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Necessary Evils ー 鉑羽の鴉 ー  作者: 八尋 世暇


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1/1

Prologue

 世界に、こんなにもやさしい風が、あっただなんて。蜘蛛の巣のような暗いヴェールも、(うと)ましく伸びた髪も、胸に蔓延(はびこ)る重々しさも、すべてを(すく)って舞い上げてくれる。あの何処までも続く、大きな、大きな空の中へと。

大地には、こんなにも美しい水が、あっただなんて。手の平に残るあの感触も、震える(あか)い爪先も、怯えを(はら)んだこの瞳も、すべてを包んで(みそ)ぎ、流してくれる。この止めどなく(はし)りゆく、途方もない大河の清流の果てへと。

見上げれば、こんなにも眩しい光が、あっただなんて。甘やかされた皮膚を()き、冷えた頬に熱を(もたら)し、在るが(まま)の姿を(さら)してくれる。あの彼方の(そら)より爛々(らんらん)と注ぐ、肥大した太陽の(はげ)しい閃光の中へと。


ああ、あの空を飛べたなら、風はこの身を何処へと運んでくれるだろうか。

ああ、この河を泳げたなら、水はこの身を何処まで導いてくれるだろうか。

ああ、この身を捧げたなら、不滅の太陽は罪をも融かしてくれるだろうか。



ガサガサ・・・



呼吸が止んだ。河に浸けた指先もそのままに、波間に映る水面(みなも)の瞳を(みひら)き、身体中から一切の動きを止め、気配をも殺した。


何か、いる───。


(おびただ)しく突き立った(つるぎ)葉叢(はむら)に身を(うず)め、野兎のように耳を澄ました。静止した身体の内で鼓動だけが高鳴り続け、固唾を呑む喉すらも渇き張り詰める。

草が大きく擦れ合い、滑らかな水流が(へだた)れた。─── 何かが、傍で水に触れている。

野生の動物だろうか。顔を覗かせ、ひと目その姿を見てみたい、そんな危うい欲にも駆られた。しかし、もしも恐ろしいものだったなら、この背高(せいたか)の草葉に阻まれて、走ったところで逃げ切れない。そのうえ、もう靴も足も限界だ。

欲を言い(くる)める間に、またガサガサと葉叢(はむら)を掻き分ける気配が間近に聞こえ、途切れ途切れに遠去かり、やがて、それは静かに止んだ。

苦しく浅い呼吸を戻し、凝った(くび)の付け根を持ち上げると、山陰の森の(こずえ)を揺らし、幾羽かの鳥の群れが飛び立った。背に()を浴びて自在に羽搏(はばた)いてゆく、その美しさに瞳を連れられ、憧れはやがて立ち上がり、穏やかな天色(あまいろ)の空を仰いだ。


パァン


乾いた音が、空に弾けた。

気づけば(つるぎ)の草葉の上に顔を出し、(あし)の穂波の揺れる、一面の河辺を臨んでいた。───ふと、目が合ったのは、陽に身を焦がした顔面に、干し草のような髪を載せた人間だった。茫然自失と佇む前で、細い吊り目は警戒に血走りつつも、腰を屈めて草陰に消えた。思うより先に、不意に風が教えてくれた。形は人でありながら、何か人成らざるものの臭いがする。

巻き起こる不安を逃がそうと、道を求めて遠目に見遣ると、いつの間にやら穂波の上に、ぽつ、ぽつ、と案山子(かかし)の頭が立っていた。意識が、立ち去る衝動を駆り立てる。しかし身体は(おび)え、足が(すく)んで動かない。鹿がその場で迫る危険を見つめるように、本能は今、決して動いてはならないと知っていた。

真近の案山子(かかし)は何かを終え、再び草葉の上に現れた、その焦げた顔の周りには大きな毛皮が載っていた。それは、顔が大きく(ふく)らんだ赤毛の奇妙な羚羊(れいよう)だった。毛艶(けづや)の良い(くび)(きず)から脈々と(あふ)れる鮮血が、逆さに下がる頭を伝い、(みひら)いた大きな黒真珠の瞳を()け、細く波打つ角の先から(あか)瑞々(みずみず)しく(したた)った。


