高坂源一郎1
熱気、猿叫。試合場に緊張が走る。高坂源一郎は一足分前に進んだ。対戦者は威圧を受け、半歩ほど後退る。
不意に、源一は竹刀を中段から下段に下げた。露骨な隙、対戦者は面を打つために竹刀を上げ、足に力を入れた。
「どお!」
次の瞬間には旗があがり、自分の敗北を知らされる。対戦者は、自分が抜き胴を決められたことに遅れて気付かされた。
「高坂源一郎? なんであいつがこんなところにいるんだ!」
強豪校の主催した共同稽古。それに参加した源一の中学は、参加した他の学校を席巻していた。
同世代の剣道経験者にとって、高坂源一郎の名前は小さからぬものがあった。源一は、3年前の初等部の全国剣道大会の団体戦優勝及び最優秀選手なのだ。
「あいつ、私立の名門校にスカウトされたんじゃなかったのか?」
「いや、それよりなんで中学に入って公式戦に出てないんだ?」
ざわつく道場。源一は、それらを無視して試合場を後にして面を外した。
「おつかれさまです。源一さん」
「ありがとう、静香」
源一は、マネージャーであり彼女でもある河井静香からタオルを受け取り額の汗を拭った。
「助かったよ、源一」
「修、少し怠けすぎだぞ」
源一は親友であり、同じ剣友会で全国優勝を果たしたメンバーでもある館野修に小言を言った。今の試合も、先に4敗した後の源一の5人抜きだったのだ。
「おまえらにも言っておく。夏の公式戦まで1ヶ月を切っているんだからな。もっと気合入れないと全国を勝ち抜けないぞ!」
源一が言った全国という言葉に部員はざわつく。源一は、その態度に苛立ちを感じた。
昔はこうではなかったのだ。小学生のとき全国優勝のために励んだ日々は、今とはまるで違っていた。
「やあ、高坂くん。頑張っているようだね」
声をかけてきたのは、今回の共同稽古の主催校の顧問だった。源一は頭を下げる。
「今日は招待、ありがとうございました」
「いやいや、我々もいい刺激になったよ。今回はしてやられた形になったけどね。しかし、高坂源一郎は健在ってところかな? それにしては今まで公式戦に不参加なのは解せないんだけど。どこか故障でもしていたのかな?」
「ああ、それは……」
源一は、視線で道場の隅を指した。そこには、いかにも場違いな、文庫を呼んでいる中年女性がいた。源一の中学校の剣道部顧問だ。
「うちは年功序列ですから。出場選手は3年から選ばれるんですよ。今までは先輩に譲っていたんですけど、やっと自分の番になったってわけです」
「へえ。うちにでも来てくれたらそんなことにはならなかったのに」
以前にこの学校のスカウトを断ったことのある源一は苦笑する。
「ええ、でも、自分は同じ仲間と剣道をしたかったので」
そう言って源一は修たち剣道部員を見る。その多くは、地元道場の剣友会から続く友人たちだった。
「そうか。ま、夏の大会は楽しみにしているよ。うちも今回ほど無様な醜態はさらさないようにしておくから」
「はい、そのときはよろしくお願いします」
源一は、去っていく他校の教師に頭を下げた。
「それでは解散しますが家に帰るまでが部活動ですからね」
顧問は冗談の欠片もなくそう言い放ち、自宅への帰路に着いた。地元に帰り着いた源一たちは駅前で解散した。源一は部員に解散を告げると荷物をまとめた。その源一の前に修と静香が並んで立った。
「源一さん。これからみんなでマルイに寄りますけど、一緒にいきますよね」
「サティに行け、サティに」
遠征や試合の帰りに駅前のデパートに寄るのは、源一たちのささやかな楽しみだった。だが、源一は荷物を担ぐと、他の部員たちに背を向けた。
「俺はこれから剣友会の道場に行くから。サティのフードコートでミックスお好み焼きを買ってきてくれよ」
「だから、マルイに行くんだって」
源一は手だけ横に振って和気あいあいとしている部員たちから離れていった。
源一の横に寄り添うように並ぶ影があった。紫藤朋絵だ。同じ剣友会で全国優勝した仲間であり、源一の幼馴染だ。付き合いは、母親が同じ産婦人科に通っていたこともあり、生まれる前からということになる。
「朋絵、あいつらと一緒にマルイに行ってこいよ。たまには生き抜きも必要だぞ」
「その言葉、そのまま返すわよ。それより源一ももうちょっと周りに気を使ってあげなさいよ。部の主将なんだから」
「これでも気を使ってるつもりだけどなあ」
源一は苦笑する。彼女の静香といるときよりも、親友の修といるときよりも、朋絵といるときのほうが源一は自然体でいられた。
「ねえ源一。ちょこっとだけ真面目な話、静香さんにはもう少し気を使ってあげてよ」
源一は視線を朋絵に向けた。「真面目な話」と断るだけあって朋絵はじっと源一の目を見つめていた。
朋絵は続ける。
「最後に静香さんとデートしたのっていつ?」
「春かな。一緒にバーベキューしたろ?」
