前庭 8
ランは、真ん中から行った。
ハオハンは、今度は待たなかった。ランの二歩目に合わせ、自分から踏み込んでくる。二人のあいだの砂が、半分になった。
ランの拳が、ハオハンの胸に入った。入ったと思ったところで、胸のほうが前へ出てきた。拳が、押し戻される。肘が、肩が、押し戻される。
ランは、斜めに飛ばされた。右へ。
右には、テフニカがいた。
テフニカは、ランが飛ばされるその先に、もう立っていた。
飛んでくるランの背中へ、上から肘を落とす。肘は、右の肩甲骨の際に入った。
ランは顔面から砂に叩きつけられた。右目に無数の砂粒が入り込む。何度瞬いても、痛みと異物は消えなかった。
下り口のまわりには、門下生が五、六人いた。組み合う手をほどいて、上がり口のほうを見ていた。
そのうちの一人が、石段を降りてきた女に気づいた。気づいて、何も言わずに、半歩、横へ退いた。隣の者も、それを見て退いた。退いた者たちは、女の顔を二度は見なかった。
四人の前に、砂が空いた。
ユキは、退いた門下生の顔を見た。それから、女の横顔を見た。女は礼も言わずに、空いた砂へ出ていた。
上がり口の前で、ランが、砂から顔を上げるところだった。
「前庭で二人並ぶの、久しぶりに見たわ」
女は、ランから目を離さずに言った。
「以前にも、こちらへ?」
「山だもの。上り下りしてれば、いろいろ見るわよ」
答えになっていなかった。ユキは、それ以上を訊かなかった。
マリは、女の足元を見ていた。砂の上に、足を引きずった跡がひとつもなかった。
ランの右の肩が、上がりにくくなっていた。
拳を引こうとすると、肩甲骨の際で、何かが引っかかる。
それでも、ランは、右を引いた。
「まだやんの? 学習しないよね、ほんと。壁に頭ぶつけてる虫みたいじゃん」
テフニカの声は、退屈しきっていた。左手の門下生の何人かが、短く笑った。
ハオハンは、何も言わなかった。言わないまま、顎を引き直した。それにも、また少し、時間がかかった。
四度目。
――ドスッ、とランの拳がハオハンの胸を捉えた。
ハオハンの足は、動かなかった。肩も、ほとんど出てこなかった。それでも、ランの体は後ろへ跳ね返された。自分の打った力が、そのまま自分の腕を通って、戻ってきたかのようだった。
ランは、足から着いた。が。
着いたその右の膝の裏を、テフニカの足が払った。
ランの体が、左を下に、横倒しに砂を打った。上になった右の脇腹に、テフニカの足の裏が、軽く乗った。体重は、掛けなかった。乗せて、すぐに離した。
庭の右手で、マリアの体が、前へ傾いた。
添えていた右手の指が、左の手首の上を、ひと筋なぞりかけた。
リョクシは、マリアを見なかった。マリアも、リョクシを見なかった。
指は、手首の上で止まっていた。止めたまま、マリアは、踏み出しかけた爪先を、砂へ戻した。
上がり口の前から少し外れた砂に、ラカは、さっきの形のまま立っていた。
弾かれた体が転がってくるたびに、見ている門下生たちが一歩ずつ下がった。下がった背中が、ラカのほうへ寄ってきた。一人の肩が、ラカの腕に当たった。当たった門下生は、振り返らなかった。誰の腕なのか、確かめもしなかった。
ラカは、ランの目を見ていた。何度転がされても、その目は、二人の肩のあいだの暗がりへ戻っていく。
ラカの口が、一度だけ開いた。何も出てこないまま、閉じた。
ランが、立った。
右の拳は、指を開いたまま、腰の横に下がっていた。握り直すのに、二度かかった。
息が、短い。吸うたびに、右の脇腹の奥で、同じところが軋む。ランは、吸う息を浅く、早く、刻んでいた。
「・・・立つなら、来い」
ハオハンが言った。低い声だった。侮る響きは、どこにもなかった。
五度目。
ランの足が、砂を蹴った。踏み込みの跡が、また、ひとつ増えた。
ハオハンのぶちかましが、正面から来た。ランの拳が、それを迎えた。
ランの体が、それまでのどれよりも遠くへ飛んだ。
仰向けに落ちた。背中で、砂を長く削った。
止まったところへ、テフニカが、右から歩いてきた。急ぎもしなかった。爪先で、ランの右の脇腹を蹴った。転がすような蹴り方だった。
ランの体が、半分だけ、うつ伏せに返った。
「なあ、寝てなよ。こっちの足も、痛いんだしさ」
今度は、誰も笑わなかった。言ったテフニカも、笑っていなかった。
「・・・五度目だぞ」
マリアの声が、低く漏れた。リョクシに向けた声だった。
「あの大きい彼、今のは、後ろの踵が砂に沈むまでに、少し間があったね」
リョクシは、ランの背中を見たまま言った。
「・・・だから、何だ」
リョクシは、答えなかった。
女は、うつ伏せのランを見ていた。
「あの子、手は着いても、膝は着かないのね」
「・・・え?」
ユキは、女の目の先を追った。
ランの跡が、庭に散らばっていた。弾かれた先、滑った線、起き上がるときに着いた手の跡。数えようとして、ユキはやめた。
膝の跡は、どこにもなかった。
「強い、ということですよね」
「そうね。強いわ」
女は、それきり、続きを言わなかった。




