絶・深淵忘却(アビス・オブリヴィオン)という選択
ストロベルンの長老たちは、代々ひとつの魔法を研究してきた。
「絶・深淵忘却《ぜつ・しんえんぼうきゃく》」
記憶という形をとった「物語の線」を、世界の深淵に封じる魔法。
対象の記憶だけを消すのではない。そこに紐づく“運命の筋”そのものを、深い闇の底へ沈め、外から覗き見られないようにする。
長老の一人が、静かに説明した。
「やろうとしていることは、こうじゃ。
――マカロンの記憶を封印する。
――マカロンに関する、お前たちの記憶も封じる。
――その際に生じる“運命の光”を、周囲が感知せぬよう、村全体を巻き込んで隠蔽する」
アネッサは、瞼を閉じて言葉を飲み込んだ。
「それはつまり……」
「あなたと私が、この子を“覚えていられなくなる”ってことよね」
「……ああ」
センイチロウも、目を逸らさなかった。
「親としては、最低だ。でも、“世界の担い手の親”としては、最善だと思う」
どこか自嘲を含んだ笑み。
「この子を、どこか安全な場所に預ける。俺たちは、“普通の人間”として世界に散って、なんとなく人助けしながら生きていく」
「記憶があろうとなかろうと、俺たちの“癖”は変わらないからさ。気付けば困ってるやつ助けて、妙なトラブルに首突っ込んでるはず」
アネッサは、そんな夫をじっと見つめたのち、ふっと笑う。
「……そうね。あなたは、どうせ放っておけない顔してるもの」
「アネッサ」
「なに」
「最悪のときのために、ひとつだけ“保険”を組んである」
センイチロウは声を潜めた。
「もし、この世界が滅亡に向かっても、どんな状況に陥っても、君以外の神々が消え失せたとしても、一度だけ、“やり直せる仕組み”を、何処かに忍ばせておいた」
アネッサは目を細める。
「そんなこと、できるの?何処かって?」
「一番綺麗なアネッサの源は、俺の想像も知識も計算も超えていた。どうしてそうなるかは分からないんだけど、どういう結果をもたらすかだけは分かった。たぶん。……たぶん、ね」
センイチロウは肩をすくめた。
「いつ、どんなタイミングで動くかも俺にも分からない。でも、“全部終わったあと”に、誰かがもう一度、いや世界そのものが立ち上がれるようにだけはしたつもりだ」
「それって何なの?名前は?」
「……まだ内緒。言葉にすると、誰かに引っ掛けられる気がするから」
アネッサは、小さく息を吐いた。
「ほんと、あなたって……面倒くさいくらい優しいわね」
「変態は?」
「それは別枠よ」
短い笑いが、重い話の中に小さな隙間を作った。
そして儀式の日が来る。
ストロベルンの古い祈祷場。円形の石床に刻まれた魔法陣が、薄く光を宿している。
その中心で、小さなマカロンが眠っていた。
周囲には、長老たちと、アネッサ、センイチロウ。
アネッサ以外の神々は、この場にいない。それぞれの場所で世界の均衡を保っていて、この「一組の親子の別れ」を、誰一人として知らない。
そしてこの時点では、まだ「封神十二星」と呼ばれる神々よりもさらに上位の十二の存在も、この世にはいない。それが顕現するのは、今まさに発動しようとしている絶・深淵忘却のあとになる。
センイチロウは、マカロンの小さな額に唇を寄せた。
「……ごめんな」
かすれた声。
「父ちゃん、ちょっと抜けてるからさ。きっと、お前のこと忘れたあとも、わけわかんない発明して、どこかで誰かに迷惑かけてると思う」
「でも、それでも、世界は好きだ。だから、お前には“世界を嫌いにならない子”でいてほしい」
アネッサはマカロンの頬にそっと手を添え、囁く。
「どこかでまた会うかもしれない。そのとき、私があなたを覚えてなくても……」
「そのときの私が、あなたを好きになれますように」
長老たちが詠唱を始めた。低く、深く、世界の底へ沈んでいくような言葉。魔法陣の紋様が淡く光り、その光に応えるように、マカロンの胸の紋章が金色に輝き出す。
「絶・深淵忘却――」
最後の節が響いた瞬間、光が弾けた。
マカロンの胸から立ち上がる金色の光が、アネッサとセンイチロウの額に触れる。
記憶が、切り離されていく――はずの、その時。夜空いっぱいに、「世界の地図」のような光景が広がった。山脈、海、河。無数の光点が、星座のように線で結ばれていく。その中で、ひときわ強く輝いた場所があった。アル・スエンジール帝国。その南端、海に面した港町――フィオレア。
「……あれは」
長老たちが息を呑む間に、光の地図はすっと消え去る。
同時に、祈祷場の奥に安置されていた古い木箱から、ぱきん、と乾いた音がした。
代々「決して開けるな」と言い伝えられてきた古文書の封印が、ひとりでに外れていた。おそるおそる開いたその紙には、たった一言だけが記されていた。
――「ひまわり」。
「ひまわり……?」
フィオレア。ひまわり。
ストロベルンの誰も、帝国の事情に詳しいわけではない。だが、「世界の担い手」を見送ったばかりの長老たちは、直感した。
(あの港町のどこかに、この子を預ける“縁の場所”がある)
それは、天啓と呼んでもよかった。




