Prologue
世界に、こんなにもやさしい風が、あっただなんて。蜘蛛の巣のような暗いヴェールも、疎ましく伸びた髪も、胸に蔓延る重々しさも、すべてを掬って舞い上げてくれる。あの何処までも続く、大きな、大きな空の中へと。
大地には、こんなにも美しい水が、あっただなんて。手の平に残るあの感触も、震える緋い爪先も、怯えを孕んだこの瞳も、すべてを包んで禊ぎ、流してくれる。この止めどなく奔りゆく、途方もない大河の清流の果てへと。
見上げれば、こんなにも眩しい光が、あっただなんて。甘やかされた皮膚を灼き、冷えた頬に熱を齎し、在るが儘の姿を晒してくれる。あの彼方の宙より爛々と注ぐ、肥大した太陽の烈しい閃光の中へと。
ああ、あの空を飛べたなら、風はこの身を何処へと運んでくれるだろうか。
ああ、この河を泳げたなら、水はこの身を何処まで導いてくれるだろうか。
ああ、この身を捧げたなら、不滅の太陽は罪をも融かしてくれるだろうか。
ガサガサ・・・
呼吸が止んだ。河に浸けた指先もそのままに、波間に映る水面の瞳を瞠き、身体中から一切の動きを止め、気配をも殺した。
何か、いる───。
夥しく突き立った剣の葉叢に身を埋め、野兎のように耳を澄ました。静止した身体の内で鼓動だけが高鳴り続け、固唾を呑む喉すらも渇き張り詰める。
草が大きく擦れ合い、滑らかな水流が隔れた。─── 何かが、傍で水に触れている。
野生の動物だろうか。顔を覗かせ、ひと目その姿を見てみたい、そんな危うい欲にも駆られた。しかし、もしも恐ろしいものだったなら、この背高の草葉に阻まれて、走ったところで逃げ切れない。そのうえ、もう靴も足も限界だ。
欲を言い包める間に、またガサガサと葉叢を掻き分ける気配が間近に聞こえ、途切れ途切れに遠去かり、やがて、それは静かに止んだ。
苦しく浅い呼吸を戻し、凝った頸の付け根を持ち上げると、山陰の森の梢を揺らし、幾羽かの鳥の群れが飛び立った。背に陽を浴びて自在に羽搏いてゆく、その美しさに瞳を連れられ、憧れはやがて立ち上がり、穏やかな天色の空を仰いだ。
パァン
乾いた音が、空に弾けた。
気づけば剣の草葉の上に顔を出し、葦の穂波の揺れる、一面の河辺を臨んでいた。───ふと、目が合ったのは、陽に身を焦がした顔面に、干し草のような髪を載せた人間だった。茫然自失と佇む前で、細い吊り目は警戒に血走りつつも、腰を屈めて草陰に消えた。思うより先に、不意に風が教えてくれた。形は人でありながら、何か人成らざるものの臭いがする。
巻き起こる不安を逃がそうと、道を求めて遠目に見遣ると、いつの間にやら穂波の上に、ぽつ、ぽつ、と案山子の頭が立っていた。意識が、立ち去る衝動を駆り立てる。しかし身体は怯え、足が竦んで動かない。鹿がその場で迫る危険を見つめるように、本能は今、決して動いてはならないと知っていた。
真近の案山子は何かを終え、再び草葉の上に現れた、その焦げた顔の周りには大きな毛皮が載っていた。それは、顔が大きく膨らんだ赤毛の奇妙な羚羊だった。毛艶の良い頸の創から脈々と溢れる鮮血が、逆さに下がる頭を伝い、瞠いた大きな黒真珠の瞳を避け、細く波打つ角の先から緋く瑞々しく滴った。
その一滴は、あの時、この手から滴り落ちた、緋い雫と重なった───。
軽い、眩暈がした。吸い込む空気がやけに冷たく、額が、唇が、肺が、みるみるうちに冷えてゆく。
葉叢から黒い凶器が見え隠れした。片手に猟銃を、片手に死骸の蹄を掴んだ吊り目の顔はただ恐ろしく、陽焼けと垢に塗れた皮に貼りつき、何故か刻々と草を割って近づいて来る。
ふと、それは、音も無く止んだ。
肩の羚羊が脚を空へと跳ね上げ背後にずるりと消えた。皮に貼りつく目は開かれたまま、遠い果ての方へと向いている。起き上がり小法師かのように、ゆらゆらと振れるその片目から、不気味な黒い涙が垂れてきた。冷たい呼吸が朦朧と意識をさらに混濁させる。遠い山裾から穂波の上を駆けてきた大きな風に煽られて前のめりに傾くと、ついに案山子は草叢の中にどさりと沈んだ。
