パンニル
だが、マウルが沈んだ直後、背後から地鳴りのような重低音が迫っていた。
「ぬおおおおおッ! 余計な小細工など不要ッ! 力には力だぁッ!」
現れたのは、身長二メートル半を超える筋肉の塊——パンニル。
彼は重装甲の鎧すら着けず、己の極限まで鍛え上げられた肉体とアニマの膜のみを纏い、まるで重戦車のように突進してきた。地響きとともに、観客席の一部からどよめきが起こる。
観客席でどよめきが起きた。
「あれは鎧を着ないタイプの怪力自慢か……カラチより、たちが悪いかもしれんな」
「その通りだ」
リョクシが頷く。
「鎧という質量に頼らない分、パンニルの膂力そのものは正真正銘の実力だよ。小手先の技では受け止められない」
「来い、ガキィッ! 俺の肉体と力比べだッ! 小細工も嗅覚も、この質量の前じゃ意味がねえんだよォッ!」
パンニルが丸太のような両腕を広げ、ランを押し潰さんと迫る。
「力比べか! 望むところだ!」
ランは野生の血を滾らせ、逃げることなく正面から踏み込んだ。これまでの三戦とは違い、駆け引きも搦め手も存在しない、ただ純粋な質量と質量のぶつかり合いだった。
「ラン、まともに受けちゃ駄目よ!」
マリアが叫ぶ。だが、その声が届く間もなく、ふたりの巨大なエネルギーが激突する。
**ズドッッッ!!!!**
双方の拳と体がぶつかり合い、足元の石畳が爆ぜて砂塵が吹き荒れた。
パンニルの圧倒的な質量に対し、ランは押し込まれそうになる。両足の裏が砂の中にじりじりとめり込み、爪先が悲鳴を上げていた。
「ハハハッ! どうしたガキ! 力だけなら俺が上だ!」
パンニルが咆哮する。
拮抗は数秒続いた。永遠にも感じられるその数秒の間、ふたつの巨大な力がせめぎ合う音だけが、静まり返った闘技場に響いていた。
観客席から悲鳴に近いどよめきが起こった。
「ラン、押し負けてるぞ!」
リョクシの目が細くなった。
「いや、違う。よく見てみるといい」
呟くように、彼はそう零した。
「拮抗しているように見えて、ランの重心はまだ崩れていない。彼は今、押し負けているんじゃない。何かを探っているんだ」
激突の渦中。ランは眉をひそめていた。
(重い……! こいつ、熊より重い! でも……)
ランの脳裏に、直感的な違和感が走る。
(俺の拳、力が横に逃げてる……? こいつの真ん中に力が届いてない!)
今まで戦ってきた誰とも違う感触だった。カラチのときは、当たった瞬間に全てが決まった。ウーインの魔獣は、動きさえ見切れば済んだ。だがパンニルの分厚い胸は、いくら殴りつけても、その奥の芯まで拳が届いている気がしない。まるで分厚い水の壁を殴っているような、もどかしさだけが拳に残る。
押し返されながらも、ランの意識は自分自身の拳と足の裏、そのわずかなズレだけに研ぎ澄まされていく。周囲の歓声も、パンニルの怒声も、いつのまにか遠くへ退いていった。ただ、自分の拳がどこへ向かい、どこで力を失っているのか——それだけが、世界のすべてになっていた。
パンニルに押し込まれる中で、ランは無意識に、拳の角度と足の踏み込みを「わずかに」微調整した。ほんの数ミリ、体の軸をまっすぐに整えたのだ。
その瞬間、これまで散らばっていたランの生体アニマが、奇跡的に一直線の「芯」を作った。
**ゴオオンッ!**
「なっ……ぐあぁっ!?」
パンニルの巨躯が、唐突に押し戻された。
ランの放った二発目の突きが、パンニルの厚い胸板の「芯」を捉えたのだ。子どもっぽい大振り運動の中にも、奇跡的に力の伝導が噛み合った瞬間だった。
「ぬああああっ!?」
パンニルはその一撃で巨躯を跳ね上げられ、背中から盛大に転倒して沈黙した。
フィールドに静寂が落ちる。ラン自身も、自分の拳を見下ろしたまま、しばらく動けずにいた。
「……今の、何だ? さっきより、軽く殴った気がするのに……」
自分の右手を握ったり開いたりしながら、ランは戸惑ったように呟いた。これまでの一撃はすべて、力任せに叩きつけた「勢い」だった。だが今の一撃だけは、何かが違う。まるで拳の先まで、体の芯がまっすぐ繋がっていたような、そんな奇妙な感覚だった。
観客席全体から地鳴りのような歓声が沸き起こった。
「押した……! あの巨漢を、正真正銘の力比べで跳ね返しやがった……!」
リョクシは感心したように頷いた。
「素晴らしい。戦いの中で、無意識に『軸』を探し始めている。まだ偶然の産物だが、彼の肉体はすでに効率的な力の伝え方を学習しようとしているね」
フィールドの中央で、ランは倒れたパンニルを見下ろしながら、自分の拳をじっと睨んでいた。
「偶然、なのか……?」
独り言のように、低く呟く。
その声はリョクシには届いていなかったはずだが、彼は確信を込めて言った。「今はね。だが、偶然を何度も引き寄せられる者は、いずれそれを『技』と呼ぶようになる」




