ジャズバーにて
駅前にあるジャズバーはジャズ通にとってはちょっとした社交場として有名だった。
歴史もあるし週に何度かの生演奏もする。
今日は、その生演奏日だった。
「……で、そろそろ説明しろよ」
悠樹は男4人に囲まれて、縮こまった。源一たちにしてみれば、別に怒っているわけではなかったが、場を壊されてそのまま流すというわけにもいかなかったのだ。
「あの3人はボクの中学までの同級生。おっきい子は男衾姫子ちゃん」
「おとこぶすま?」
「うん、長いし呼びにくいでしょ? だからみんな姫ちゃんって呼んでるんだ。姫ちゃんは地方銀行の頭取の娘さんなんだよ」
「……あれで姫は詐欺だっちゃ」
「銀行の娘か。偏見だけどなんとなく独善的な感じが鬼それっぽいな」
「それで、細い子が三倉茂美ちゃん。シゲちゃんは周りへの気配りができるすごくいい子なんだよ」
「ああ、あの子は他の2人と違って少し引いた位置にいた気がしたな」
「あの子の家はパーティープランナーってのをやっているんだ。結婚式から政治家の資金集めまで企画立案して実行するの。社員は10人ほどなんだけど年商は30億を超えてるすごいとこなんだよ。その家のキョーイクなんだろうね、全体を見渡して状況を把握する能力はボクたちの中でも1番だったよ。参謀役ってところかな」
「それで、あの美人は?」
「ああ、確かに気は強そうだったけどあの中心に立っていた娘は美人だった、いってえ!」
男4人はうんうんと頷きあう。悠樹は、口先を尖らせて源一のすねを蹴った。
「あの子は皇へきる。ボクの1番の親友だった子だよ」
「それじゃあ彼女のメルアドを教えるっちゃ」
「モテナイズ! 節操がないんだよ君たちは! 言っておくけど、彼女はITSのシャチョー令嬢だからね!」
源一たちの間からほうとため息が漏れた。
ITSは、ITバブル期に台頭した、いわば成金だ。
1代でこの会社を興した社長、へきるの父は、日本のビル・ゲイツとまで言われる人物で、今やITSはインターネット通信に限らず、様々な分野で活躍する日本を代表する企業の1つになっている。
源一たちにしてみれば、表には出ずに土地や株などで莫大な影響力を持つ悠樹の朝比奈家より、大企業のITSのほうがわかりやすい金持ちだった。
「それで、そんな親友になんでおまえは怯えていたんだ?」
「あ、うん……。ゲンたちもわかったと思うけど、彼女、すごく強引なんだ。今日みたいにいきなりボクたちの前に現れて一方的に自分の用件を伝えようとしたり」
「ああ、なるほど……」
「でも、向こうはおまえと話したいだけって言ってたっちゃよ」
悠樹はイスに深く腰掛け、ゆっくり首を横に振った。
「そんなわけないよお。ボク、風見鶏学園に進学してから公務とかにも顔を出さなくなったから、直接来たんだ」
「公務って?」
「あ~、イエノヨウジ? 法事みたいなもの」
悠樹やへきるが属する上流階級には社交界というものがある。
誰某の慶事のパーティー、あるいは何其の葬式、ほぼ毎日その手のイベントは行われている。
会ったこともない人の葬式を家の代表として出席しなければならず、そのことを悠樹たちは「公務」と呼んでいるのだ。
「あ~、ヤダヤダ。またすっごい無理言ってくるんだよ」
「すごい無理ってなんだよ」
悠樹は、ちらと源一の顔を覗き込み、ぼそりと言った。
「……飯床女子に戻って来いとか」
「それは、鬼無理だろう」
「無理じゃないんだよお! 彼女にとっては!」
「ユウは飯床女子に戻りたくないっちゃか? 言いたかないけど、俺たち、風見鶏学園よりははるかにマシだと思うっちゃよ。ていうより、うちより悪いところなんてそうはないっちゃよ」
「ぜえったいに嫌! あそこって、ベレー帽を被る角度まで決まってるんだよ! おまけに、シュクジョノミダシナミとか言って化粧を強要されるしさ! あんなところで女装させられるぐらいだったら風見鶏学園でコーチョーの嫌がらせに耐えているほうがいい!」
こう言うときの悠樹は、自分が女の子であることを完全に忘れてしまっている。また、それに突っ込みを入れないのは源一たちが悠樹を女の子扱いしていないからだ。
「とにかく、向こうがおまえのことに気を使ってくれているのは、わざわざ出向いてくるくらいだから確かなんだろ? 一度話してみろよ」
