1日目 3
源一がスタート地点に戻ったときには、最初から強歩大会への参加を拒否している数人の例外を除いて新入学生全員がスタートした後だった。
図らずも最下位スタートになった源一は、気負うでもなくランニングペースで山登りを再開した。
緩やかな上り坂を10分も走った頃、道が曲がった。崖道から林道に変わり、強歩大会はその様相を一変させた。
くもの巣状の網、池の中に立てられた杭、アスレチックコースだった。コースは次第に難易度を増していき、過激さが表に出始めたころ、ぽつりぽつりと脱落者が出始める。大会が始まってまだ1時間足らずだ。少数ではあるもののすでに脱落者がいることに、源一郎はこの強歩大会の過酷さを嫌が応にも思い知らされていた。
そして、源一にとっての最初の難関が立ちはだかった。
坂だ。いや、坂と呼ぶには急すぎる。傾斜角は80度を超える3メートルの壁がそびえ立っていた。
「……これ、越えろってのか?」
手を伸ばしてみる。当然壁の上部には届かない。軽く飛び上がってみるがやはり結果は変わらなかった。さてどうしようかと考えていると、森の中から誰かが出てきた。
小柄な美少年だった。色素が薄い淡い色の髪を後ろで結び、白い頬を泥で汚している。綺麗に整った顔立ちは、あるいは精巧なドールに例えられるかもしれない。だが、不敵さを称えるその表情が少年がドールではあり得ない活力を生み出していた。
サイズの大きい学生服の袖を引っ張り細い手首を露出させると、美少年は源一の存在に気付いて意地の悪い笑みを浮かべて源一を見上げた。
「なんだ、まだ後ろにいたんだ。ずいぶんゆっくりしているようだね」
「ああ、スタートに遅れてね。どうやら俺たちが最後尾らしい」
「運のいいヤツだな。前を行った連中の多くは理不尽なトラップに引っかかってリタイアしているようだから」
「理不尽なトラップって?」
美少年が顎で指し示した先は壁の横だ。源一はその場所を覗いた。
そこは、地獄絵図だった。倒れている人、人、人。足首に縄がかかり逆さまに吊るされている人、警察の強襲班が使う対犯罪者捕獲用のネットで木の幹にくくりつけられている人。穴の底からは「だしてくれ~!」と悲鳴が途切れることなく聞こえてくる。
「……うわあ」
「壁越えを避けて横道に逸れた連中は知らずにトラップの中に侵入することになっているようだね。面倒なことだけど、指定された道を進むのが一番楽で安全みたいだ」
源一は美少年を見た。顔も身体も、小さかった。160に達しない源一が見下ろすほど美少年の背は低い。
「それで、どうやってこの壁を越えるんだ?」
美少年は、ふふんと鼻を鳴らして手に持っているものを源一に見せた。それは、植物のツタで作ったロープだった。先には枝をくくりつけている。
「人類は知恵によって発展してきたんだ。肉体派ってのは野蛮だね」
美少年は頭上で縄を回すと、一気に壁に投げつけた。縄は壁の上部にひっかかり、美少年は壁に足をかけた。
「じゃあねビリッけつ。先に行かせてもらうよ。ああ、別にボクの真似をしてもいいよ。模倣というのは愚民にとっては優れた技術だからね。君みたいなグドンなお猿さんにはお似合いだよ。あっははは!」
「……」
美少年はよちよちと壁を登っていく。半分ほど登ったところで、源一は、美少年の腰を掴んで引き摺り下ろした。
「んぎゃあ!」
尻から地面に落ちた美少年は、涙目で源一を睨みつけた。
「なにするんだ!」
「いや、つい……」
「ああ、縄が切れてる!」
がっくりとうな垂れる美少年。
源一は軽く屈伸すると美少年と壁から離れた。
深呼吸。大きく吸い込み、ゆっくりと吐く。それを数回繰り返し、源一は叫んだ。
「よっし!」
足に力を入れ、地を蹴る。目前には3メートルの壁。蹴りあがり、三角飛びの要領で一気に壁の上部に手を伸ばす。
「せや!」
「うお!」
あと数センチ、壁の上部に届きかけた源一の手は、しかし、かかることはなく下に落ちていった。飛び上がるところを美少年に足首を掴まれたのだ。
源一はバランスを崩し、美少年の上に落ちた。源一は美少年の細く柔らかい身体の上に圧し掛かるように倒れた。
「せやじゃねえだろせやじゃ」
「う~、おーもーい~。早くどけえ~!」
源一は身体を起こした。源一の下で荒い息を吐いている美少年。涙はまつ毛を濡らし、大きな瞳で源一を見上げていた。
不覚にも、源一はときめいた。
美少年の整った顔立ちは女顔で、格好を整えればそのまま美少女で通るほどだった。むしろ、美少女が男装をしているといったほうが正しく思える。
「おまえ、ひょっとして女か……、ぐは!」
源一が言い終わるより早く、美少年の蹴りが源一の腹を突き上げた。美少年は立ち上がり、倒れている源一に指を突きつけた。
「いいか! ボクを女みたいだって2度と言うなよ!」
「……ああ、悪かったよ」
女顔にコンプレックスにがあるのかもしれないな、と、源一はそのときそう思った。源一はこの美少年、朝比奈悠樹が実は女の子であることは当然知らない。
源一は立ち上がり、埃を払った。そして、美少年と肩を並べて壁を見る。
「オイ、メガネ」
「メガネってなんだメガネって」
「だってボクは君の名前を知らないもん」
「俺だっておまえの名前を知らない」
美少年は源一に向き直った。
「ボクは朝比奈悠樹だ」
「……高坂源一郎」
2人は視線を交え、自然と笑みをこぼした。
「源、イチ、ろー……。ゲンいち、げん、ゲン……」
悠樹はしばらくぶつぶつと独り言を呟くと、源一に向き直って言った。
「ねえゲン、ひとつ提案があるんだけど。ドウメーを結ばないか?」
「同盟?」
「うん。どうやらこの強歩大会、一筋縄ではいかないみたいだからね」
それは源一も感じていることだった。トラップの質を見ても、命がけ、とまでは言わないまでも相当危険なものが仕込まれているのだ。
「……俺にメリットがない」
「あるよ。ひとりならこの壁を越えられないけど、2人なら楽勝だ」
源一は頭を掻いた。源一は、ひとりでも壁を越える自信があったが、もしこの「同盟」を断れば、先にしたように朝比奈悠樹は源一の行動を妨害するだろう。また、確かに2人ならそれほど苦労せずにこの壁は越えられるだろう。
悠樹を見る。悠樹はまるで断られることなどありえないというように源一を見上げていた。そのほんわかした笑顔で、源一の毒気はため息とともに抜かれていった。
「ま、いいか」
「そっか! えへへ。それじゃあゲン、よろしくね!」
悠樹は、小さな手で剣道ダコのある源一の右手を取った。




