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深山幽谷  作者: 真亭甘
53/55

前庭 9

ランは、うつ伏せのまま、両手を砂に突いた。

腕で、体を押し上げた。右の腕が、肘のところで一度、折れた。左だけで、押し上げ直した。

膝を着かないまま、左手で砂を突き放し、腰から立った。

口の端から、砂の混じった唾が、糸を引いて落ちた。


テフニカが、ハオハンの左の肩の脇へ戻っていった。


ランは、二人の肩のあいだを見た。開いた戸の暗がりが、まだ、そこにあった。

右の拳を握った。今度は、一度で握れた。


六度目。

ランは、走らなかった。右の脇腹が、もう、走るための息を吸わせなかった。歩いた。歩いて、二歩目で、沈んだ。

踏み込んだ足が、砂に埋まった。くるぶしまで、埋まった。それまでの五つの跡の、どれよりも深かった。

ハオハンが、来た。頭を下げ、肩を前に。一度目と、寸分違わないぶちかましだった。

ランの右拳が、ハオハンの頭頂部に一点で合わさった。

頭頂部だった。


拳が、押し戻されなかった。

ランの肩が、拳の後ろから入ってきた。腰が、肩の後ろから入ってきた。埋まった足から上の全部が、拳の一点へ向かって、順に、前へ運ばれていく。


ハオハンの踵が、砂を噛んだ。噛んだ踵が、後ろへ滑った。

下がった足が、砂に溝を引いた。一度目にランが引いたのと、同じ形の溝だった。

押し返そうとした首が、肩の中へめり込んだ。

そこへ、ランが、もう一度だけ拳を押し込んだ。

そこへランが、残る全神経を込めて拳を押し込んだ。

浮いて、後ろへ運ばれる。巨体が、上がり口の段の前の砂に、背中から落ちた。砂が、ひと塊、宙に上がった。


三度目、と数えていた門下生は、六度目を口にしなかった。

左手で、門下生のひとりが、組んでいた相手の襟を離した。



「・・・飛んだ」


「ハオハンさんが、飛ばされたぞ」



そこへ、テフニカが来た。

右から、踵が、ランの右の脇腹へ伸びた。一度目と、同じところだった。

踵は、入った。

ランは、倒れなかった。

脇腹に踵をめり込ませたまま、首だけを、テフニカへ回した。息は、吐かなかった。吐く分の息が、もう残っていなかった。

テフニカの脚が、引かれる前に、ランが前へ出た。

ランの左の拳が、テフニカの顎を、下から打ち抜いた。

テフニカの首が激しくのけぞる。しなやかな体が弧を描いて空を舞い、そのまま砂上へ力尽きて落ちた。二度と体を支える腕は上がらなかった。


ハオハンが、砂から起き上がった。

顎を引き、膝を緩め、またひと回り低くなる。

ランは、待たなかった。

右の拳を、引いた。肩甲骨の際で、また何かが引っかかった。引っかかったまま、引いた。

ハオハンが、踏み込んだ。ランも、踏み込んだ。

二人のあいだの砂が、なくなった。

ランの右の拳が、ハオハンの胸元に入った。


ハオハンの体が、拳の上で動かなくなった。

前へ出ようとしていた肩が、止まった。踏み込んだ足の膝が、ゆっくりと外へ開いた。

口から、長い息が抜けていった。抜けきるまで、ハオハンは、ランを見ていた。

それから、膝が先に崩れた。上体が後ろへ傾き、段の前の砂に、仰向けに沈んだ。

今度は、起き上がらなかった。


組み合っている者は、もう一組も残っていない。門下生たちは、相手の襟から手を離したまま、腕を下げていた。誰かが何か言いかけ、口を閉じた。





「・・・あのさ」



砂の上から、声がした。

テフニカは、横向きに倒れたまま、砂に頬を着けていた。打たれた顎の側の口の端から、赤いものが一筋、砂へ流れていた。



「こっちはさ、負けたら、ここにいられなくなんの。あんたは負けたって、何もなくさないじゃん」



息を、ひとつ吐いた。笑う形にしようとして、顎が痛んだのか、途中でやめた。



「なのに、何でそこまですんのさ。何も持ってないくせに」



ランは、テフニカを見なかった。開いた戸のほうを見ていた。



「そんなもんしらねぇ。ただ前に進むだけだ」



それきりだった。


テフニカは、砂に頬を着けたまま、それを聞いた。

言い返そうとして開いた口から、何も出てこなかった。





段の前の砂に、ハオハンが仰向けに倒れていた。

ランは、それをまたがなかった。横を回って、段に足を掛けた。

右の腕は、肘から先が、腰の横で揺れていた。割れた中指の付け根から、血が一滴、段の板に落ちた。

段を、上がった。一段。二段。

振り返らなかった。


庭の右手で、マリアが、手首から手を離した。

リョクシが、先に歩き出した。マリアが、その横に並んだ。二人とも、何も言わなかった。

倒れた二人の横を、マリアは、見下ろさずに通った。リョクシは、テフニカの顔の横で、一度だけ、歩みを緩めた。緩めただけで、また歩いた。


ランの背中が、戸の暗がりへ沈んでいった。

マリアとリョクシが、その後に続いた。三つの背中が板の間の奥へ消えると、戸口には、また暗がりだけが残った。





女の目が、一度だけ、立ったままのラカへ行った。行って、戻った。



「ここからだと、もう見えないわね」



女は、開いたままの戸を見上げた。板の縁から先は、暗くて何も見えなかった。



「中に、入られるんですか?」


「入らないわよ。呼ばれてないもの」



女は笑った。それから、本堂の横手の、岩肌と軒とのあいだの細い隙間へ、顎を向けた。



「でも、裏の窓なら、止められたことないの」


「案内してくれるのねぇ」



アミの腕が、女の腕に絡みにいった。絡む前に、女はもう隙間のほうへ歩き出していた。アミの腕は、何もないところで輪になった。

ユキは、溜め息をひとつだけ吐いて、後を追った。

マリは、段の前の二人を、一度だけ振り返った。それから、ユキの後ろについた。

四人の背中が、岩肌と軒のあいだへ消えた。


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