本堂 5
板すれすれの低さから、額で、マシフのへその上へ入った。
濡れた丸太と丸太を打ち合わせたような音が、一度だけ板の間を渡った。
押し込まれたのは、太郎の首のほうだった。首が、肩の中へ縮んだ。歯の根が、上と下で噛み合った。
マシフの足の指は、板の上で、一本も曲がらなかった。門の前の男は、当たられたところで踏みとどまった。踏みとどまる、という動きがあった。ここには、それもなかった。
「一発で終わりだろ、あれ」
「潰されて、担がれて、おしまいだ」
言ったのは、さっきの大きい声の男だった。
戸口の脇で、ランの左の踵が、板から浮いた。浮いたまま、下りなかった。
太郎の両手が、マシフの脇の下へ入った。肘まで深く差し込み、背中の帯を、両手で取った。
マシフの腕が、下りてきた。太郎の腕の外側から、肘の上に乗る。抱え込みはしない。乗っているだけだった。乗っているだけで、肩が下へ引かれた。
太郎は、帯を引きつけ、胸を合わせて、前へ出た。
板が鳴った。
押したぶんが、どこへも行かなかった。戸板を押せば戸板の固さが、柱を押せば柱の固さが、掌に返ってくる。それすら、返ってこない。斜面に肩を当てて、山を、山ごと向こうへ押しているようだった。
太郎は、帯から片手を離し、脇の下を下から押し上げた。
踵が浮くのを、待った。
マシフの踵は、板に、べったりと着いていた。浮く気配は、どこにもなかった。
太郎は、右の脛を、マシフの左の脚の内側へ掛けた。掛けたまま、胸で押す。膝の裏を、折りにいった。
脛に返ってきたのは、脚の手ごたえではなかった。土に打ち込んだ杭に、脛を巻きつけたようだった。折れるところが、どこにもない。
脚を抜き、外側から掛け直した。同じだった。
太郎は、帯を取っていた右手を抜き、マシフの左の腿の下へ、下から差し入れた。すくう。腰を切り、体ごと右へ振った。
振れたのは、太郎の体だけだった。自分の足が板の上を半周し、気がつくと、またマシフの正面に戻っていた。マシフは、向きひとつ変えていなかった。
「あの小兵、当たるとこ変えてるっすね」
「変えさせてんだよ」
ジャヤが言った。目は、太郎のほうを向いていなかった。
「半端に残して帰すとね、また登ってくるから」
太郎は、頭を、胸の下へ入れ直した。右の肩をみぞおちに当て、膝を伸ばしきり、肩から上へ突き上げる。首の後ろの筋が、一本ずつ張っていった。
マシフの顎は、少しも上がらなかった。
戸口の脇で、マリアの手が、自分の手首に行った。行って、そこで止まった。
「・・・あいつ、何回当たる気だ」
マリアの声に、リョクシは答えなかった。マシフを見ていなかった。板の間の、二人の足元を見ていた。
「鳴っているのは、太郎の足の下の板だけだ」
マリアは、リョクシの横顔を見た。それから床を見た。言われるまで、板が鳴っていることにさえ、気づいていなかった。鳴っていると分かると、もう、その音しか聞こえなくなった。
太郎が出てから、マシフの足の下は、一度も鳴っていなかった。
その先を、リョクシは言わなかった。
太郎の息が、上がってきた。吸っても、胸の上のほうにしか入らない。汗が目に入った。拭う手がない。両手とも、まだ帯にかかっていた。
さっきまで、尻の下で板を押していただけの足の指が、今は、板を掴んでいた。掴めた。掴めても、前へは、指一本ぶんも出なかった。
太郎は、帯を離した。
二歩、下がった。マシフは、追ってこなかった。下がった太郎の前で、さっきと同じ幅で、同じ場所に立っていた。
太郎は、もう一度、拳を板に下ろした。
出た。同じ低さで、同じところへ。額の皮が、へその上で擦れて熱を持った。マシフの足の指は、やはり、一本も曲がらなかった。
差す。寄る。掛ける。すくう。押し上げる。
太郎は、出せるものを、ひとつも残さなかった。順番を変え、高さを変え、左右を入れ替えて、もう一度、頭から全部やった。そのどれにも、マシフの体は、揺れで答えなかった。
「・・・おい、まだ行くぞ」
「マシフさんの足、今、動いたか?」
「動いてねぇよ。でも、あいつも倒れてねぇ」
「行け、小兵!」
叫んだのは、「一発で終わり」と言った男だった。膝が、板から浮いていた。
マシフの手が、初めて動いた。
太郎の肘の上に乗っていた右手が、背中を滑り、帯にかかった。指が、帯の結び目の下へ、深く入った。
太郎の足の指が、板から離れた。一本ずつ。掴んでいた順に、剥がされていった。
足の裏に、何もなくなった。
マシフの腰が、一度だけ回った。
板の間が、端から端まで鳴った。壁際に並んだ膝が、板ごと揺れた。
太郎の背中は、板に着いていた。どこから着いたのかは、分からなかった。息が、胸から全部抜けていた。吸おうとしても、しばらく、どこからも入ってこなかった。
右手が、まだ、帯を握っていた。
マシフは、振りほどかなかった。帯を握られたまま、太郎の横に立って、待っていた。
太郎は、指を開いた。開くのに、ずいぶん手間がかかった。
「全部か」
マシフの声は、低く、短かった。
「・・・全部じゃ」
マシフは、それきり何も言わなかった。上座へ戻り、腰を下ろした。膝の上で、指を組んだ。板壁は、また半分だけ隠れた。
戸口の脇で、ランの右の指が、握ろうとした。握れなかった。中指の付け根から、血がもう一滴、押し出されて、柱の根元へ落ちた。
左の拳だけが、固く閉じていた。閉じたまま、開かなかった。
「ほらな。だから言ったろ」
「最初から決まってたんだよ。小兵が、上座なんか選ぶから」
さっき「行け」と叫んだ男は、浮いていた膝を、もう板へ戻していた。
太郎は、肘をついて起き上がった。一度、膝が抜けた。二度目で、立った。
上座へ、頭を下げた。マシフは、もう目を閉じていた。
戸口へ戻ると、太郎の肩は、ランの肘の高さにあった。
「・・・次は、もっと下から入る」
誰に言ったのでもなかった。ランは、返事をしなかった。マリアは、太郎の額の赤いところを見た。
壁際で、誰かが「三年前の」と言いかけた。続きは、出てこなかった。
本堂の裏は、岩肌と板壁のあいだに、人ひとり分の幅しかなかった。
窓は、腰の高さにあった。板戸が一枚、半分開いたままになっていた。閉める者は、いないようだった。
女が、窓の縁に顔を寄せていた。アミがその横から、ユキがその後ろから覗いていた。マリは覗かなかった。ユキの背中の後ろで、岩肌のほうを向いていた。
窓の内側は、板敷きの細い廊下だった。その突き当たりの暗がりの先に、広間の真ん中が、斜めに切り取られて見えた。
上座に、大きな背中が座っていた。床の真ん中には、もう誰もいなかった。小さな足の指が掴んでいたあたりにだけ、汗の跡が、指の数だけ並んで光っていた。
「あの小さい子、よく最後まで立ってたわねぇ」
女が言った。アミは、答えなかった。窓の縁から、顔を離した。




