本堂 4
ランが、戸口の手前から、板の間へ一歩出た。
右の腕は、腰の横で揺れたままだった。揺れが止まる前に、もう一歩出た。磨かれた板に、赤い点がひとつ増えた。落ちたところだけ、板が光るのをやめた。
壁際の首が、端から順に、戸口へ回った。
「・・・前庭から上がってきたのか」
「前庭の、ハオハンさんたちは?」
「通ってきたんなら、そういうことだろ」
訊いたほうも、答えたほうも、自分の言ったことに、遅れて口を閉じた。誰も、続きを言わなかった。
ランは、三歩目で止まった。止められたのではなかった。右の脇腹が、吸い込む息を、途中で押し返した。肩だけが、二度、上下した。
ジャヤが、奥の暗がりから目を戻した。
ハヤトの胴から、腕を抜いた。柱の脇にひざまずいていた門下生の二人が、すぐにハヤトの両脇に肩を入れた。ジャヤが顎をひとつ振ると、二人はハヤトを壁際へ運んだ。端の席の門下生が、尻をずらして場所を空けた。ハヤトは板壁に背中を預け、浅い息をひとつ吐いた。吐いたぶんは、吸わなかった。
ランは、ハヤトを一度だけ見た。何も言わなかった。目は、そこに留まらずに、上座の向こうへ抜けていった。
ジャヤが、首の後ろを掻いた。
「ここに上がった奴はね、上の四人の誰かと一番取るんだ。新入りも、戻りも」
声は、もう柔らかいほうへ戻っていた。ジャヤは、壁際のハヤトを、顎で指した。
「さっきのは、戻りの一番。相手は自分で選びな。縛りがあるのはナデリだけ。拳だけで、布を巻く。ほかの三人には、何をしてもいいよ」
門下生は、これを歓迎の一番と呼んだ。選ぶのは上がった側で、四人のほうは断らない。勝つための一番ではなかった。どこまで出して、どこで倒れたか。それで、壁際のどの席に座るかが決まった。
三年前、上がったその足でマシフを選んだ新入りがいた。その男の席は、今も決まっていない。その日のうちに、自分の足で石段を降りて、それきり登ってこなかった。
「上は、どっちだ」
ランが言ったのは、それだけだった。
壁際の何人かが、肩を揺らして笑った。
「話、聞いてねぇな、あいつ」
「縛りも知らねぇで上がってきたのかよ」
ひときわ大きいのは、さっきハヤトの背中に笑いを投げた男の声だった。
ランは、振り向かなかった。壁際の列にも、加わらなかった。膝を揃えて座れば、脇腹がもっと息を潰す。それを知っているのは、体のほうだった。
戸口の脇の柱の前に、立ったままでいた。
マリアが、その左の肘のそばまで来た。掴みかけて、指を握り込み、下ろした。
リョクシは、敷居の上から動かなかった。
末席で、太郎が立った。
長く膝を揃えていたせいで、最初の一歩は、脛から下がどこにあるのか分からなかった。足の裏を、板に置き直す。二歩目からは、歩けた。
壁際に並んだ膝の前を、背を丸めて通った。誰も、足を引かなかった。太郎のほうが、膝をひとつずつ避けた。
戸口の手前で、太郎は止まった。
ランの右腕が、すぐ横で揺れていた。太郎は、それを見てから、ランの顔を見上げた。
「・・・ハヤトは、負けた」
「見てた。最後のだけ」
マリアが言った。太郎は、頷いた。
「三回やった。三回とも、向こうが上じゃった」
ランは、何も訊かなかった。太郎も、それ以上は言わなかった。
「そこの小兵」
ジャヤの声は、柔らかいままだった。
「上がった順だよ。先に、取っておいで」
太郎は、返事をしなかった。
柱のウフルを見た。ウフルは、踵に乗せた足の甲を乗せ直し、顎を少しだけ上げてみせた。
壁際のハヤトを見た。布を解かれた右の拳が、膝の上にあった。太郎の目は、しばらく、その拳から動かなかった。
最後に、上座を見た。
マシフは、目を閉じたままだった。膝の上で組んだ指は、さっきから一本も動いていない。
太郎は、戸口を離れた。
真ん中を通り、ジャヤの横を過ぎ、ウフルの柱の前を過ぎた。上座の手前、膝ひとつぶん空けたところで止まり、頭を下げた。
「お願いします」
壁際が、一斉に息を呑んだ。それから、吐いた。
「マシフさんを選んだぞ」
「あいつ何も、知らねぇのか」
「うわ、いきなり上座っすか。選べとは言われたけど、そこ選ぶとは思わないっしょ」
最後のは、ウフルだった。ジャヤは、何も言わなかった。口の端だけが、少し上がった。
「・・・なんで、いちばんでかいのを選ぶ」
マリアの声が、戸口から追ってきた。
太郎は、振り向かなかった。
「でかいもんの下なら、わしの入るとこがある」
マシフが、目を開けた。
組んでいた指を、一本ずつほどいた。片膝を立て、その膝に掌を置いた。そこへ体を預けて、ゆっくり腰を上げる。背後の板壁が、下から順に見えていった。立ち上がりきったあとも、壁は、肩の幅のぶんだけ隠れたままだった。
上座の脇に座っていた門下生が二人、膝をにじらせて後ろへ下がった。マシフが一歩、板へ足を下ろした。床が、壁際の膝の下まで鳴った。
「何でも出しな」
ジャヤが言った。それきり、合図はなかった。
マシフは、大広間の真ん中まで出て、止まった。構えなかった。両腕を下げ、足を肩の幅に置いて、膝も曲げずに立っている。
太郎は、腰を落とした。両方の拳を下ろし、指の背を板に触れさせる。板は、門の前の石ほど冷たくなかった。
目の前にあるのは、マシフの腹だった。顔を上げなければ、顔は見えなかった。上げなかった。
太郎が出た。