「ゲーン~、君はどうして他人事なんだよお!」
「いや、完璧他人事だろう」
「他人事じゃないっちゃ。今日みたいに場を荒らされたらたまらないっちゃ! 俺は正直すぅい~つを食べたりないっちゅわ!」
「場を退席しなくちゃならなくなったのは、どっちかっていうとユウよりおまえのチーズケーキのせいだろ?」
「ふん! あれでもやり足りないくらいっちゃ。ブスには人権はいらないっちゃ」
「おまえ、最低だな」
「人のことを言えるツラかよ」
悠樹は源一のジャージの袖を引っ張った。源一がそれに気付くと、悠樹は上目遣いで源一に言った。
「ねえゲン。いっしょについて来てくれる?」
「え、やだよ」
「え~、なんでだよお、ひとりじゃこわいよお~」
「え~い、寄るな甘えるな! なんで俺が行かなくちゃならないんだよ!」
抱きついてくる悠樹の柔らかいほっぺたを源一は平手で押し返す。薄暗い店内、ムードあるジャズバーの雰囲気はぶち壊しだった。
「なんだ、ここのテーブルは賑やかだね」
その声に源一たちの騒ぎはぴたりと止った。声の主は、黒いナイトドレスを着た長身の女性だった。
「省吾、源一。今日はわざわざ来てくれてありがとう」
「ああ、姐さん。せっかくのお呼ばれだからね。悪いけど大人数で押しかけさせてもらったよ」
省吾と源一は姐さんと呼ばれた女性と顔見知りらしく、高志と賢治は照れたように下を向いている。
悠樹は、姫ちゃんに対した態度とは大違いだと思った。
「ねえ、ゲン。どちらさま?」
「この間、省吾に誘われてツーリングに行ってきたんだけど、そのとき知り合った人」
悠樹は姐さんを見上げた。落ち着いた、大人の女性だった。姐さんは悠樹の視線に気付くと、穏やかな微笑を向けた。
「あなたがユウちゃんね。源一の彼女の……」
悠樹はこの姐さんを好きになることに決めた。決めたからには挨拶だ。悠樹はキャスケット帽を脱ぐと勢いよく立ち上がった。
「いつもゲンがお世話になってマッス!」
「まあね。いつもお世話してます」
「いつもって、会うのは今日で2回目だろ? それに、ユウは俺の彼女じゃないよ」
「まったく……、省吾の言うとおり、源一は罪作りだね」
「なんだよそれ。って、なんでおまえらまで頷いてるんだよ!」
姐さんは源一たちのテーブルに着き、談笑を始めた。気さくで話しやすい姐さんに高志と賢治もすぐに打ち解け、テーブルは一段と盛り上がった。
「そういえば省吾、バイクは動くようになったかい?」
「ああ、なんとかね」
「バイクって?」
「50CCのやつ。男子寮の駐輪場に置いてあるだろ? 姐さんからもらったものなんだ。少し壊れてたんだけど直して使えるようにしたんだよ」
「あのバイク、省吾のだったっちゃか。省吾は免許持っていたっちゃね」
「ああ。俺は5月生まれだから、先月取った」
しばらく話した後、姐さんはバーテンに呼ばれてステージに上がった。
「おもしろいひとだね~」
「今度どこか行くときはユウも誘うよ」
「え、ほんとう?」
頷く省吾に悠樹は喜んだが、一瞬後には複雑な顔を作った。みんなでどこかに遊びに行くのはいいのだが、その分、源一と2人で過ごす時間が減ることに気付いたのだ。
ステージにいる姐さんを見ると、姐さんは、グランドピアノの前で小さく手を振ってくれた。
鍵盤の上を旋律が走り抜ける。演奏が始まった。
最初はジャズに疎い源一たちでも知っているメジャーな曲、それからオリジナル曲も含めた数曲を演奏した。ロックのような喧騒ともクラシックのような格式とも違うジャズ独特の雰囲気を、源一たちは曲と共に堪能した。
それはラストの曲に入る前の簡単なギグの最中に起こった。
「やめろやめろ! そんな下手な演奏じゃおひねりはだせねえぞ!」
底意地の悪いダミ声は、カウンターに座っている3人ほどの集団から発せられた。
姐さんはギグを中断して、軽いため息を吐いた。
路上で演奏しているわけではないにしても酒場で演奏している以上、この手の客はこれが初めてではない。
だが、周りの客と同様不愉快にはなるし、場の空気が壊れてしまったのも事実だった。
「やれやれだ。おまえらはけっこうなトラブルメーカーだよな」
省吾は困ったように顔を歪めて源一に言った。省吾にとってトラブルとは面倒ごとではなく、歓迎されるべきちょっとした吉事だった。