その一滴は、あの時、この手から(したた)り落ちた、緋い雫と重なった───。


軽い、眩暈がした。吸い込む空気がやけに冷たく、額が、唇が、肺が、みるみるうちに冷えてゆく。

葉叢(はむら)から黒い凶器が見え隠れした。片手に猟銃を、片手に死骸の(ひづめ)を掴んだ吊り目の顔はただ恐ろしく、陽焼けと垢に塗れた皮に貼りつき、何故か刻々と草を割って近づいて来る。


ふと、それは、音も無く止んだ。


肩の羚羊(れいよう)が脚を空へと跳ね上げ背後(うしろ)にずるりと消えた。皮に貼りつく目は開かれたまま、遠い果ての方へと向いている。起き上がり小法師(こぼし)かのように、ゆらゆらと振れるその片目から、不気味な黒い涙が垂れてきた。冷たい呼吸が朦朧(もうろう)と意識をさらに混濁させる。遠い山裾(やますそ)から穂波の上を駆けてきた大きな風に煽られて前のめりに傾くと、ついに案山子(かかし)草叢(くさむら)の中にどさりと沈んだ。


不安に辺りを見渡した。濃淡に折り重なる蒼い連峰の起伏、深緑の森から突き出た針葉の木立(こだち)、延々と地の果てまで流れゆく鏡の大河に寄り添い続ける湿地の草花、そして振り返れば、一面の白金(しろかね)に揺れる花穂(かすい)の大群落。枝垂れた穂先は方々(ほうぼう)の風に遊ばれて翠緑(すいりょく)の空に(たなび)白波(しらなみ)を描いている。─── 夢を、見ていたのか、あの案山子(かかし)の頭も忽然(こつぜん)と消えている。

すべては、幻覚(まぼろし)だったのか。

跡形もない元来た道に目を凝らした。もうあと戻りもできそうにない。失望にふと、空を見上げ燦々(さんさん)と照りつける()に立ち(くら)み、景色がぐらりと弧を描いた。水が跳ね、丸い砂利が頬を打った。やがて、暗みゆく真近の水面(みなも)は、きらきらと光を吸い込んで、気が遠退()くほどに美しかった。


誰か、あそこに居たのだろうか、誰か、見つけてくれたのだろうか・・・誰か ───。




引き(がね)を引くのは、射撃と同じ、造作もない。


“あいつ”は酒が廻ると、弱きを捕まえ舌を振るった。勇敢に戦い、恐怖に立ち向かい、激動の戦場を生き抜いたのだと、枯れきった昔話に独り華をちらつかせ、子どもの顔に湿気(しけ)た煙草混じりの臭い吐息を吹き掛けるのだ。


銃なんてのは相手を見ず、ただその鉤爪(かぎづめ)を引けばいい。


そう言って引き(がね)を真似る手は震え、年中酒瓶を握っていた。子どもは真剣な顔で聴きながら“あいつ”の嘘を()っていた。不運と怖気(おじけ)と人の弱さで、本当は、戦いを知らないことを()っていた。そして、世間に(あぶ)れた惨めさから、酒と煙草と暴力に溺れたのだろうと云うことを、その(あざ)と痛みで()っていた。


“あいつ”は、引き(がね)の重さを知らない。───だが、それだけは幸運だった。


初秋の草叢(くさむら)を跳ぶように駆ける、二頭の赤毛の獣が在る。一頭は成獣、角の幼いもう一頭はまだ子どものようだ。水を求めて(はぐ)れて来たのか、近くに類縁の群れは無い。

反射防止網(キルフラッシュ)を嵌めた(まる)いレンズ越しに、親子の背中が森の(ふもと)に消えてゆくのを確認すると、照準線(レティクル)を遠景に合わせ、蜂の眼で辺りへ鋭く睨みを効かせた。

