I:蔦蔓
これを、“荒廃”と云うべきか、それとも“回帰”と称ぶべきか。
男は、膨張した根に喰い潰され、大きく傾いたビルを優雅に見上げていた。無骨な鼠色の人工壁と、やわらかに触れ合う緑葉の隙間から限られた空の青が垣間見え、気まぐれに射す微かな陽が、朧げな光の浮遊を頬や額に注いでいる。人知れぬ陰に芽吹き、貧しい養分に萎えることもなく逞しく一心に天を目指して撓う幹の、その強さを侮ったのか、仮初の石の巨体は無惨にも大地から浮き剥がされ、壁は脆くも崩れ堕ち、裂けて亀裂の走った割れ目から千切れて錆びた鉄骨が、水を求めて干涸びた蚯蚓のようにぶら下がっている。その壁という壁には、三叉の葉を巻き付けた蔦蔓が繊細な血管のような蔦を延ばして縦横無尽に這い昇っており、その青々と生い茂る葉は、刻々と遺物の生気を吸い弱らせ、今にも取り崩そうとしているようにも感じられた。
「おい、何をそんな所でぼうっとしていやがる」
「───罅、気泡、砂筋、変色、経年劣化を考慮しても、浅ましいほどの無知な欠陥住宅だ」
「だから何だ、陽傘があるだけマシだろ“お嬢さん”」
「嫌ならバービルたちと砂漠に残れば良かったんだ」と文字どおり唾棄して、少し前を歩く姿勢の悪い黒い背中は、不用心にもポケットに両手を差し込み、倒壊した今にも傾れ込みそうな脆弱なコンクリートの残骸と、かつての過密な集合住宅を突き破って成長した樹々の門洞の中を、迷うことなく進んで行った。
「いいか、俺は今から“酷麗”だ。間違ってもコードネームなんて使うな。袋叩きに遭うぞ」
やがて前方に、傾いた建物の隙間を縫い繋ぐ千切れた蜘蛛の糸のような電線や襤褸布が猥雑に垂れ下がる不穏な景色が見えてくると、樹々の屋根を抜けるその手前で、不意に前を行く背中が、擦り傷だらけの黒いブーツの踵を、陰と日向の境目に踏み揃えた。
「妙に軽い、慣れた足取り───さては故郷か“コヨーテ”」
後ろに撫でつけた濡れ髪の背を向けていたコヨーテは発作的に陰の方へ振り向いて、高飛車に待ち構える眼と鼻の先までゆったりと歩み寄り、彫りの浅い酷薄そうな涅色の据わった眼つきで、畏れを知らない若者の顔を真近に睨み据えた。
「なめた口を利いてると、その澄ました鼻先を喰いちぎるぞ、サーペント。お前は今から“碧蛇”だ。ここから先はその長い舌を引っ込めてろ、さもないと砂漠まで引き摺り回して蟻地獄に放り込んでやる。わかったな、ヘビ野郎」
一定した妙に高い掠れた声と、一見、優男にも見て取れる細い垂れ眉の皺の寄らない容貌からは、その導火線の行方が読み取れず、サーペントは短い熟慮の末、脅しに負けた青年らしさを装って、無私に、ただ頷いて見せた。
その落ち着き払った涼しい顔を、冷え切った視線で執拗に見据えていたコヨーテは、黒い無精髭の顎をしゃくって再び先導に戻った。その行手には、足の引ける熱気に蒸した臭いと、人気の無い貧しい居住区域の、砂埃に霞む荒んだ巣窟が近づいている。
全世界人口の約七割が消失した先の第三次世界大戦を堺に、人類の生活は大きく一変した。それは、ある時、密かな謀略が渦巻く流動の最中、幼稚な権威のために使用された一発の核兵器が引き鉄となり、それまで各国で身を潜めていた多数の“権威”が次々と世界へ翔び立ち、各大陸に甚大な焦土を生んだ。
同盟や敵味方もあやふやに泥沼化した混戦の末、やがて疲れ果てた人類は物資や軍隊の減少に伴って、永い戦いを力尽きるように終えてゆくが、既にその頃には、遥か上空へと積層した大量の灰や煤などの地上の争いの影響が大きな気候変動を誘発し、気づけば、世界全土に寒冷と衰弱の氷期を呼んでいた。
それまで、この地球の気候を蒸暑の未来へと加速させていた、無闇に増殖し続ける人類の、地道で悪辣な自然破壊は、さらなる愚行により、思いもよらず、その未来予測を見事に覆したのだった。
当初、十数年と予測されていた氷期は、人口の大幅減少に救われた地球の自浄作用により、疎らの土地で、わずか数年の内に徐々に回復を見せはじめたが、それは人工的に甘やかされた過去を受け継ぐ人類にとって、生易しい気候とは言い難かった。北半球では、以前にも増して苛烈で短命な夏と陰鬱な酷寒の冬を齎し、永年、雨雲に忘れ去られた赤道付近や南半球では、干魃に飢えた大地と砂漠地帯が風食によって拡がり、人々は深刻な水不足と食糧難に喘ぐこととなった。
元より自然の流動と共生する叡智を受け継ぐ一部の先住民族たちにとっては、これが好機となり、旧文明の抑圧から解放され、各地で豊かな自然の恩恵を享受し、本来の在るべき姿に戻っていった。旧文明の人為的な快適さに慣れた自然を知らぬ者たちは、その多くが、まだ微かに前時代の名残が遺る北半球へ渡った。
強靭な腎臓を持つ鼠や羚羊だけが辛くも生き延びた不毛の地では、絶滅が危ぶまれることも厭わず、わずかな肉を廻って原始的な争いが生じることもあり、奪う者と護る者、退化を選ぶか進化を選ぶか、人々の精神性は幾度となく試され、篩に掛けられた。
