高坂源一郎2
薄暗い体育館裏、蒸し暑い夏、逢魔が刻。
「おまえら、なにやってんだ?」
自分でも驚くほど冷静な声だった。その声と同じように高坂源一郎の心は冷え切っていた。源一の声にゆっくりと振り返ったのは、抱き合っている館野修と河井静香だった。
状況は、一瞬で理解できた。親友であるはずの修と彼女であるはずの静香の抱擁は、恋人同士のそれだった。
「よ、よう源一。今日は剣友会の道場には行かなかったのか?」
「明日は県大会だからな。練習は早めに上がって静香と過ごそうと思ったんだよ」
それを聞くと、静香はめそめそと泣き出した。それを慰めるように修は静香の肩を抱いた。
源一は頭に血が上り、2人のほうに駆け寄ろうとした。その源一の背中に抱きつく影があった。紫藤朋絵だ。
「源一、落ち着いて!」
朋絵を引きずるように2人に近づく。静香は、源一に怯えるように修の影に隠れた。源一は足を止め、修を見上げた。
「修、おまえは俺と静香が付き合ってるのは知ってるはずだよな」
「ああ。大会が終わったらちゃんと話そうと思ってたんだよ」
源一は修の胸倉を掴み、強引に引き寄せた。修はバランスを崩し、源一の足元に転がった。
「俺にとってもおまえにとっても、今がどれだけ重要なときかはわかってるはずだろうが! それが色ボケかよ! それも俺の彼女とか?」
「……おまえと一緒にするなよ」
修は薄ら笑いを浮かべて源一の手を払った。
「全国優勝なんて言ってるのはおまえだけだぜ。みんな言ってるよ。ひとりで勝手に熱血してるってな」
源一は修の胸倉を掴み、無理やり立たせた。修は抵抗しない。暴力では源一に敵わないことを知っているのだ。
「剣道なんかやっててもなんにもならないんだよ。柔道と違ってオリンピック種目でもないし、将来なんの役にも立たない。そんなものをなんでおまえに強制されてやらなくちゃならないんだよ!」
独創性のない陳腐な批判。源一は、修を突き放した。修は数歩よろめいて立ち止まった。
「話を変えるなよ。今はおまえが俺の目を盗んで静香に手を出したことだろ?」
「だから、おまえは自分のことしか考えてないってことだよ」
修は襟元を正し、源一を見下した。日は陰り、闇は一層濃くなり始めている。
「おまえ、静香が悩んでいたことに気付きもしなかっただろ? 静香はおまえに相手にされてないって深刻に悩んでいたんだよ」
「それは……」
全国優勝するため、そう続けようとして源一は口をつぐんだ。
「おまえは静香のことをちゃんと見てたのか? 静香の好きな花は? 好きな食べ物は? おまえは、静香に喜ばれるために少しでも努力したのかよ?」
修は、自分の優位性を誇示するように一歩源一に近づいた。
「俺は違うぞ。源一、おまえと違って剣道以外でも後輩の面倒を見るし、静香の相談にも乗る。ちゃんと静香のことを、見てやれる」
源一は言い返さない。否、言い返せない。
「剣道、剣道。おまえは剣道以外のことに少しでも気を使ってるのか? 少しでも静香のことを考えていたのかよ」
源一は、修から視線を外し、静香を見た。静香は、源一の視線に気付くと泣きながら走り逃げていった。
修は即座に静香の後を追う。
源一は、追えなかった。
しばし無言の時間が流れる。
「源一……」
背後から、朋絵の声が聞こえた。源一は今、自分がどんな顔をしているのかわからなかった。
「朋絵は知ってたのか? 修が静香と付き合っていたこと」
「あ、うん」
「いつからだ?」
朋絵は、いつもより小さく見える源一の背中を見ながら答えた。
「先月、共同稽古で他校に遠征したでしょ。そのとき駅前で解散した後、だって」
「1ヶ月もみんな黙っていたのか」
源一はメガネを外して天を仰いだ。月が出ている。多重にぼやけた月は、無言で源一を照らしていた。
源一は歩き出した。後に続こうとする朋絵。源一は、無言で朋絵を止めてひとり家路についた。
翌日、源一は県大会に出場しなかった。
小学校低学年で剣道を始めて以来、竹刀を握らなかった日は初めてだった。
カーテンを閉め切った薄暗い室内で膝を抱えてただ呆然と一点を見つめる。幸いにして学校は夏休み。誰に迷惑かけるでもなく家から一歩もでない生活を続ける。
最初は足繁く訪問してきた朋絵も次第に顔を見せなくなった。
源一は、独りになった。
締め切った蒸し暑い部屋の中で、源一は深い森のような思考の中を歩み続けた。だが、森は源一に道を示さず、進めば進むほど源一の思考の所在を不確かにしていった。なにを憤っているのか、なにを恨んでいるのか、そもそも自分がなにを考えているかすらわからなくなっていく。悪いのは、静香か修か、見て見ぬふりを通した周りの連中か、まったく気付かなかった自分自身か。それともそれ以外のなにかなのか、考えれば考えるほどわからなくなっていく。
それに気付いたのは、夏休みも終わりに近づいた頃だった。鍛え上げられた源一の身体はこの1ヶ月の病人のような生活ですっかり鈍り、源一自身も動作に重みを感じ始めた頃のことだ。
いつもの、ということすら妥当ではない呆けた生活を源一は続けていた。室内は闇、カーテンの隙間から差し込んでくる月光のみが光源だった。
メガネもかけない霞んだ視界の中、どこかで微かな笑い声が聞こえてきた。源一の心境とは正反対の明るい声。源一はいぶかしんでその声の元を探した。
それは、ラジオだった。源一自身がセットした覚えもないラジオが垂れ流されていたのだ。なにかの手違いでスイッチを入れてしまったのだろう、そう思い源一はラジオを切ろうとした、が、その手を止めた。
高坂源一郎は後に朝比奈悠樹にこう述懐することになる。
「まあ、客観的にあの頃のことを振り返ってみるとだな、単純に俺はその怠惰な生活に飽きていたんだな。DJ・Tはそのことに気付かせてくれて、その生活を抜け出すきっかけをくれたんだよ。え、だからDJ・Tを尊敬してるって? いや、尊敬はしてないな。ラジオは面白いけど」
源一はそのラジオ、『DJ・Tの深夜の秘密基地』を聞き、久しぶりに声を出して笑った。
その笑いに払拭されたように源一の思考は深く暗い森を抜け、広く視界の開けた原野に到達していた。
失恋のショックが癒えたわけでも思考の整理がついたわけでもない。だが、源一はとりあえずその開けた原野に向かって歩き出すことにしたのだった。
作者の周りでなぜか人気のある脇役、朋絵は爆乳という隠れ設定があります。