獲物(クァリー)四体、沈黙。しかし、引き(がね)を引くの遅かった。貴重な一頭が、おそらくは、あの親子の家族が、見々(みすみす)無惨に生命(いのち)を落とした。


河の(ほと)りの暗く沈んだ茂みの奥に照準を合わせ、(かえ)らぬ無念に、独り奥歯を噛み締めた。荒くため息を吐いたが気が済まず、地面に(こぶし)を打ちつけた。砂利の尖りに肉が、骨が、(うず)き出す。

眼底に膠着(こびりつ)いている残影が、死してなお、またも行手(ゆくて)の邪魔をする。

拳を痛めつけているその傍を、赤銅(しゃくどう)の背と四肢を持つ黒い頭の山蟻(やまあり)が、奴隷を探して流離(さすら)って来た。長い触覚を上下左右に振りながら、ふと、拳の元まで行き当たると、触覚を機敏に怯ませ、途端に()けて駆け出した。枯枝を(くぐ)り、落ち葉の丘陵を越えて茂みの奥へと突き進む果敢(かかん)で孤独な山蟻(やまあり)を、気の立つ視線が追っていた。

茂みを見据え、(ほとばし)る若い熱気が土に冷えてゆくのを(しば)し待ち、やがて血潮の(たぎ)りが落ち着くと、拳を(ゆる)め、冷静に左手首の内側を見た。交代まで約三時間、まだ陽は高い。


小高い山の茂みの隙間に黒い銃身を構えたまま、河辺に(いこ)う数羽の水鳥を見つめていた。陽照りの中で水飛沫(みずしぶき)(きら)めかせ、長い(くび)を振る伸びやかな仕草や、翼を下げて午后(ごご)の陽を浴びる(さぎ)たちの優雅なひと時を盗み見ながら、物陰に(ひそ)み神妙な面持ちで思考を廻らせていた。

ふと思い立って(うつぶ)せに寝そべっていた身体を身軽に起こした。枝葉が乱雑な音を立て、咄嗟に振り返って息を殺した。耳を(そばだ)て眼だけを動かし、銃に手を遣り警戒したが、辺りに忍び寄る気配は無い。秋の蛇は性質(タチ)が悪い。頭上で複雑に絡み合う、その枝先まで念入りに目視してから、素早く作業に取り掛かった。

半自動小銃(セミオートライフル)を杖に立て、大股で両膝を突き二脚固定具(バイポット)を外しに掛かかったところで、不意に疑念が手を止めた。半信半疑で弾倉を取り外し、残弾数を覗いてみた。やはり四発しか撃っていない。真昼の幽霊か、白昼夢か ───。

あれは、幻覚(まぼろし)だったのか。

枝葉の隙間に覗く消えた水辺を睨みつけるも、それらしき動きはやはり無い。立ち上がり、厚手の伏射撃用敷布(シューティングマット)を巻き上げて傍の(くぼ)んだ樹の根に埋め、手近の草葉で覆い隠すと、靴底で小石を転がし、()えた小草(おぐさ)や落ち葉を(なら)して山を降りた。


まるで森が人を拒んでいるかのような険しい獣道を歩いた。岩を避け、砂利に滑り、枯れ葉に危うく足を取られた。行手を阻むほどに暗く羊歯(しだ)の生い茂る苔生(こけむ)す山をようよう(くだ)り、鬱蒼(うっそう)(かげ)る樹々の終わりを目指して進むと、乱立する枝と幹の網目から、そこが昼と夜との境目のような、晴れ晴れとした明るい平地が見えてきた。


自然保護回復強化区域(サンクチュアリ) 、N四五・Eニ九・B地点、獲物(クァリー)四体、回収を頼む」


地面から浮き出た石や樹の根の合間を用心深く歩き見ながら、右手を耳に触れ無線を飛ばした。二歩足を進めてからようやく荒い雑音混じりに“了解”と短い声が応答した。

四体の位置は既に頭に入れてある。コンテナまで防腐防菌収納袋(コープス・パック)を取りに向かい、収拾地点に運ぶとしても、回収までには充分間に合う算段だ。あの憐れな羚羊(れいよう)は腐敗菌に侵される前に、貴重な食糧として舟まで担いで行くよりほかない。


