お風呂再び 2日目終了
「シャワーを浴びているときのみ女性に戻れる」
雑誌に載っていたあるイスラエル女性兵のコメントを、朝比奈悠樹は肩まで湯に浸かりながら思い出していた。
悠樹は、今までも男として生きてきたつもりではあるが、中学までの女学校での生活と高坂源一郎たちとの強歩大会では、確かにその内容はまるで違っていた。振る舞い以上に身体能力でもその差を悠樹は感じていた。
二の腕を押してみる。柔らかい腕、日中に触れた源一の筋肉質の腕とはまるで違っていた。源一にしてもフィジカル面ではそれほど恵まれているとは言えないだろうに、悠樹とは違う、男の身体をしていた。
悠樹は自身の身体を見た。矮躯だ、と思った。白い肌、細い手足。全体的に小さい作りだ。
わずかに膨らんでいる胸に手を当てる。自分が女だということを嫌でも思い知らされた。
いつもは後ろで纏められている栗色の柔らかい髪は、肩口で湯船に広がっている。
今、悠樹は、どこから見ても女の子だった。
悠樹は一度湯船にもぐると思い切り手足を伸ばした。疲れが湯に溶けるように消えていく。
「いい湯だなあ」
「ん、そだねえ。いい湯だねえ~」
悠樹は声の主にのんきに答え、数瞬の後、我に帰った。
「んな? なななな、なななあ!」
「うるせえなあ。なに鳴いてんだよ」
「なんでゲンがいるんだよお!」
悠樹は肩のぶつかる距離で湯に浸かっている源一から慌てて離れ、タオルで胸を隠した。
「別に俺が風呂に入ったっていいだろうが」
「だってゲンはさっきはいっただろお!」
「せっかくだからもう一回入っておこうと思って。ほら、いいからさっさと湯船に浸かれ」
ユウは頭の上にもやもやを浮かべつつ湯船に浸かって身体を隠した。
「こっちに来るなよ! ぜったい来るなよ!」
「行かねえよ。小さいからコンプレックスあるんだろ?」
「ゲンだって小さいじゃないか!」
「! うるさい! 男の価値は大きいか小さいかじゃ決まらないんだよ!」
「? 背のこと、だよね?」
源一はそれを聞くと、バツが悪そうに鼻先まで湯船に沈んだ。
「?? よくわからないけど、ゲンはコンプレックスの塊だねえ」
悠樹は源一に背を向けて言った。
「おまえだってそうだろ。背が低いとか女っぽいとか」
「ゲンって目ぇ、悪いんじゃないの!」
「当たり前だろ。俺が普段メガネしているのを知っているだろ」
源一はタオルで顔を拭った。風呂の中、源一はメガネを脱衣所に置いていた。
悠樹は源一から顔を背けた。この距離、このシチュエーションですら源一は悠樹を女だと気付かない。それに多少引っかかりを感じるところが、真的な意味で性同一性障害ではない朝比奈悠樹の複雑なところ(コンプレックス)だった。
悠樹は頭の上のもやもやを振り払うと、深く考えるのを止めてゆっくりと手足を伸ばした。
横目で源一を見る。源一はしきりに右腕を揉んでいた。
「ゲン、右手、どうしたの?」
「別になんでもねえよ」
源一は悠樹に背を向けると右腕のマッサージを続けた。悠樹は身体にタオルを巻きつけると源一の背中に寄った。
「ひょっとして、腕、痛めてるの? 夕方の鉄橋?」
源一は答えない。悠樹はそれを了承と取った。源一は、悠樹を片手で支えたときに腕を痛めたのだった。
「もう、早く言ってよ。ボクのせいで痛めたんだろ、それ?」
「自惚れんな。これは単に俺の鍛え方が足りなかっただけだよ。おまえみたいなうーちゃか一匹片手で持てないようじゃ俺もヤキが回ったよなあ」
「んふふ。ボクは君のことがわかってきたよ♪」
悠樹は源一の右腕を取った。悠樹より、2回りは太い腕だった。
「俺のなにがわかるってんだよ」
「クチの悪い偽悪主義」
「……単純におまえら相手に気を使う必要を感じないだけだ」
「そっか。それはそれでいいことだけどね~」
悠樹は源一の右腕のマッサージを始めた。
朝比奈という名門の家柄、パーティーの席などで悠樹は初対面の相手と会うことが多かった。そこで必要とされるのは、形式的な礼儀作法だった。あるいは中学までの女学校時代でもそれは有効で、悠樹は儀礼的な、気を使う(・・・・)世界で生きてきた。
対して今の源一たちとの関係。とりあえずで噛み付き、味付けとばかりに傷口に塩を塗りたくるような関係は悠樹には新鮮であり、楽しく、そして嬉しかった。
