名もなき使用人と、小さな成長
帝都スエンジールの朝は、早い。
まだ太陽が城壁の端から顔を出す前。王城の厨房では火が入り、湯気が立ちのぼり、パンの生地を叩く音が響いていた。
その少し離れた使用人棟の一室で、ひとりの少女が姿見代わりの金属板の前に立つ。
「……よし」
制服の皺を伸ばし、髪をひとつにまとめ直す。
名簿には「マカロン」とだけ書かれた名。王城全体で見れば、無数にいる使用人のひとりに過ぎない。
(今日もちゃんと、役に立てますように)
胸の奥で、そっと祈りを落とし、マカロンは廊下へ出た。
「マカロン、この帳簿、昨日の分まで付けておいて」
文書棟の片隅で、先輩使用人のイルマが帳簿の束を置く。
「納品明細はこっち。在庫表はそっち。数字は“合っていて当たり前”だからね?」
「はい」
ひまわりの家で、アンナ院長の帳簿をつけた日々。路地裏で、日雇いの賃金をごまかされないよう何度も数え直した時間。
その積み重ねが、ここで形を変えて生きる。
マカロンは、ペンを取り、ページをめくりながら数字を追っていく。
「……この行、おかしい」
銀のスプーン:帳簿上は百二十本。棚を数え直すと、実際には百十本しかない。
「イルマさん」
「なに?」
「ここの数、もう一度見てもらえますか」
イルマが覗き込み、棚をざっと確認する。
「……ほんとだ。十本足りない」
「計算間違い、ですかね」
「間違いかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
イルマは、意味ありげに肩をすくめた。
「そういうのを見つけられるのは、立派な才能だよ。数字を見る目って、地味だけど一番怖いから」
「怖い、ですか?」
「ごまかしたい人にとってはね」
冗談めかして笑いながらも、その目は真面目だった。
「ちゃんと見てくれる人がひとりいるだけで、“悪いこと”はすごくやりづらくなるんだよ」
マカロンは、その言葉を胸の中で繰り返した。
(ちゃんと見ることが、誰かの役に立つなら)
「……がんばります」
小さく呟いて、ペンを握り直した。
王城西棟。白虎軍の執務区画へ続く廊下は、いつも静かだった。
「ここはね、あんまりうろうろすると、秒で見つかるから」
文書を届ける道すがら、イルマが小声で言う。
「ケイン様、効率の悪い動きが嫌いなの。“用事もないのに立ち止まってる人”は、すぐ気づくよ」
「そうなんですか……」
(そんなに、よく見ているんだ)
なんとなく、ひまわりの家のアンナや、マリアを思い出す。
その日、マカロンは白虎軍宛の回覧文書を抱えて、西棟の廊下を急いでいた。
角を曲がったところで、人影とぶつかりそうになる。
「きゃっ」
「おっと」
誰かの手が、咄嗟に書類の束を支えた。ばさり、と数枚が浮きかけて、ぎりぎりで収まる。
「ご、ごめんなさい!」
「こちらこそ」
落ちた紙がないか確認してから、青年は手を離した。
柔らかな金茶色の髪。端正な顔立ち。白い軍服。
胸元には、何のワッペンも見えない。だが、立ち居振る舞いが「ただの兵士」でないことを物語っていた。
「その束、白虎軍宛の回覧文書だね」
視線が、マカロンの腕の書類に向かう。
「あの……はい」
「重いし、面倒な仕事だけど」
青年は、少しだけ笑った。
「間違えたら、謝ればいい」
「え?」
「間違えたくて間違える人なんて、そうそういないから」
マカロンは瞬きをする。
「大事なのは、“間違いをごまかさないこと”だよ」
青年は、肩を軽く竦めた。
「それができる人間なら、いくらでも伸びる」
ひまわりの家で、アンナがよく言っていた言葉に、どこか似ていた。
「……はい」
マカロンが思わず頷くと、青年は満足げに微笑む。
「気をつけてね」
そう言い残し、廊下の向こうへ歩き去っていった。
(今の人……どこかで)
胸の奥で、小さな既視感が泡立ったが、すぐに仕事に追われて意識の外に押し流された。