背高の(あし)花穂(かすい)を押し分けて、菖蒲(しょうぶ)葉叢(はむら)が大きく割けたその一点を手繰(たぐ)り寄せるように草叢(くさむら)の先へと突き進み、悠然と清流を(たた)える大河の(ほと)りに辿り着いた。

草叢(くさむら)の取り囲むその中には、枯れ草の後頭部を血に染めた干し肉のような野蛮猿(トゥルバ)の遺骸と、優に六十キロは超えているであろう立派に育った羚羊(れいよう)が長い草を()ぎ倒して息絶えていた。しばらくその場に立ち尽くし、生も死も公然と照らす()もとで、矛盾する対局の感情を廻らせた。

やがて、足元に転がっていた旧びた猟銃を拾い上げ、銃口の先で突き、一体目の獲物(クァリー)の絶命を確認すると、羚羊(れいよう)の傍に(かが)み込み、まだあたたかい、やわらかな腹の毛並みに手を触れて担ぎ上げようとしたその時 ───、河面(かわも)に揺れる異様な輝きが眼を惹いた。

持ち上げた羚羊(れいよう)をまた寝かせ、剣の葉叢(はむら)のその先で白く揺らめく奇妙な水草を追って(おもむろ)に立ち上がると、風が(ざわ)めき、時が止まった─── 。


水辺に横たわるその姿は、今(まさ)に雲の上から堕ちて来たかのように白かった。

白練(しろねり)の衣服に白皙(はくせき)の肌、そして豊かな髪は水に(さら)され、光を受けて白金の生糸のように(きらめ)いていた。


それを眼の当たりにしながら、まだその眼を疑った。身形(みなり)は明らかに野蛮猿(トゥルバ)でも放浪者(トランプ)でもなく、忍び返しの容赦ない電気防護柵(ガードフェンス)を越えて来たとも思えない。何処かの防空壕(シェルター)を伝って迷い込んだのか、それとも─── 。

今一度あたりを警戒し、意を決して歩み寄ると、片膝を突いて、浅瀬に(つか)った顔に落ちる乱れた髪をそっと避け、金糸(きんし)睫毛(まつげ)と陽射しに火傷(やけど)した赤らむ頬を覗き込んだ。カーボングローブを右手から抜き取り、躊躇(ためら)いに思い留まりながら頸筋(くびすじ)に指を添えてみると、体温と弱い脈動が確かに皮膚を伝わった。


・・・幸か不幸か、まだ息がある。


身に染み付いた義務感が無意識に指を無線に向かわせ、また無意識にその手を下ろした。思考が樹海の枝葉のように、ますます(ひし)めき絡み合う。

河面(かわも)から繊細な髪を(すく)()げ、静かに頭を抱き起こした。その艶と濡れた絹のような指どおりは、枯渇した細胞による褪色(たいしょく)ではないことを、滑らかに知らしめている。

その心中(しんちゅう)など知る由もない、当惑の腕に眠る安らかな表情(かお)は、何故か、辛苦に生きた“あのひと”の最期の面影が重なった。


途方に暮れて、我が運命(みち)を問うように天を仰いだ。その若き鋭い瞳は雄大な蒼穹(そうきゅう)を映し、澄み渡った天色(あまいろ)に染まりゆく。

空は無碍(むげ)に応えもなく(はげ)しい陽光に瞳を()かれ、ただ虚しさに眼を細めた。眩しさは睫毛(まつげ)(ひさし)に幾分(すぼ)まり、浮遊する黒い何かが光条の中を明滅する。

瞳を闇に(かえ)し、もう一度光の中に眼を凝らすと、まるでその光芒を讃えるように、太陽の周りを数羽の飢えた(からす)が舞っていた。


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情景描写が圧巻、、、!! まさしく映画を見ているような、 壮大で威厳ある文章で、憧れます、、! 応援してます!
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