「ねえ、ゲン。なんでゲンはこの高校に入学したの?」
「一番の理由は公立並みに学費が安い全寮制だから、だな。もっとも、入学前にこんなことやらされるって知っていたら考えたけど」
悠樹は源一を見つめた。源一は、目を閉じて湯船に浸かっている。
「ゲンは全寮制の学校に入りたかったんだ」
「ああ」
「地元の学校に行きたくなかったの?」
「さっきから質問ばっかだな。おまえこそなんでこんなところに来たんだよ。いいとこのお坊っちゃんなんだからもっといい学校に居たんじゃないのか?」
悠樹は源一の右腕を離すと一度湯船に潜った。
悠樹は、もっと源一のことを知りたいと思った。それと同時に、自分のことも知ってもらいたいと思った。ゲンに、高坂源一郎になら自分のことを話してもいいかな、と、そう思った。
悠樹は勢いよく水面から顔を出すと、自分の背中を源一の背中につけた。源一の背中は、とても大きかった。
そして、悠樹は、あえてストレートな言葉を選んで告白した。
「オヤジを殴っちゃった」
背中越しに源一の苦笑を感じる。
「おまえ、それは人としてやっちゃいけないことだろう」
「うっさいなあ。やっちゃったものはしかたないだろ?」
悠樹は、抗議するように源一に寄りかかる。
「それまでは、本当にゲンの言うとおり、お金持ちのお坊っちゃんらしく親の決めたレールの上を走ってきたんだ」
男を強要されてきた悠樹は、『お坊っちゃん』の部分を強調した。
「それで、オヤジを殴ったのをきっかけに、親元を離れてみようと思って。中学校までも全寮制だったんだけどね。でも、そこは親に入れさせられたところだったから」
「それで、ここか?」
「ん、まあね~」
悠樹は両手で湯をすくった。白く濁った温泉、それを肩にかける。
「……なんでオヤジさんを殴ったんだ?」
悠樹は大きく息を吸った。心音が高鳴る。父親に女に戻れと言われたこと、それを源一に伝えて、源一はどう思うだろうか? 源一は自分が女だと知って、どう思うだろうか?
「あ、あのね、ゲン。その、ボクは……わぷ!」
悠樹は湯船に沈んだ。寄りかかっていた源一が動いて支えを失ったのだ。
「なんで急に動くんだよう!」
「いや、おまえ、大丈夫か? なんか動悸が急に早くなったけど」
源一は目を細めて悠樹の顔を覗き込んできた。顔が赤くなっていくのがわかる。
お互いの顔が近づく。小刻みな息が源一の顔にかかった。
そのときだった。
「ぐ~っどいぶにんぐカスども! おまえらのリーダーがやってきたっちゃよ」
「誰がリーダーだ」
揺れる腹の篠岡賢治と、対照的にわき腹に肋骨が浮き出ている痩せた木下高志だった。
悠樹は、2人の姿を認めると、慌てて源一から離れた。
「ボ、ボク、上がる!」
「ああ。なんかのぼせてるみたいだからそうしろ。顔が異常に赤いぞ」
悠樹は、身体も洗わずに湯船に入る賢治の横を通り過ぎ、脱衣場に消えていった。源一は湯煙に霞む視界でその様子を眺めた。
「ふい~。温泉が股ズレにしみるっちゃ~」
「なんだ、おまえらも来たのか?」
「ああ。な~んか気になってな」
そう言って高志は身体に湯をかけて温泉に入った。
「それで、どうだった? ユウは男だったか?」
「ああ。男だったよ」
それを聞いていた高志が少し目を大きくする。
「おま、見たのか? ブランブランが付いていたのか?」
「いや、それはさすがに見なかったけど。この湯煙にメガネがなくちゃなあ」
「それじゃあなんで男だってわかったっちゃか?」
「俺の目が悪いっていったって輪郭くらいはわかるよ。女ってのは胸があるもんだろう? あいつの胸はヘンペイだったから」
悠樹を女だと知っている高志は複雑な笑みを浮かべ、知らない賢治は納得したように頷いた。
「そうか、あいつはただ女っぽいだけだったかあ。ふん! それならあんなうーちゃかに用はないっちゃ、げぼら!」
甲高い音が浴室に響いた。脱衣場から着替えた悠樹が賢治に風呂桶をサッカーボールのように蹴りつけたのだ。
「うっさいぶよぶよ! 君たちも早くあがれよ。明日があるんだからね!」
「おお、脂肪って水に浮くんだな」
水死体のように湯船に浮かぶ賢治。源一は感心したようにそれを眺めている。その源一に視線を向ける悠樹。ふと気付くと、高志は苦笑を浮かべて悠樹を見ていた。悠樹は、その視線に気付いて勢いよく脱衣場の扉を閉めた。




