ブリッツと、スエンジールのマルセ商会
同じ頃。南方マルス地方。
アレキサンドル・ルビリア・マルスの執務室で、一人の少年が書類を前に頭を抱えていた。
「……多い」
書類の山を睨みつけているのは、ブリッツ。
あの、港町フィオレアでマカロンとパンを分け合い、ふらりと姿を消した少年は、今や立派に――とまではいかないが、少なくとも「貴族として逃げ切れなくなり始めた青年」になっていた。
「これが、“視察報告書”……」
南方各地を回ってきた数年。アレキサンドルに命じられ、彼は貴族の跡継ぎとしての自覚を少しずつ植え付けられていた。
現地の生活。港の状況。税と交易の流れ。そこで暮らす人々の顔。
「ちゃんと見て、ちゃんと記録してこい」
アレキサンドルは、そう言って彼を送り出し続けた。
(“偉い人の遠い甥”だからって、遊んでていい立場じゃないってことだよな)
この数年で、ブリッツの中には、「自分の居場所」が少しずつ変化していく感覚が生まれていた。
かつてフィオレアで見た、ひまわりの家。港の裏路地。マカロンの笑顔。
あの日のことは、ずっと胸の奥にしまったままだった。
「……マカロン」
名前を口に出すと、胸の奥が少しだけ苦くなる。
(きっと、どこかで元気にしている)
そう思いたかった。そう思わなければ、やっていけない部分もあった。
そんなある日。
「ブリッツ」
アレキサンドルが書類から顔を上げる。
「帝都に用事だ」
「用事、ですか」
「マルセ商会を知っているか」
「……名前だけ。帝都でも指折りの大商会だって聞きましたけど」
「そうだ。王宮近くに本店を構える、大商人だ」
アレキサンドルは、簡潔に説明した。
「帝国全土の物資流通に関わっている。南方にも支店が多い。今回、その一部の契約見直しのため、直接先方と話してほしい」
「俺が?」
「お前が」
淡々とした口調の中に、わずかな期待が混じっている。
「貴族の名前を盾にするな。マルセの当主と、ちゃんと人間として話してこい」
「……はい」
ブリッツは、深く息を吸った。
(帝都、か)
帝都には、彼がひそかに「いつか一緒に行きたい店」と思っている場所がひとつあった。
有名パティシエ、ショコラの菓子店。帝都でも評判の店で、そこで売られる「限定スイーツのマカロン」は、ブリッツにとってどこか特別な響きを持っていた。
(いつか、あいつと一緒に食べたいな)
そう胸の奥で呟きながら、彼はマルセ商会へと向かった。フィオレアから北へ。あの港町から遠く離れた帝国の中心。
そこに、かつて一度だけ救いの手を差し伸べることができなかった「誰か」がいるかもしれない。
(いやいや)
(そんな偶然あるわけ――)
頭を振って、余計な期待を振り払った。
帝都スエンジール。
王宮の外縁に位置する商区画。その中でもひときわ大きな建物が、マルセ商会本店だった。
大きなアーチ型の入口。磨き上げられた石床。壁には美しい布地や絵画。通りを行き交う人々の服装も、どこか裕福さを感じさせる。
ブリッツは、肩に掛けたカバンをぎゅっと握りしめた。
(場違いでは……)
庶民の服装をやめ、今回はアレキサンドルの意向で、きちんとした礼装を身に着けている。しかし、身にまとった服ではなく、所作に染み付いた「庶民感覚」が抜けない。
「いらっしゃいませ」
受付の女性が、丁寧に頭を下げる。
「本日は、どのようなご用件で」
「南方マルス地方、ルビリア家より参りましたブリッツ・ルビリアと申します。マルセ商会当主殿に、お取り次ぎ願いたく」
用意してきた口上を、かろうじて噛まずに言い切る。
受付の女性の目が、わずかに見開かれた。
「ルビリア……様」
「少々お待ちください」
彼女は、奥へと消えた。
待つ間、ブリッツは視線を泳がせる。ふと、カウンター越しに店員たちの会話が耳に入った。
「……そういえばさ」
「王宮でよく働く、かわいい少女がね」
「時々このマルセ商会にも、お使いで来るんだって」
「へえ、誰?」
「名前はマカロン、って言うらしいよ」
心臓が、一拍跳ねた。
(今、なんて)
さりげなく聞き耳を立てながら、ブリッツは動揺を顔に出さないよう必死に保つ。
「ほら、あの……帝都のお菓子で有名な“マカロン”と同じ名前の」
「へえ〜、いい名前だね」
別の店員が笑う。
「でも、半年に一回くらいしか来ないんだってさ。王宮の仕事が忙しいんだろうね」
(マカロン)
(王宮)
(マルセ商会に……お使いで?)
世界が、一瞬だけ狭く見えた。
(そんなの……)
(そんなの――)
「ルビリア様」
受付の声に、ブリッツはハッとして振り向いた。
「当主が、お会いになります」
「すぐに応接室へご案内いたします」
「……はい」
足は、自分の意思と無関係に少し震えていた。




