世界の端の村ストロベルン
アネッサとセンイチロウが正式に夫婦となってから、そう長くない月日が流れた。
二人は、世界の中心から遠く離れた小国――ガーデア王国へと身を移していた。
アル・スエンジール帝国の東に細長く連なるこの王国は、東西2300km、南北270kmほど。東西に細長い山脈沿いの農業国の、小さな国だ。そのガーデア王国の最東端。山々と大渓谷に阻まれ、人の往来がほとんどない土地に、ひっそりと一つの村がある。
村の名は、ストロベルン。
アル・スエンジールの帝都スエンジールからは、3000kmも離れている。帝国にとっては、地図の端のさらに向こう側――ほとんど「世界の外縁」と言っていい場所だった。
細い山道を抜け、深い森の向こうに広がる小さな集落。外の世界との交易は少なく、旅人も滅多に来ない。
けれど、村人たちは穏やかで、よく笑い、よく働き、よく食べる。ここは、世界の表ではほとんど知られていない場所だが――世界の裏側では、ひそかに「特別な村」として語られていた。
理由は、ひとつ。
――数百年に一度、この村に「世界の担い手」が生まれる。
それが、ストロベルンの古い言い伝えだった。
世界の筋書きが乱れ、均衡が揺らぎかけたとき。どれほど都合よく並べ替えられた物語の中でさえ、「それでも自分で選び直す」存在が、ここに生まれるのだと。
その子は、胸か額に、万年筆のような紋章を持つという。
村の長老たちは、その言い伝えを、ただの伝説としてではなく、“いつか必ず起こる事象”として、長年準備してきた。
そして――
アネッサとセンイチロウの間に、一人の女の子が生まれた。
名は、マカロン。
少しだけ赤みを帯びた黒髪。アネッサ譲りの瞳の色。センイチロウ譲りの、妙に落ち着いた泣き声。生まれてすぐ、村の長老たちは息を呑んだ。
「……あった」
マカロンの胸の中央。細いペン先が、星空をなぞるような線で形作られた紋章が、淡い金色の輝きを帯びていた。
「伝承の紋だ……」「本当に、“来た”のか」
アネッサは、汗にまみれたまま笑う。
「ほら、ちゃんと世界に“こんにちは”って挨拶したわね」
センイチロウは、目元を赤くしながら娘を抱き上げた。
「はぁ……かわいい……。かわいい指数は79を超えているぅ。この子が将来、“世界の担い手”なんて呼ばれるなんて、信じられない」
「変態コメントは一旦置いときなさい」
「変態はデフォルトだからオフにならない」
「誇るな」
そうして、短くも濃い「ただの親子の時間」が始まった。センイチロウは、自分がアル・スエンジール帝国の王家の血を引くことも知っていた。だが今は、“仮の女神の夫”であり、“一人の父親”であることの方が、何より大事だった。
マカロンが生まれてから、一年も経たないうちに。
村の周囲で起きる小さな異変が、少しずつ増えていった。
・村の外で、不自然な魔物の発生。
・この地方ではあり得ない、急激な天候の乱れ。
・「偶然」にしては出来すぎた、不幸な事故の連鎖。
村の結界がなければ、とうに何かが入り込んでいてもおかしくない。
アネッサは、村の外の空気を嗅ぎ、低く呟いた。
「……誰かが、この子を“探している”」
センイチロウも、魔導器に映した世界のデータを見つめていた。
「完全に場所を掴んでるわけじゃない。でも、“匂い”を辿るみたいに、じわじわ近づいてきてる感じ」
「あなたが最初に言っていた、“世界の筋書きがおかしい”って話と……」
「たぶん、繋がってる」
センイチロウの表情から、いつもの軽口が消えていた。
「この子のことを、“都合よく扱いたい誰か”がいる。“世界の担い手”って役割を、便利な駒か何かだと思ってるヤツが」
「そいつは、何者なの」
「全部は見えない」
センイチロウは目を伏せる。
「ただ――少なくとも、“この世界の内側の存在”じゃない。神々の誰かでもないし、人間でも魔族でもない。それよりもっと、“外”から手を突っ込んできてる感じ」
アネッサは、ぞくりと背筋を撫でる寒気を覚えた。神界の女神として長く世界を見てきた彼女にも、その“気配”は掴めない。ただ、「何かが擦り合わせている」感覚だけがあった。
「このままだと、マカロンは……?」
「見つかって、“筋書きに組み込まれる”」
センイチロウは言い切る。
「本来なら、自分で選び直すための“担い手”なのに。逆に、世界を決めつける側の都合で、使われる」
アネッサは、腕の中のマカロンをぎゅっと抱き寄せた。まだ、言葉も満足に話せない、小さな命。
「……そんなの、絶対に許さない」
センイチロウは頷く。
「だから、“隠さないといけない”」
「ただ隠すんじゃ足りない。“嗅ぎつけられない場所”まで、マカロンの運命ごと沈める必要がある」
センイチロウは葛藤していた。こうなることも仕組まれていたのか。この子の為には親子の時間も許されないのか、もしかしたら親子であることも許されないのか・・・
どんなに考えても、どんな計算をしても、たどり着く結果は収束している。
「この子を守る為ならば、どんなにつらくても受け入れる」
「そうね。私たちの娘だもん。信じましょう。」
アネッサも母となり、女神といえど娘がかわいいのは当然である。しかしセンイチロウの決意が鈍らないように必死に涙をこらえていた。




