場。木剣を振りながら、マカロンは心の中で呟いた。
(あのとき、王城に連れてきてくれたのは、マリア様だった)
路地裏で、世界が暗く滲み始めたとき。「……やっと見つけた」と言って抱き上げてくれた腕の温度。暖かさと、震えと、怒りと。
(命を救ってくれた)
フィオレアの路地裏から、王城のベッドへ。「働く?」と聞かれて、「働きたいです」と答えた日のこと。
守られているだけではなく、ここで「役に立ちたい」と思った自分。
(今度は、私が――)
木剣を握る手に、力が入る。
「今度は、私が守る番だ」
小さく、声に出す。その言葉は、夜の中庭に溶けていった。
風が、少しだけ強く吹いた。遠く南の海の風。フィオレアの潮風。ひまわりの家の庭を駆け抜けた風。そのすべてが、まだどこかで繋がっているような気がする。
木剣を下ろし、肩で息をしながら、マカロンは夜空を見上げた。
(明日)
(ちゃんと、笑って会えるように)
(ちゃんと、“今の私”で会えるように)
木剣を壁に戻し、静かに中庭を後にした。
帝都のどこか。同じ夜。ブリッツもまた、剣を手にしていた。
マルス地方の鍛冶屋が打った剣。南方の風を孕んだ刃。訓練場の床には、彼の足跡が何度も刻まれている。
「ブリッツ様」
護衛が声をかける。
「こんな時間まで。 明日は大精霊建国祭の準備もありますし、そろそろお休みにならないと」
「貴族として、剣も魔法も使えないわけにはいかないだろ」
ブリッツは、軽く笑う。
「それに――」
目を細めた。その目の奥に、一度だけ見た路地裏の景色が浮かぶ。
フィオレア。港町の裏路地。痩せた背中。冷たい石畳。雨に濡れた髪。
「俺は、“目の前の誰か”を守れない自分を、もう一度味わいたくない」
マカロンの名は、彼の口からは出ない。けれど、その心の中には、はっきりと刻まれている。
ひまわりの家の庭。丘の上の夕暮れ。「またね」とも言えなかった別れ。港の雑踏の中で、何度も「似た背中」を探した日々。
ミントテレンの話を聞いたときの、胸の冷たさ。監禁され、搾取され、それでも歩いて王都まで来ようとした子どもたちのこと。
自分は、そのどこにも間に合っていない。
(間に合わなかった場所ばかりだ)
(フィオレアでも、ミントテレンでも)
(だからせめて――)
視線を上げる。王都の空には、帝城の輪郭が黒い影となって浮かんでいる。
「だからせめて、“次”に届くように」
「自分の足で歩いて、自分の手で剣を振れるくらいにはなっておきたい」
護衛は、少しだけ目を細めた。
「“誰か”のために、ですか」
「……そういうことにしておいてくれ」
ブリッツは、照れ隠しのように肩を竦める。本当は、もっと単純な話だ。
あの日、丘の上で並んで見た海。パンを半分に割って渡した手。「どこに帰るの?」と聞かれて、とっさにごまかした自分。
守りたいと思ったのに、守れる力も立場もなかった。その悔しさが、剣を振る理由になっている。
風が吹く。帝都の夜風。遠く南方で吹いていた風とは違う。けれど、どこかで繋がっている風だ。
「明日、だな」
マルセ商会の前。「ここで」と交わした約束。帝都が一望できる公園のベンチに、限定マカロンの箱を置いて、少し気取った顔をして、「遅くなってごめん」と言う自分の姿を想像する。
(ちゃんと、言えるといいな)
(あのとき言えなかった分まで)
剣を鞘に納める。
ひまわりに似た背中と、風を探す少年の想いは、まだ交わらない。けれど、確かに、少しずつ近づいていた。
それぞれが、それぞれの場所で。「守られていただけの自分」から、「誰かを守れる自分」へと変わろうとしている。
夜空の下で、その決意だけが、そっと重なった。