「俺たちのせいでもないだろ」
「だといいけど。それで、ゲン。どう見る?」
「目が濁ってないし足元もしっかりしてる。あんまり酔ってないな」
「同感。それに拳ダコがあるな。あれは、空手かな?」
源一は、口汚く罵っている客の手を見たが、拳ダコは確認できなかった。源一は、メガネをかけているだけあり、視力はよくないのだ。
「それじゃあちょっと行ってくる」
「手伝ってやろうか? もちろん貸しだけど」
「冗談、せっかくのご馳走だ。ひとりで頂くよ」
「……戦闘狂が」
省吾は片頬を吊り上げると席を立った。そのまままっすぐカウンターの3人組に歩み寄る。
3人の男も省吾に気付き、罵りを止めた。
省吾はそのまま歩き続ける。
なにを言うでもなく、ただ向かってくる省吾に3人は困惑した。
眼前の距離、省吾はカウンターに置いてあるブランデーグラスを滑るように掴むと、そのままの勢いでカウンターに座る3人のひとりに叩きつけた。
完全な奇襲だった。
名乗るでも静止するでもない、いきなり剥かれた牙に3人は完全に虚を突かれてしまった。
いくら日頃から武道にまい進していようとも、野試合(喧嘩)には3人は耐性がなかった。
喧嘩ならば、それは省吾の独壇場だった。
省吾はブランデーグラスを叩きつけられて気を失ったひとりを突き飛ばした。
慌てて立ち上がろうとしたひとりは仲間を抱える格好となり、よろけた。
すかさず省吾は殴りつける。
それをかわせたのは修練の賜物だろう。だが、それまでだった。省吾の2撃目は蹴りだった。上から叩き込まれるように繰り出された省吾のつま先は、受けた腕ごと肩口に突き刺さり、床に伏した男はそのまま起き上がらなくなった。
これで、2人が戦闘不能になった。
残されたひとりは動転した。
もしも体勢を立て直して省吾に向かい合ったのならば、あるいは日頃から鍛えていることもあり、勝てないまでもいい勝負ができたかもしれない。
だが、目の前で仲間2人が瞬殺された男は完全に省吾に呑まれてしまっている。
そんな男の取った行動は、幸か不幸か、省吾の予測の範囲外だった。
男は仲間を置いて逃げ出したのだ。
喧嘩の様子を静観していた観客を押しのけながら出口に向かう。その途上に悠樹がいたのは、省吾に言わせれば「トラブルメイカー」の素養を持っている悠樹の特性のためだろう。
まるっきり他人事を決め込んでいた悠樹は、向かってくる男と目が合い固まった。
まっすぐ向かってくる男の顔に、悠樹の後ろにいた賢治は悠樹のかぶっているキャスケット帽を投げつけた。
男は速度を落とさずに手でキャスケット帽を払いのける。
一瞬だけ塞がれた視界、その足元に高志はイスを蹴りつけた。
イスにもつれてよろける男の前に源一が立つ。
「省吾のマヌケが。へまして打ち漏らしてんじゃねえよ」
「どけえ!」
男は濁声を店内に響かせて源一に殴りかかった。
源一の背は低い。ゆえに打ち勝てると思ったのだろう。だがそれは、大きな間違いだった。
男は腕を振り下ろした。
一瞬の交差、次の瞬間には男は吹き飛んでいた。
源一の体当たりをまともに受けて、数台のテーブルを倒して床に転がった男は、完全に気を失っていた。
源一は軽く息を整えると、ゆっくりイスに座った。
「ゲン、大丈夫? だいじょうぶ?」
心配そうに体中を触ってくる悠樹の頬っぺたを、源一はつかんで左右に広げた。やわらかい悠樹の頬っぺたは、子猫のようににゅっと伸びた。
「……にゃにしゅるんだよお」
「ばかユウ。おまえはうーちゃかなんだからああいうときはまっさきに逃げろっていつも言ってんだろ!」
悠樹は首をぶんぶん横に降り、源一の手を払った。そこに省吾が来た。
「わ~りいな。一匹逃がしちまった」
「貸しだからな」
「ああ、借りとくよ。ちょっとこいつら捨ててくるから店で待っていてくれ」
省吾は軽く手を振ると、転がっている男3人を引きずって店から出て行った。入れ替わるように姐さんが源一たちの前にくる。
「ごめんね、源一。なんか面倒なことに巻き込んで」
「気にしてないよ。省吾と付き合っていると嫌でもこういうことには巻き込まれるからね」
姐さんは、柔らかい笑みを漏らした。
「省吾とは逆のことを言ってるね。あいつは、源一たちと付き合っていると厄介事に巻き込まれるって言ってたよ」