「それって部のレクリエーションじゃない。呆れた。そんなんじゃそのうち振られるわよ」
源一は、困ったように頭を掻く。
その時の源一の頭には、来月の公式戦のことしかなかった。それが中学の3年間を剣道に研鑽してきたことの集大成であり、そのことを静香はわかってくれていると、源一は信じていた。
「……なあ朋絵。おまえは自分が信じられるか?」
「? なに、急に?」
質問の真意が掴めず、朋絵は源一を見た。源一は、自身の胸の内にある本音を、整理しながら話した。こんなことが話せるのは、朋絵だけだった。
「俺は、さ。正直自分のことはあまり信じてないんだ。今だって部の連中と一緒に遊びたいってのが本音だしな。俺の性根は意識してないと、すぐさぼりたがるんだよ」
源一は、電線越しに夜になりかかっている藍の空を見上げた。生暖かい湿った風が源一と朋絵の横を通り過ぎていった。
「だけど、それじゃ駄目なんだよ。俺は背も低いし目も悪い。学校の部活は6時までしか練習できないし、いつでも剣友会の道場を借りられるわけでもない。だが、全国には、身体的にも才能にも、環境にも恵まれた連中がそれこそ死に物狂いで練習してくるんだぜ。そんな連中と張り合おうってのに、遊んでられないだろ?」
朋絵は、視線を源一から外し、少し悲しげに微笑んだ。
「うん……。わかるけど、ね。」
「まあ、夏までだよ。全国大会が終わったら遊ぼうぜ。みんなでな」
源一は、そう言って笑った。朋絵には、その源一の笑顔が、どこか無理しているように見えた。
時は過ぎる。県大会を翌日に控えた最後の練習を終え、源一たちは道場の神棚の前に集合した。
顧問は必要事項を伝えると、解散を指示してひとり道場を後にした。顧問は、剣道はおろか、体育以外の運動を経験したこともない人間だった。独自の教育理念を持っており、それの実践のために教師をしている女性だ。源一たち生徒にしてみれば、その押し付けがましいところに辟易とすることもあったが、基本的に唯々諾々としていれば、自分の(正しい)教えが伝わったと悦に入る、扱いやすい教師だった。
「よ~し、今日の練習はこれで終わりだ。明日に備えてよく休んでおけよ。礼!」
源一の号令で部員は神棚に一礼し、解散になる。源一は掃除を済ませると戸締りを確認し、道場を後にした。
夏の日差しは源一の影を長く伸ばしている。6時を過ぎても沈まない太陽は世界を黄金色に染めていた。
源一は荷物を抱え、道場の鍵を閉めた。そのとき、入り口のところに荷物が置かれているのに源一は気付いた。静香と修のものだった。源一は、辺りを見渡すと、まだ学校内にいるはずの2人を探すことにした。
「源一!」
校舎内をうろついていると、朋絵に声をかけられた。源一は茶毛をおさげに結った、瞳の大きな幼馴染を見た。日のあたるところで朋絵の制服姿を見るのはずいぶんと久しぶりの気がした。
「校門前で待っていたのになかなか来ないんだもん。どうしたの?」
「ああ。修と静香を探してるんだ。今日は剣友会によらずにそのまま帰るつもりだから、静香を家まで送っていこうと思って。前におまえに言われたろ? 少しは気を使えって」
それを聞き、朋絵は苦い顔をしたが、源一は気付かなかった。
「……もう、きっと帰っちゃったよ。私たちも帰ろ。いくら明日が全国大会の前哨戦だからって、油断していたら足元すくわれるわよ」
朋絵は源一の手を取った。源一は、ごく自然にその手を払った。
「わかってるよ。だから今日は自主錬は抜きにしてまっすぐ家に帰るつもりなんだよ。それで、せっかく時間ができたんだから静香と話でもしようって思ったんだけど……、いないな」
「だから! もう帰っちゃったって」
「いや、それはない。道場の入り口に荷物が置いてあったから」
そうは言ったが、校内を歩き回っている間にすれ違ってもう帰ってるかもしれない。源一はそう考え直して足を道場に向けた。
荷物は、まだ道場の入り口に置いてあった。源一は辺りを見渡すが、やはり修と静香の姿はなかった。
「やっぱりまだいるな。2人ともなにしてんだ?」
「源一! いい加減もう帰ろうよ」
「朋絵、おまえなにか変だぞ。帰りたければひとりで帰ればいいだろ?」
朋絵は、源一から目を逸らした。
「よくわからないヤツだなあ」
源一は朋絵の横を過ぎ去り、再び校舎内を探索しようとした。
それに気付いたのは、本当に偶然だった。源一から逸らした朋絵の視線の先。そこは、人通りの少ない道場の横だった。そういえばあそこはまだ見ていないな、と、軽い気持ちで源一はそこに向かって歩き出した。
「源一! ちょっと待って!」
それを必死で止める朋絵。源一は、ここに至ってもまるで状況が理解できていなかった。
「なんだよ、あそこになにかあるのか?」
ちょっとした好奇心、源一は朋絵を振り切り、道場横に向かった。
そして、源一は、開胸された心臓に直接氷塊を押し付けられたような衝撃を受けた。




