前庭 9
ランは、うつ伏せのまま、両手を砂に突いた。
腕で、体を押し上げた。右の腕が、肘のところで一度、折れた。左だけで、押し上げ直した。
膝を着かないまま、左手で砂を突き放し、腰から立った。
口の端から、砂の混じった唾が、糸を引いて落ちた。
テフニカが、ハオハンの左の肩の脇へ戻っていった。
ランは、二人の肩のあいだを見た。開いた戸の暗がりが、まだ、そこにあった。
右の拳を握った。今度は、一度で握れた。
六度目。
ランは、走らなかった。右の脇腹が、もう、走るための息を吸わせなかった。歩いた。歩いて、二歩目で、沈んだ。
踏み込んだ足が、砂に埋まった。くるぶしまで、埋まった。それまでの五つの跡の、どれよりも深かった。
ハオハンが、来た。頭を下げ、肩を前に。一度目と、寸分違わないぶちかましだった。
ランの右拳が、ハオハンの頭頂部に一点で合わさった。
頭頂部だった。
拳が、押し戻されなかった。
ランの肩が、拳の後ろから入ってきた。腰が、肩の後ろから入ってきた。埋まった足から上の全部が、拳の一点へ向かって、順に、前へ運ばれていく。
ハオハンの踵が、砂を噛んだ。噛んだ踵が、後ろへ滑った。
下がった足が、砂に溝を引いた。一度目にランが引いたのと、同じ形の溝だった。
押し返そうとした首が、肩の中へめり込んだ。
そこへ、ランが、もう一度だけ拳を押し込んだ。
そこへランが、残る全神経を込めて拳を押し込んだ。
浮いて、後ろへ運ばれる。巨体が、上がり口の段の前の砂に、背中から落ちた。砂が、ひと塊、宙に上がった。
三度目、と数えていた門下生は、六度目を口にしなかった。
左手で、門下生のひとりが、組んでいた相手の襟を離した。
「・・・飛んだ」
「ハオハンさんが、飛ばされたぞ」
そこへ、テフニカが来た。
右から、踵が、ランの右の脇腹へ伸びた。一度目と、同じところだった。
踵は、入った。
ランは、倒れなかった。
脇腹に踵をめり込ませたまま、首だけを、テフニカへ回した。息は、吐かなかった。吐く分の息が、もう残っていなかった。
テフニカの脚が、引かれる前に、ランが前へ出た。
ランの左の拳が、テフニカの顎を、下から打ち抜いた。
テフニカの首が激しくのけぞる。しなやかな体が弧を描いて空を舞い、そのまま砂上へ力尽きて落ちた。二度と体を支える腕は上がらなかった。
ハオハンが、砂から起き上がった。
顎を引き、膝を緩め、またひと回り低くなる。
ランは、待たなかった。
右の拳を、引いた。肩甲骨の際で、また何かが引っかかった。引っかかったまま、引いた。
ハオハンが、踏み込んだ。ランも、踏み込んだ。
二人のあいだの砂が、なくなった。
ランの右の拳が、ハオハンの胸元に入った。
ハオハンの体が、拳の上で動かなくなった。
前へ出ようとしていた肩が、止まった。踏み込んだ足の膝が、ゆっくりと外へ開いた。
口から、長い息が抜けていった。抜けきるまで、ハオハンは、ランを見ていた。
それから、膝が先に崩れた。上体が後ろへ傾き、段の前の砂に、仰向けに沈んだ。
今度は、起き上がらなかった。
組み合っている者は、もう一組も残っていない。門下生たちは、相手の襟から手を離したまま、腕を下げていた。誰かが何か言いかけ、口を閉じた。
「・・・あのさ」
砂の上から、声がした。
テフニカは、横向きに倒れたまま、砂に頬を着けていた。打たれた顎の側の口の端から、赤いものが一筋、砂へ流れていた。
「こっちはさ、負けたら、ここにいられなくなんの。あんたは負けたって、何もなくさないじゃん」
息を、ひとつ吐いた。笑う形にしようとして、顎が痛んだのか、途中でやめた。
「なのに、何でそこまですんのさ。何も持ってないくせに」
ランは、テフニカを見なかった。開いた戸のほうを見ていた。
「そんなもんしらねぇ。ただ前に進むだけだ」
それきりだった。
テフニカは、砂に頬を着けたまま、それを聞いた。
言い返そうとして開いた口から、何も出てこなかった。
段の前の砂に、ハオハンが仰向けに倒れていた。
ランは、それをまたがなかった。横を回って、段に足を掛けた。
右の腕は、肘から先が、腰の横で揺れていた。割れた中指の付け根から、血が一滴、段の板に落ちた。
段を、上がった。一段。二段。
振り返らなかった。
庭の右手で、マリアが、手首から手を離した。
リョクシが、先に歩き出した。マリアが、その横に並んだ。二人とも、何も言わなかった。
倒れた二人の横を、マリアは、見下ろさずに通った。リョクシは、テフニカの顔の横で、一度だけ、歩みを緩めた。緩めただけで、また歩いた。
ランの背中が、戸の暗がりへ沈んでいった。
マリアとリョクシが、その後に続いた。三つの背中が板の間の奥へ消えると、戸口には、また暗がりだけが残った。
女の目が、一度だけ、立ったままのラカへ行った。行って、戻った。
「ここからだと、もう見えないわね」
女は、開いたままの戸を見上げた。板の縁から先は、暗くて何も見えなかった。
「中に、入られるんですか?」
「入らないわよ。呼ばれてないもの」
女は笑った。それから、本堂の横手の、岩肌と軒とのあいだの細い隙間へ、顎を向けた。
「でも、裏の窓なら、止められたことないの」
「案内してくれるのねぇ」
アミの腕が、女の腕に絡みにいった。絡む前に、女はもう隙間のほうへ歩き出していた。アミの腕は、何もないところで輪になった。
ユキは、溜め息をひとつだけ吐いて、後を追った。
マリは、段の前の二人を、一度だけ振り返った。それから、ユキの後ろについた。
四人の背中が、岩肌と軒のあいだへ消えた。




