Ⅱ:胡楊
風が見える。薄絹の羽衣が、天鵞絨の波を刷いて黄土色の大地を馳せてゆく。悪戯に踏み入る者の足を弱らせ、歩んで来たあらゆる軌跡を無に帰して、行く道も戻る道をも迷わせる。そして時に、甘い蜃気楼に勾引かし、叶わぬ理想に力尽き、やがて大地を抱いてくれることを望んでいる。
砂漠は、孤独なのだ。永久に、渇いているのだ。
女は、砂塵に吹きつけられてもなお、地面に這い蹲る大きなトカゲのような姿を横目に、また一歩呑まれる足を踏み込んだ。青々と拡がる晴天から燦然と照りつける酷な陽が、微細な硝子のような砂粒に反射して、ぎらぎらと眼を眩ませる。
この途方もない砂の沖合に出る途中、水を求め彷徨い歩いて力尽きた、巨大な蜘蛛のような胡楊の樹の陰に、泣く泣く滑砂単車乗り捨てた一行は、無常な砂の流動に蹴った力が吸い込まれる、徒労の歩みを余儀なくされている。
堆い砂に足を取られながら、数歩進んで、女はまた歩みを止めた。まるで鎖帷子のように重く、筋肉の動きを鈍らせるが、変温機能を搭載したスーツを、今ここで脱ぎ棄てるわけにもいかない。
さらさらと流れてゆく斜面に片膝を立て、ひと息ついて背後を振り返った。滑らかな陰影を描く、見渡す限り重厚な青と黄土色で塗られた油絵のような砂漠には、ただ一点の濁りもない。あの、“トカゲ”を除いては───。
「あいつは一体何をしてる」
「サンドフィッシュを見かけたらしい」
「こんな砂漠に魚か? あれじゃ蒸し焼きになるぞ」
「おいグリソン、いい加減にしろ、隊を逸れるな!」
女が、数歩先から斜面を滑り降りて来たジャグアルの疑問に応える前に、先頭を担うバービルが砂丘の上から姿を現し、よほど気が立っているらしく防護マスクを外した地声で、縄張りを誇示する虎のように咆哮した。
グリソンは、両頬に丸い吸収缶を取り付けた防護マスクの上からスカーフを何重にも巻きつけた、穴熊のような顎を、地表で肉が焼けようかという温度の砂に埋めたまま、片腕を声のする方へ大袈裟に振り上げ適当に応答した。片時も目を離さず爛々と凝視する点描画のような砂粒の陰影が、うねうねと隆起し、波を描いて移動する。丸いゴーグルの中からその軌道を覗き見て、グリソンは両手を突いて起き上がり切らない姿勢で駆け出した。なだらかに高まった砂丘の斜面から三人の呆れた視線が見つめる中、青年は突然、無心に穴を掘り出し、唐突にやめて他方へ駆け出し、また、倒れ込むように飛びついて砂を掻き出した。
「・・・イカれちまってるぜ。途中で原動機加熱を起こしたのが相当ショックだったようだな」
「リンクス、悪いがあいつをロープで繋いでおけ。そのうち逸れるぞ」
防護マスクの無線から、いくらか抑えてはいるものの、バービルの苛立った声が響いた。女は仕方なく斜面を滑り降り、右側の背面に取り付けてあるリール式のランヤードを引き伸ばして、片手に腹の白いトカゲを掲げて跳びながら歩いて来るグリソンと向き合い、その砂塗れの腰のベルトに無言で強固なカーボンスチールのフックを取りつけた。
「見てくれ、こいつは普段この辺りに居ない貴重なヤツだよ、砂の中をすごいスピードで泳げるんだ。こいつを研究すれば、新しい車両の開発ができるよ」
興奮した様子で話し続ける青年の声もよそに、リンクスは眼の前に突き出されたトカゲの精緻な螺鈿細工のような美しい光沢と、その尖った顔のすべてを諦めたような悲壮な眼を冷徹に見つめた。
「自分が自由でいたいなら、誰もが自由であるべき。たとえ安全が保証されていなくとも。私はそう考える。あなたはどう、グリソン」
砂色に染まる幾何学模様のストールの下で、グリソンは見えない口を締まりなく開いたまま放心した。カーボングローブの指のあいだでぐったりと垂れるトカゲの切れた尻尾を見つめて沈み、その下に自分の腰から撓んで伸びている頑丈な黄海松茶と砂色のロープにようやく気づいて、その意味を問うように顔を上げた。