その結果、遺された人類の多くは、深刻な食糧難の中、過酷な気候に曝されながらも、懸命に太陽と大地の力を信じて地上に残る者たちと、未来を憂い自然を見棄て、温暖で利便的な生活だけを求めて陽のない地下へと潜った者たちにに袂を別つこととなった。
やがて、永続的な循環と地球との共生を掲げて開発された“源力”を分かち合う、資源提携を締結のもと、それぞれが各地の気候や特性を活かして発展し“友愛の地上都市”、“海抱の地下都市”と称び別けられるほど、新たな文明を根付かせた頃には、その境界を都合良く利用し仮面を変えて行き来する、優柔不断で狡猾な変面商人たちも現れるようになり、その境界の陰の番人でもある“獣たち”の手を今なお煩せている。
国境も、血族も、文化も混濁し、言語すら曖昧になったこの世界で、互いの繋がりを表すものは、ただひとつ、不可視の“信頼”でしかない。
シリウスは、何を好んでこの素性の怪しいやくざ者と手を組んでいるのかと、サーペントは常々疑念を抱き、一部、意図的に同行と理解を遠去けていた。
しかしこの度、“炎天下の砂漠の旅か、狂犬との猿人退治か、やくざ者との人助けを選べ”と言われた日には、多弁なシリウスが物静かに応えを待つ、その奥深い炯眼を勘繰りながらも、迷うことなく素直に聴こえの良い“人助け”を選んだ。
自らの選択とはいえ、この決断には早々に辟易した。曲がり者の自覚はあれど、虐げられる謂れはない。それにも関わらず、円滑な任務遂行のため、幾つかの質問や疑問を下手に投げかけてみたところ、返って来るのは推測どおり、挑発と侮辱と忌憚に溢た返答ばかりだった。それに加えて、さらなる問題点を挙げるとするならば、自分は潜入と情報収集を主たる責務としており、飽くまで戦闘の経験値と実力は及第点だということ、そして、このコヨーテと云う名を引き継いだ流浪のやくざ者は、武闘にしろ銃撃にしろ何かと腕が立つという点だ。
つまりは、この男の傍では従順で在るしかなく、復興を諦めた元爆撃地の辺鄙な居住区域に至るまでの長く気の遠くなるような道のりのあいだ中、サーペントは如何にしてこの不当な任務を早急に成し遂げるかに終始思案を廻らせながら、行先くらいは訊ねておくべきだったと、自らの短絡的な判断を静かに恨んでいた。
腐臭か発酵か、その正体を想像しかねる悪臭に、砂避けのストールで鼻まで覆い、サーペントは飄々とした黒い背中を追って日向に出た。乾燥に眼が渇き、皮膚が引き攣るような暑さの中、迷い込んだ放浪者を装った小汚い身形のふたりは、崩落した瓦礫と奔放な雑草に度々足並みを崩される、道なき道を歩き進めた。
両側の建物から垂れ下がる夥しい配線や、それに吊るされた気味の悪い衣類らしきものを見上げ、塗り潰された呪文のような文字が一部欠けた看板や、剥き出しの配管が蔓延る錆びて風化した斑らの壁を、コヨーテは何故か平気な素顔のまま仰ぎ見ていた。それは落下防止か、それとも侵入防止の柵なのか、その暗いすべての窓枠が鋼鉄の檻で覆われている。まるで、物々しい怪鳥が潜む鳥籠が、傾いた壁面にびっしり並んでいるような、異様な光景だ。足元からはコンクリートを突き破って繁殖した雑草の勢いと蔦蔓の侵略が壁を昇りかけていた。草がこれだけ育つということは、乏しくとも、雨季があるのだ。
四方八方を不気味な建物に覗き込まれているような、翳る荒廃したビル群の中腹辺りに差し掛かると、ふと、コヨーテは瓦礫の転がる道傍に逸れ、腰を屈めて少し曲がった棒らしきものを拾い上げた。そして片手をポケットに差したまま、徐ろに手前に傾く建物の陰の中へと入って行くので、サーペントは不審に思ったものの余計な声は掛けず、安全なその位置に立ち止まって、その動向の一挙手一投足を注視していた。
すると突然、振りかぶったコヨーテは右手の鉄棒で太い配管を目掛けて、カン、と打ち鳴らし、その出来栄えが不服だったのか、頸を傾げて、もう一度横薙ぎに鉄棒を叩きつけた。甲高い金属の悲鳴は寂れたビル街を劈き、傾いた壁に谺する膨れ上がった反響が、その音を区切られた廃墟の空まで舞上げた。
音の行方を追って自然と顔を上げていると、暗く澱んでいた鳥籠の隙間から、ぽつ、ぽつと揺らぐ動きが表れた。それは、ほんの数秒のうちに無数の白い顔となって檻に張り付き、乾いた路上のふたりの男を物欲しげに見下ろした。
「酷麗、帰って来たのね!」
不気味に白く、生頸だけが浮かんでいるようにも見える顔のひとつが、その名を声高に叫んだ。それを皮切りに傾いたビルたちが一斉に生気を宿し、先ほどの甲高い金属音が掻き消けされるような、奇たたましい悲鳴が飛び交った。
その不可解な声援に眼を細めて立ち尽くす碧眼の若い男の前で、熱狂の歓喜を全身に浴び、まるで凱旋のように高々と片手を掲げる、満更でもない男が居る。この、やくざ者の一連の行動は、サーペントの理路整然とした理解の経路を一層難解にした。
しかし今、理解を深めたことがふたつある。
“ 酷麗”は、この悪臭の漂う無法地帯に何か深い情念が在るということ、そして自分は“コヨーテ”の監視のために遣わされたのだということだ。