不安に辺りを見渡した。濃淡に折り重なる蒼い連峰の起伏、深緑の森から突き出た針葉の木立、延々と地の果てまで流れゆく鏡の大河に寄り添い続ける湿地の草花、そして振り返れば、一面の白金に揺れる花穂の大群落。枝垂れた穂先は方々の風に遊ばれて翠緑の空に靆く白波を描いている。─── 夢を、見ていたのか、あの案山子の頭も忽然と消えている。
すべては、幻覚だったのか。
跡形もない元来た道に目を凝らした。もうあと戻りもできそうにない。失望にふと、空を見上げ燦々と照りつける陽に立ち眩み、景色がぐらりと弧を描いた。水が跳ね、丸い砂利が頬を打った。やがて、暗みゆく真近の水面は、きらきらと光を吸い込んで、気が遠退くほどに美しかった。
誰か、あそこに居たのだろうか、誰か、見つけてくれたのだろうか・・・誰か ───。
引き鉄を引くのは、射撃と同じ、造作もない。
“あいつ”は酒が廻ると、弱きを捕まえ舌を振るった。勇敢に戦い、恐怖に立ち向かい、激動の戦場を生き抜いたのだと、枯れきった昔話に独り華をちらつかせ、子どもの顔に湿気た煙草混じりの臭い吐息を吹き掛けるのだ。
銃なんてのは相手を見ず、ただその鉤爪を引けばいい。
そう言って引き鉄を真似る手は震え、年中酒瓶を握っていた。子どもは真剣な顔で聴きながら“あいつ”の嘘を識っていた。不運と怖気と人の弱さで、本当は、戦いを知らないことを識っていた。そして、世間に溢れた惨めさから、酒と煙草と暴力に溺れたのだろうと云うことを、その痣と痛みで識っていた。
“あいつ”は、引き鉄の重さを知らない。───だが、それだけは幸運だった。
初秋の草叢を跳ぶように駆ける、二頭の赤毛の獣が在る。一頭は成獣、角の幼いもう一頭はまだ子どものようだ。水を求めて逸れて来たのか、近くに類縁の群れは無い。
反射防止網を嵌めた円いレンズ越しに、親子の背中が森の麓に消えてゆくのを確認すると、照準線を遠景に合わせ、蜂の眼で辺りへ鋭く睨みを効かせた。
獲物四体、沈黙。しかし、引き鉄を引くの遅かった。貴重な一頭が、おそらくは、あの親子の家族が、見々無惨に生命を落とした。
河の辺りの暗く沈んだ茂みの奥に照準を合わせ、還らぬ無念に、独り奥歯を噛み締めた。荒くため息を吐いたが気が済まず、地面に拳を打ちつけた。砂利の尖りに肉が、骨が、疼き出す。
眼底に膠着いている残影が、死してなお、またも行手の邪魔をする。
拳を痛めつけているその傍を、赤銅の背と四肢を持つ黒い頭の山蟻が、奴隷を探して流離って来た。長い触覚を上下左右に振りながら、ふと、拳の元まで行き当たると、触覚を機敏に怯ませ、途端に避けて駆け出した。枯枝を潜り、落ち葉の丘陵を越えて茂みの奥へと突き進む果敢で孤独な山蟻を、気の立つ視線が追っていた。
茂みを見据え、迸る若い熱気が土に冷えてゆくのを暫し待ち、やがて血潮の滾りが落ち着くと、拳を弛め、冷静に左手首の内側を見た。交代まで約三時間、まだ陽は高い。
小高い山の茂みの隙間に黒い銃身を構えたまま、河辺に憩う数羽の水鳥を見つめていた。陽照りの中で水飛沫を煌めかせ、長い頸を振る伸びやかな仕草や、翼を下げて午后の陽を浴びる鷺たちの優雅なひと時を盗み見ながら、物陰に潜み神妙な面持ちで思考を廻らせていた。
ふと思い立って俯せに寝そべっていた身体を身軽に起こした。枝葉が乱雑な音を立て、咄嗟に振り返って息を殺した。耳を欹て眼だけを動かし、銃に手を遣り警戒したが、辺りに忍び寄る気配は無い。秋の蛇は性質が悪い。頭上で複雑に絡み合う、その枝先まで念入りに目視してから、素早く作業に取り掛かった。
半自動小銃を杖に立て、大股で両膝を突き二脚固定具を外しに掛かかったところで、不意に疑念が手を止めた。半信半疑で弾倉を取り外し、残弾数を覗いてみた。やはり四発しか撃っていない。真昼の幽霊か、白昼夢か ───。