「後衛は私が。あなたの安全は、私が保証する」
ゴーグルの奥に燈る、冷淡な瞳に視線を繋いでみたものの、その硬い心の映像はまったく流れて来ず、青年はよく解らない気迫に圧されて、何となく頷いておいた。やはり生命に引き鉄を引く“獣たち”の血は、何処か冷えている。
陽の当たらない穴蔵暮らしを好む、地下巣本部の技術開発部の中でも珍しく、持ち前の研究熱心に加え、底無しの好奇心と多少無謀な冒険心も備わっているグリソンは、遠征の打診が数々の手を滑って廻って来た時、嬉々としてこの過酷な旅に名乗り出た。しかし、いざ顔を合わせた、旅の同行者の面々は、いかにも獣らしい、戦いに飢えた気難しい軍人気質の三人で、暑さ故か愛想も大した笑いも無く、任務遂行と警戒に気を割いてばかりいる。
広大な砂漠に臨する枯渇した大地に永年渇望された集結協和都市は、南北の豊かな水源に恵まれたかつての発展都市を礎に、近年新たに発足した。猛烈な乾燥と砂塵に曝され、わずか一日のうちでも寒暖差の非常に厳しい境地で命辛がら生き延びてきた、一部の居住区域の人々は、人工知能《AI》によって平等かつ厳格に精査された人口管理の元、需要と供給の安定した循環の中に組み込まれ、ようやく安泰の生活を得ることとなった。
───ところが、砂漠の新生都市は、安定の兆しから間も無く、早くも存続の危機に直面した。永いあいだ投げ出されていた不毛地帯の荒野には、かつて、少数民族や小都市が広範囲にわたって点在し、各々の血族と伝統を重んじて根ざしていた。彼らは連綿と受け継いできた先祖の土地を頑なに護り続けたが、永い闘いの煽りに没し、ついには土地を、文化を、尊厳までもを棄てざるを得なくなった。そして、ただ生きると云うことだけに次第に貪欲になっていった。その結果集結協和都市の安全性と生産性、平和的人類の存続を最優先する人工知能《AI》の精査からは悉く弾かれ、彼らは屈辱を植え付けられたまま、野に放たれることとなった。戦火に脆くも崩れ去った街の下層には、苛酷な環境の変化と飢えのあまり“人間性”を忘れた者たちが、まだ多く影を潜めており、安寧の結晶として闇夜に煌々と聳える新都市は、瞬く間にその嫉妬と羨望の標的とされた。思考も言葉も棄てた者たちは無意に水を穢し、欲の向く儘自然の循環を乱しかねず、思考を保つ者たちは徒党を組み、暴力的な意図を持って略奪や侵略の機会を虎視眈々と狙っていた。
それにより、集結協和都市の防衛を担う“獣たち”は、灼熱の太陽が照りつける炎天下の昼間から、不本意な見廻りと狩りに放り出される羽目になり、平和と平等を掲げる議会の意向により、暗に危険因子の殲滅を望まれている。彼らが不機嫌なのも無理もない。
しかし、そんな血腥い展開とは無縁だと、グリソンだけは銃も持たず、まるで自分の護衛のような彼らを頼りに平気で構えていた。資源領域の安全確保は彼らに一任されている。自分は水源調査と外部設備の整備点検を済ませ、あとは、より気候に適合した技術開発のことだけを考えていれば良いのだった。
歩きながら背負ったリュックの脇のポケットから通気孔の開いた小さなケースを取り出して、無意味な死の演技を続けているぐったりしたトカゲを、止むなく転がし入れた。その蓋を強く封じるとき、背後から昇ってくる鉄仮面のようなリンクスの、意味深で堅い台詞が、かすかに罪の心を過らせた。
「なあバービル、放浪者に嵌められたんじゃないのか。こんなところに防空壕なんてあるわけないだろ。そもそも街の跡すらないんだぜ」
「確かに、あまり離れると滑砂単車の場所に戻れない」
「直感通信端末で探せばいいんだよ。大気が冷えればまた動くさ」
「体力の話だ、その頃にはお前も凍えてるぞ。夜になる前に戻れなきゃ、俺たちが毒ヘビやサソリの獲物だぜ」
「おいホーネット、何の反応もないぞ、本当にこの辺りなんだろうな」
