すれ違う二人、再会する二人
マルセ商会に通い続けてから、二年が経った頃。
ある日、王城の使用人棟で、マカロンは、何気ない噂話を耳にした。
「ねえ知ってる?」
「マルセさんのところにね、最近、頻繁に来る貴族の青年がいるんだって」
「ふーん」
イルマが、洗濯籠を抱えながら相槌を打つ。
「何の話?」
「なんか、“王宮で働いてる女の子のこと詳しく知りたい”って、しょっちゅう店に顔出してるんだってさ」
「へえ……」
マカロンは、思わず足を止めた。
「でもさ、マルセさん、そういう話は絶対しない人じゃない?」
「そうそう。“本人が自分で話せるようになるまで、俺は口出さない”ってやつ」
「だから、その青年もなかなか願いが叶わないらしいよ」
「物好きだねぇ」
イルマが笑う。
「その子、よっぽど可愛いんだろうね」
「……貴族の青年……」
マカロンは、心の中で言葉を転がした。
貴族の青年。王宮で働いている女の子。詳しく知りたがっている。マルセ商会。
(そんな人が、いるんだ)
自分のことだとは、思わない。思えなかった。
自分は、ただの名もなき使用人だ。王宮で働いていることも、マルセ商会にお使いで行くことも、誇るようなことではないと考えていた。
それでも、その噂話は、しばらく頭から離れなかった。
数日後。
マルセ商会の店先で。
「今日の納品はこちらです」
マカロンは、王宮から預かった書類と荷物を渡し、確認を受けていた。
「いつもありがとうね、マカロンちゃん」
店員が笑顔で言う。
「こちらこそ、お世話になってます」
ふと、店員が手を止めた。
「そういえばさ」
「何ですか」
「マカロンちゃんのこと、知りたがってる貴族がいるんだよねぇ」
心臓が、どくんと鳴った。
「……え?」
「この二年で、三回くらいかな」
店員は、指折り数える。
「南の方の偉い家の坊ちゃんなんだけどさ」
「毎回、商談のついでに、“王宮で働いているマカロンという少女のことを教えてほしい”って」
「でも、マルセさん、絶対言わないんだよね」
「そりゃそうですよ」
マカロンは、慌てて言う。
「私なんて、ただの使用人ですし。そんなに知りたがる理由も――」
(ない)
と言いかけて、喉の奥で言葉が止まった。
ひまわりの家。冷たい雨の日。空き地のそばの廃屋。
「ブリッツは、どこに帰るの?」
「南の方、かな」
あの日の会話が、鮮やかに蘇る。
「戻りたい?」
「どうだろうね」
“南の偉い人の遠い甥”。“視察”。
(……まさか)
心臓の鼓動が早くなる。
(あんな短い間、一緒にいただけで)
(そんなふうに、私のことを……?)
店員が、にやにやしながらマカロンの顔を覗き込む。
「ねえねえ、顔真っ赤だよ」
「な、なんでもないです!」
マカロンは、慌てて荷物をまとめて店を出た。
その日以来。マカロンは、時々マルセ商会の方向を、意味もなく見てしまうようになった。
(会いたい)
胸の奥のどこかが、そう呟く。
ひまわりの家での日々。丘の上から港を見下ろした夕暮れ。パンを半分に割ってくれた手。
「またね」とも、「ありがとう」とも、ちゃんと言えていない。
(会って、ちゃんと言いたい)
(あのときの分まで)
しかし、現実には、仕事がある。王宮の使用人は、勝手に外出できない。
マルセ商会へのお使いも、毎日あるわけではない。別の使用人が担当する日も多い。
ブリッツも、毎日商会に来られるわけではない。貴族としての仕事。視察。アレキサンドルからの任務。
結果として――
「今日もすれ違いだったねぇ」
店員が苦笑する。
「さっきまでいたんだよ、あの坊っちゃん」
「そうなんですか……」
マカロンは、苦笑いを返すしかない。
一方のブリッツも。
「さっきまで、王宮のお使いの子が来てたんですよ」
ガルヴァンにそう言われ、天を仰ぐ。
「本当に、タイミング悪いですね、あなたは」
「自覚してます……」
噂話は、少しずつ積み重なっていく。
「王宮でよく働くかわいい少女がいるらしい」