あれは、幻覚だったのか。
枝葉の隙間に覗く消えた水辺を睨みつけるも、それらしき動きはやはり無い。立ち上がり、厚手の伏射撃用敷布を巻き上げて傍の窪んだ樹の根に埋め、手近の草葉で覆い隠すと、靴底で小石を転がし、萎えた小草や落ち葉を均して山を降りた。
まるで森が人を拒んでいるかのような険しい獣道を歩いた。岩を避け、砂利に滑り、枯れ葉に危うく足を取られた。行手を阻むほどに暗く羊歯の生い茂る苔生す山をようよう降り、鬱蒼と翳る樹々の終わりを目指して進むと、乱立する枝と幹の網目から、そこが昼と夜との境目のような、晴れ晴れとした明るい平地が見えてきた。
「自然保護回復強化区域 、N四五・Eニ九・B地点、獲物四体、回収を頼む」
地面から浮き出た石や樹の根の合間を用心深く歩き見ながら、右手を耳に触れ無線を飛ばした。二歩足を進めてからようやく荒い雑音混じりに“了解”と短い声が応答した。
四体の位置は既に頭に入れてある。コンテナまで防腐防菌収納袋を取りに向かい、収拾地点に運ぶとしても、回収までには充分間に合う算段だ。あの憐れな羚羊は腐敗菌に侵される前に、貴重な食糧として舟まで担いで行くよりほかない。
背高の葦の花穂を押し分けて、菖蒲の葉叢が大きく割けたその一点を手繰り寄せるように草叢の先へと突き進み、悠然と清流を湛える大河の辺りに辿り着いた。
草叢の取り囲むその中には、枯れ草の後頭部を血に染めた干し肉のような野蛮猿の遺骸と、優に六十キロは超えているであろう立派に育った羚羊が長い草を薙ぎ倒して息絶えていた。しばらくその場に立ち尽くし、生も死も公然と照らす陽の下で、矛盾する対局の感情を廻らせた。
やがて、足元に転がっていた旧びた猟銃を拾い上げ、銃口の先で突き、一体目の獲物の絶命を確認すると、羚羊の傍に屈み込み、まだあたたかい、やわらかな腹の毛並みに手を触れて担ぎ上げようとしたその時 ───、河面に揺れる異様な輝きが眼を惹いた。
持ち上げた羚羊をまた寝かせ、剣の葉叢のその先で白く揺らめく奇妙な水草を追って徐に立ち上がると、風が騒めき、時が止まった─── 。
水辺に横たわるその姿は、今正に雲の上から堕ちて来たかのように白かった。
白練の衣服に白皙の肌、そして豊かな髪は水に晒され、光を受けて白金の生糸のように煌いていた。
それを眼の当たりにしながら、まだその眼を疑った。身形は明らかに野蛮猿でも放浪者でもなく、忍び返しの容赦ない電気防護柵を越えて来たとも思えない。何処かの防空壕を伝って迷い込んだのか、それとも─── 。
今一度あたりを警戒し、意を決して歩み寄ると、片膝を突いて、浅瀬に浸った顔に落ちる乱れた髪をそっと避け、金糸の睫毛と陽射しに火傷した赤らむ頬を覗き込んだ。カーボングローブを右手から抜き取り、躊躇いに思い留まりながら頸筋に指を添えてみると、体温と弱い脈動が確かに皮膚を伝わった。
・・・幸か不幸か、まだ息がある。
身に染み付いた義務感が無意識に指を無線に向かわせ、また無意識にその手を下ろした。思考が樹海の枝葉のように、ますます犇めき絡み合う。
河面から繊細な髪を掬い揚げ、静かに頭を抱き起こした。その艶と濡れた絹のような指どおりは、枯渇した細胞による褪色ではないことを、滑らかに知らしめている。
その心中など知る由もない、当惑の腕に眠る安らかな表情は、何故か、辛苦に生きた“あのひと”の最期の面影が重なった。
途方に暮れて、我が運命を問うように天を仰いだ。その若き鋭い瞳は雄大な蒼穹を映し、澄み渡った天色に染まりゆく。
空は無碍に応えもなく烈しい陽光に瞳を灼かれ、ただ虚しさに眼を細めた。眩しさは睫毛の庇に幾分窄まり、浮遊する黒い何かが光条の中を明滅する。
瞳を闇に還し、もう一度光の中に眼を凝らすと、まるでその光芒を讃えるように、太陽の周りを数羽の飢えた鴉が舞っていた。