両手を腰にあて、疲れて頸を振るジャグアルの隣で、堪りかねたバービルが無線に呼びかけた。大男が進行を妨げるので、グリソンもリンクスも自然とその影の中に立ち往生した。
“おそらく電波遮断設備だ、肉眼で探すしかない。座標はその辺りで間違いない”
グリソンを除いた三人は冷涼で端的な同様の返答を受け、疲労が掻き立てる苛立ちを押し殺して、それぞれが顔を見合わせた。ジャグアルは、やっとの思いで到達した砂丘の稜線に立ち、空の青が落ちて消えゆくその果てまで、悪夢のように続いてゆく黄土色の丘陵と、気が遠くなるような砂紋の波を眺めた。表情はマスクに覆われ俯いていて見えないが、普段は躍動的なこの男が、その頸を垂れた姿勢から、うんざりした熱気が濛々と漂っており、誰もがそれに共感していた。
比較的痩身のジャグアルや、軽い身のこなしのリンクスはともかく、見るからに筋肉の詰まった巨体のバービルは暑くて仕方ないんだろうなと、服を余すグリソンは、重力のまま砂の斜面に座り込み、砂の薄絹に撫でられて、みるみる掠れてゆく足跡を見下ろしながら、独り呑気に考えた。
すると途端に急な渇きに襲われて、背中のリュックから片腕を抜いて前に傾け、真空の給水ボトルを気忙しく取り出し、邪魔なスカーフとマスクを毟り取るように放り投げ、灼きつける太陽に瞼をきつく閉じて、張り付く喉に一気に水を流し込んだ。
「おいグリソン、まずは口を湿らせるんだ、脱水症状を起こすぞ」
ひとつも整える気のない癖毛の横からバービルが水を取り上げると、グリソンは子どものように両手を上げて空を掻いた。
ふと、その鼓膜の奥に、聴き馴染んだ微かな音が一瞬聞こえたような気がした。妙な感覚を憶え、身体中の細胞に耳を澄ますと、それは、腰を埋める砂粒から伝導するように身体の奥から響いて来る。
「あの音は───」
「今度は何だ」
リュックが肩から落ちてバービルの脛にぶつかり、マスクが膝から転がり落ちるのも構わず、グリソンは、その音の方向を一心に見つめて立ち上がり、ゴーグルを額に上げると、ベストの胸ポケットを闇雲に探った。行き当たった眼鏡を慌ただしい両手でかけ、分析機能を搭載した手製のレンズの景色を隅々まで注視した。望遠を最大レベルまで拡大すると、砂の上を自在に駆ける四匹の生物が、丘を越え、谷を越え、その粒が、みるみる大きく迫って来る。砂を巻き上げ、砂丘の上に跳ね出た瞬間、その一匹を厚いレンズが明確に捉えた。
「大変だ・・・あれは、僕たちの滑砂単車だ」
「何だと、下がれグリソン」
すかさず、ジャグアルが躍り出て自動小銃を構え、光学照準器を覗き込んだ。素早くその標的の位置を認めると、茫然と佇むグリソンの襟頸を掴み、強引に背後へ転がして、その上にリュックとマスクも投げつけた。
「お前は下で伏せてろ」
砂を噛み、砂丘の中腹辺りまで滑り落ちた青年の鼓動は次第に駆け出し、余裕は頸や額から水分とともに失っていた。
何故この灼熱の大気の中、停止したエンジンが駆動しているのか ───。
騒がしく狼狽える脳に必死に答えを問い糺した。我が身の危険よりも想定外な、その不可能な現実の方に取り乱した。上方の斜面に待ち伏せ、尾根の波間に沿って間隔を空けて獲物を待ち構える三人の、緊迫した後ろ姿を仰ぎ見た。彼らを疑うわけではないが、状況も技術も劣勢の今、無事に帰る望みは希薄になった ───。
まだ覚束ない頃から鍛錬し、砂漠を自在に走れるまでに育て上げた、愛着の深いエンジン音は、敵となってすぐ傍まで躙り寄り、やがて不気味なほどに静かになった。
「隠れても無駄だ、姿は見えてるぞ。女と武器を置いて、去れ」
灼きつくような砂の上に、息を殺して突っ伏している青年は、背筋に冷や水が垂れ、頭上を見上げて、独り蒼くなった。名指しの“女”の足元からは斑らの紐が這い降りて、覗き込んだ腰のベルトに、強靭な牙でしかと噛みついていた。




