王城の日常と、届かなかった手
帝都スエンジールの朝は、相変わらず早かった。
まだ太陽が城壁の端から顔を出す前。王城の厨房では火が入り、湯気が立ちのぼり、パンの生地を叩く音が響いている。
その少し離れた使用人棟の一室で、マカロンは、姿見代わりの金属板の前に立った。
「……よし」
制服の皺を伸ばし、髪をひとつにまとめ直す。
(今日もちゃんと、役に立てますように)
胸の奥で、小さく祈ってから、部屋を出た。
マカロンの日々は、忙しくも規則正しかった。
午前は文書棟。帳簿の数字を追い、納品書と在庫表の照合をする。
「この行、おかしい」
銀のスプーンの数が、帳簿と棚とで十本合わない。先輩のイルマに確認してもらい、担当者に伝える。
「ほんとに目ざといね」
イルマは半ばあきれ、半ば感心したように笑う。
「数字がちゃんとしてるとさ、悪さしづらいんだよ。“ごまかせない”って分かるから」
(ちゃんと見ることが、誰かのためになるなら)
マカロンは、そう思いながらペンを握り直す。
午後は、食器倉庫や洗濯場の手伝い。時々、王城西棟の小会議室にお茶やお菓子を運ぶ。
その合間に、こっそりとやっていることがひとつあった。
王城の裏庭の、あまり人が来ない一角。手入れが行き届いた芝と花壇の、そのさらに端にある、小さな物置小屋の影。
そこは、マカロンの「鍛錬場」だった。
「……ふっ」
短い木剣を握り、空を斬る。基本の型を、ひとつ、ふたつ、みっつ。
王城に入ってから、マリアはこう言った。
『あなたに今、してほしいのは――生きると決めること。そして、働くと決めること』
その言葉は、確かに正しかった。けれど、マカロンの中には、別の感情も根を張り始めていた。
(守られているだけじゃ、駄目だ)
ひまわりの家の子どもたち。ビッケ、エレン、ローラ、マックス、バッジ。
西門で倒れていた彼らを見たとき。救護室で眠り続ける顔を見たとき。
(私、何もできなかった)
そして、目を覚ました彼らが、「夢の中のマカロン」のことを話してくれたとき。
『マカロンがさ、院長先生と一緒に、“起きろ〜〜〜”って言ってたんだ』
笑いながらそう言われても、胸の奥はちくりと痛む。
(あれは、きっと……たまたま)
(あのときだって、ほとんど何も分からないまま叫んだだけ)
力なんてない。誰かを守れるほどの。世界を動かすような大きな力の話は、マリアやブランディア、十二星たちの領分だ。
でも――
(せめて、自分の目の前の誰かくらい)
(守れるようになりたい)
木剣を振るたびに、掌の皮がすり減っていく。夜、寝る前にその掌を見て、ひそかに安堵する。
(まだ、諦めてない印)
一方で、魔法の練習も少しずつ始めていた。
夜。使用人棟の自室で、こっそり蝋燭の火をつける。
「……灯」
掌の上に、小さな光が灯る。マリアから渡された、初歩の魔導式を何度もなぞりながら、少しずつ自分のものにしていく。
光の大きさは、まだ蝋燭一本分にも満たない。でも、その小さな灯りを見つめながら、マカロンは思う。
(あの日、“太陽と月”が私を見つけてくれたみたいに)
(いつか私も、誰かの暗闇を照らせたら)
マカロンの日常は、そんな小さな決意と、地道な鍛錬と、山積みの洗濯物と帳簿の数字でできていた。




