マウル
ウーインが倒れたことで、予選第一ブロックの生存者は数名にまで絞られていた。
リング上に漂う殺気が一段と濃厚になる。砂の焦げる匂い、血の匂い、そして倒れた者たちの残り香が入り混じり、フィールド全体がひどく息苦しい空気に包まれていた。
二連戦を終えたランの息は、わずかに上がっている。それでも足取りに衰えはなく、むしろ体の奥から込み上げる高揚を持て余すように、両肩を大きく回していた。腕には打撲の痣が、脇腹には狼の爪痕がうっすらと残っているが、本人はまるで気にする様子もない。
「次はどんな奴だ! もう何人殴ったか忘れたけど、待たせやがって!」
観客席のどこかから、感心したようなつぶやきが漏れた。
「元気なもんだな……あれだけ暴れたってのに」
「消耗より高揚が勝っている証拠だよ」
リョクシが静かに言う。
「だが、勢いのままに向き合っていい相手ばかりではない」
「ククク……素人が。獣相手の立ち回りが上手いからといって、人間の『欺瞞』に対応できると思うなよ」
あちこちから、まったく同じ声が同時に響いた。
ランが周囲を見回すと、いつの間にか彼の周囲を三十人を超える「まったく同じ顔、同じ服装の男」が包囲していた。
影武者使いの「マウル」である。
「さあ、どれが本物の私だ? アニマによって生成された影武者は、質量も気配も本物とまったく区別がつかんぞ!」
三十人のマウルが一斉に短剣を構え、残像を描きながらランへ飛びかかってくる。三十本の切っ先が寸分違わぬ角度で振り下ろされる様は、壮観であると同時に、見る者の正気を削るような不気味さを孕んでいた。
「うわっ!? 同じ顔がいっぱい増えた!? 人間って増えるのか!?」
ランは目を白黒させて固まった。三十の切っ先が、同じ速さ、同じ角度でランへと殺到する。
観客席は騒然となった。
「どうすんだよ、あれ!? 本物はどれなんだ!?」
リョクシは落ち着いたトーンで解説する。
「分身魔術か。アニマを均等に分散させて幻影に実体を与えているね。視覚や魔力感知に頼る熟練の武闘家ほど、均一な気配に惑わされる素晴らしい技だ」
別の誰かが悲鳴混じりに叫んだ。
「あれじゃ、いくらなんでも無理だろ……!」
「……しかし、彼は相手が悪かったかもしれないよ」
囲まれたまま、ランは短剣の切っ先をひとつずつ紙一重で避け続けていた。かすった頬から一筋の血が流れる。それでも焦りより先に、鼻先がひくひくと動いていた。
「変だぞ……こいつら、姿は三十人なのに、匂いはひとつしかしない」
最初はただの違和感だった。しかし避けるたびに、ランの意識は視覚よりも嗅覚へと重心を移していく。三十の切っ先が織りなす死の輪舞の中で、ランは目を半ば閉じ、風に乗って届く匂いの層をひとつずつ剥がすように選り分け始めた。
「ラン、危ないッ!」
マリアが思わず立ち上がる。
「そんな悠長なことしてる場合じゃ——」
だが、切っ先をかいくぐるランの口元には、防戦一方には似合わない余裕の笑みが浮かんでいた。
「……匂いだ」
ランが低く呟いた。
「え?」
マウルたちが一瞬動きを止める。
ランは鼻をクックッと鳴らした。
「増えた奴らは、みんな『風の匂い』しかしない。だけど、お前だけ……朝食べたニンニクのくさい匂いがするぞ!」
「なっ……匂いだとぉっ!?」
三十人の影武者のうち、左奥にいた一人だけが顔をひきつらせた。
ランはその瞬間、大地を蹴って一直線に跳んだ。目にも留まらぬ速度で「ニンニクの匂いのマウル」の懐へ飛び込む。
「見つけたぞっ!」
ランの右腕が大きく振りかぶられる。またしても子どもの大振りパンチ。だが、その質量は岩石の破砕鎚だ。
本物のマウルは短剣を構え直す間もなく、迫りくる拳から逃げようと体をひねった。しかし、ランの踏み込みの方が一瞬早い。
**ボカァアンッ!!**
「ごぶふっ!?」
本物のマウルが腹部に拳を受けて折れ曲がり、文字通り弾丸のように後方へ飛んでいった。本体が意識を失うと同時に、残り二十九人の影武者は煙のように消え去った。
スタンドのあちこちから、どよめきが沸き起こった。
「す、すごい……! 視覚じゃなく嗅覚で本物を見破ったぞ!?」
「落ち着いていたわけじゃないと思うよ」リョクシが微笑む。「あれは、獣が群れに囲まれたときの本能的な集中だ。パニックと紙一重の場所に、彼はいつも立っている」
「紙一重……」
マリアはランの背中を見つめ、小さく息をついた。
フィールドの中央で、ランは頬の血を袖でぐいと拭いながら、消え去った影武者たちの残り香を惜しむように鼻を鳴らしていた。
「ニンニク臭い奴、もう来ないのか。もっと嗅ぎ分けてみたかったのに」
無邪気にそう呟くランの姿に、マリアは思わず苦笑した。
「あなた、褒めてるのか呆れていいのか分からない感想ね」