「……あいつは、自分のことが客観的に見れてないんだよ」
姐さんは豪快に笑った。それで、殺伐とした店内に穏やかさが戻った。
「ま、ケチが付いたけどゆっくりしていってよ」
「あれ? もう演奏しないの?」
そう言ったのは悠樹だ。
「さすがに、ね。もう演奏を聞くって雰囲気でもないだろ?」
「そんなことないよ。だって、ボク聞きたいもん」
悠樹に続いて高志と賢治も演奏の再演を要求する。それは店内に広がって、ちょっとしたアンコールが始まった。
「あんたたち、いい子だね」
姐さんは悠樹の頭に、落ちていたキャスケット帽を乗せると、ステージに向かって優雅に歩いていった。
「どうやら、失敗したみたいね」
ほうほうの態で裏路地まで逃げてきた3人を、女と男が出迎えた。
女、皇へきるは男たちに侮蔑した視線を向ける。男たちは、燕尾服の男、杉内泰造に言い訳をした。
「す、すいません師範。でも、あんなやつがいるなんて聞いてなかったから……」
泰造は、軽いため息を吐いた。
泰造は空手道場で師範を務める実力者だった。3人は、泰造の道場に通う、いわば門下生だった。
「いけませんねえ。相手が誰であってもあのような醜態をさらしては」
男たちは頭を垂れる。これ以上言い訳のしようもなかった。男たちは、任務に失敗したのだ。
男たちが任された任務は、店内で暴れる。ただそれだけだった。
もしそれを放置するようなら気概のない男として、悠樹は今交友を持っている男たちを見放すだろう。よしんば止めに入ったとしても、こちらは武道経験者。惨めに返り討ちに合わせて情けない姿をさらすのも悠樹の目を覚まさせるいいきっかけになる。
へきるはそう思っていた。
だが、結果は最悪のものだった。こちらが返り討ちにあってしまったのだ。
へきるはベージュのベレー帽を人差し指にひっかけて回し、言った。
「ま、いいわ。この程度で底が割れる連中じゃなかったのはむしろ幸運だったと思いましょう。ユウが数ヶ月もの間、つまらない男どもに騙されていたなんて、あの娘の名誉のためにも望ましいことではないもの……」
男たちは安堵のため息を吐いた。自分たちの絶対者は、師範である泰造より、この、完全無欠のお嬢様であることを知っているのだ。
「あ、そうそう、あなた」
へきるは、ふと気付いたように、男のひとりに話しかけた。仲間を残して逃げようとした男だ。
へきるは、指先からベレー帽を弾いた。
回転しながら男の胸元に飛んでいくベレー帽。
それを受け止めようと両手を伸ばしたとき、男の意識は消えた。
ふわりと舞ったスカートは、ゆっくりと裾を元に戻した。他の男にはなにが起こったのかわからなかった、いや、見えなかった。
へきるがくるりと回った一瞬後、仲間の男がゆっくりと倒れた、男たちにわかったのはそれだけだった。
「お見事です」
恭しく頭を下げる泰造に、へきるはつま先で蹴り上げたベレー帽を乱暴に押し付けた。
「泰造、この男、破門にしなさい。意図はなかろうともユウを脅かした男を飼ってはおけないわ」
「かしこまりました」
へきるはそれだけ言うと、もう用は済んだとばかりに路地裏を抜けた。
へきるの言う破門は、ただ単に道場の出入り禁止を意味しているものではない。
道場に通っている人間は、今回のように突発的な依頼を受けることと引き換えに、少なからぬ拘束金や、軽犯罪程度なら不問にされるような様々な恩恵を受けている。
破門にあったものは、それらの恩恵を全て失うと同時に、巨大企業ITSとそれに関係する全ての業務から締め出されることになるのだ。
それは、日本国内では日陰の生活を余儀なくされることを意味した。
へきるは大通りに止っている大仰なリムジンの後部座席に乗り込んだ。
泰造はゆっくりと後部座席の扉を閉めた。そして、自分も乗り込むために助手席の扉を開けた。
そのとき、その視線に気付いた。
視線の主は三崎省吾だった。まるで、肉食獣が獲物を狙うように泰造を見ている。
泰造は、思わず苦笑を漏らしてしまった。舌なめずりの音が、ここまで聞こえてきそうだった。
「……狂犬三崎省吾、か。噂通りですね」
泰造は、省吾から視線を外し、リムジンに乗り込んだ。
雲は低く暗い。だが、今にも降り出しそうな雨は、結局その日は降らなかった。