「名前はマカロン」
「マルセ商会に半年に一回くらいしか来ない」
「南の貴族の坊っちゃんが、その子のことを気にしている」
当の二人は、それぞれの場所で、それぞれの仕事をしながらすれ違い続けていた。
そんな日々が、半年ほど続いたころ。
ちょうど、仕事の都合と店の販売スケジュールがうまく噛み合った日があった。
前日のうちに書類を片付け、夜は早めに休み、まだ空が白む前に起き出して、ショコラの店の列に並ぶ。
その日は、限定マカロンの箱を迷いなく手に入れることができた。
(今日は、全部早く回っている)
胸の奥で、何かが軽く跳ねる。
礼装を脱ぎ、手入れの行き届いているが目立たない服に着替え、包みを大事に抱えたまま、マルセ商会へ向かった。
ちょうどそのとき。
王宮からの使いとして、マカロンがマルセ商会の扉を押し開けるところだった。
「今日の納品はこちらです」
いつものように、落ち着いた声で仕事をこなしている。
カウンター越しに聞こえるその声に、ブリッツの足が止まった。
(……いる)
背中の汗が、急に冷たく感じられる。
理性は、「いきなり飛び出すな」とブレーキを掛ける。しかし、半年分の早起きと行列と空振りが、「今行け」と背中を押した。
店員が、カウンターの向こうのマカロンに笑いかける。
「いつもありがとうね、マカロンちゃん」
マカロンが会釈して書類を渡し終えたところで、ブリッツは意を決して声をかけた。
「……マカロン?」
振り返る。視線が、ぶつかった。
「……ブリッツ、さん?」
先に名前を口にしたのは、マカロンの方だった。半年前、フィオレアの港町でパンを分け合った少年。今は少し背が伸び、帝都の空気にも馴染み始めた青年になっていた。
(あれ?)
胸の奥で、変な感覚が走る。
(こんなに……かっこ良かったっけ?)
自分の制服の皺や髪の乱れが、一瞬で気になり出した。
ブリッツは、喉がひどく乾いていることに気づいた。
「ひさしぶり」
慎重に選んだはずの言葉なのに、少し上ずってしまう。
「フィオレア以来、だよね」
「……はい」
マカロンも、思わず背筋を伸ばした。
(変な立ち方してないかな)
(変な顔してないかな)
頭の中で、高速でチェックが走る。
数秒の沈黙。
先にそれを破ったのは、ブリッツだった。
「えっと、その……」
箱を持っていない方の手で、そっと後頭部をかく。
「もし、この後時間があるなら」
一度だけ深く息を吸い込んでから、勢いで続けた。
「帝都が一望できる公園でもどうだい?」
ほんの少し、言葉が噛んだ。マカロンは、くすっと笑ってしまった。半年分の緊張が、その笑いで少しだけ解ける。
「お誘いありがとうございます」
マカロンは、自然と口元がほころぶのを感じながら答えた。
「でも、まだ仕事の途中なので……」
そこで一度言葉を区切り、自分でも驚くほどの勢いで続けてしまう。
「明日の朝、ここで待ち合わせしましょう。是非ともお願いします」
言い切った瞬間、
(食いつき過ぎたーー)
と自覚した。
顔が一気に熱くなり、思わず両手で頬を覆う。
「……っ」
ブリッツの方も、完全にオーバーヒートしていた。
「よ、よるこんで!……」
盛大に噛んだ。
マカロンは、声を出して笑いそうになるのを堪え、肩を震わせる。
「笑ってくれて、いいよ」
ブリッツが、苦笑混じりに言う。
「さっきから二連続で噛んでるし」
「……ふふっ」
マカロンは、指の隙間からブリッツを見て、小さく笑った。
二人とも、顔を真っ赤にしながら。
「じゃあ、また明日の朝」
ブリッツが、できるだけ落ち着いた声で言う。
「ここで」
「はい」
マカロンも、小さく頷いた。
それぞれ荷物を抱え、仕事場へ戻るために背を向ける。
数歩歩いて、同時に振り返りそうになり、慌ててそれをやめた。
(今度はちゃんと、“また明日”って言えた)
フィオレアの港で、何も言えずに別れたあの日からずっと胸に残っていた棘が、ほんの少しだけ、抜けかけた気がした。




