前庭 7
庭の左手で、組み合っていた門下生たちが、組んだまま、足を止めた。
砂を踏む音が、ぴたりと途絶えた。
ハオハンは、両の腕を下げたまま立っていた。上がり口の段は、その踵から三歩ほど後ろにあった。
テフニカは、その左の肩の脇に、半歩だけ下がって立っていた。ランから見れば、右手になる。腕を組み、片足に体重を預けていた。
ランは、肩と肩のあいだの暗がりから、ようやく目を下ろした。
ハオハンの顔を見た。それから、テフニカの顔を見た。見たまま、逸らさなかった。二人も、逸らさなかった。
「・・・やっと、こっち見たじゃん」
テフニカが言った。ランは、答えなかった。
「一人でいいよ、ハオハン。どうせ、すぐ終わるしさ」
ハオハンも、答えなかった。
膝を割り、腰を落とす。両の拳を腿の前に下ろし、顎を引いた。それだけで、体がひと回り低くなった。
目は、ランの顔を見ていなかった。踏み込んでくる足を見ていた。この庭で何百人と弾いてきた体が、そこを見るように覚えていた。
庭の右手で、マリアが、左の手首に右手を添えた。さっきと、同じ添え方だった。
ランが、出た。
構えは、なかった。歩き出したのと同じ足が、二歩目から砂を蹴っていた。三歩目で、右の拳が腰の脇へ引かれた。
ハオハンも、出た。
踵で砂を蹴り、頭を下げ、肩から当たりにくる。地面すれすれから伸び上がってくる、ぶちかましだった。
それは激突というよりも、ハオハンという巨大な砲弾の軌道上へ、ランが正確に拳を置いたかのような光景だった。
――激突。
地を這う弾丸のごときハオハンの頭頂部へ、ランの右拳が一点で合わさる。
二つの体が、そこで止まった。
足元の砂が波紋を描いて炸裂した。左手の門下生たちが、思わず顔を背ける。
拮抗――いや、互角。
ハオハンは、それを肩で知った。この庭で、正面から当たって押し返されかけたことは、覚えている限り、一度もなかった。
先に動いたのは、ハオハンの足だった。
後ろの足の踵が、砂を噛んだ。噛んだまま、膝が伸びた。腰が、もう一段沈んだ。肩が、ランの拳ごと、前へ出てくる。
ランの踵が、砂の上を滑った。二本の溝が、後ろへ伸びていく。押し返そうとした肘が、曲がった。
曲がったところへ、ハオハンが、もう一度だけ肩を入れた。
ランの体が、浮いた。
浮いて、後ろへ運ばれる。その着く先に、テフニカがいた。
テフニカは、いつのまにか腕をほどき、ランの右手の側、二歩の間合いに入っていた。ランの足が砂に着く。その一拍に、テフニカの踵が重なった。
無防備なランの右脇腹へ深々と沈む。骨のない、柔らかな急所だった。
ランの体が、くの字に折れ、砂の上を転がった。
石段は、岩肌に沿って折れながら降りていた。
一段ごとの高さが揃っていない。女は、それを確かめもせずに降りていく。段を降りるたびに、リュックの底が腰の上で一度だけ跳ねた。
アミは、そのリュックのすぐ後ろにいた。手を伸ばせば届く近さを、降りるあいだ、ずっと保っていた。
二つ目の折れ目で、本堂の軒が、前庭の半分を隠した。見えるのは、庭の右手の門下生たちの頭だけになった。
その頭が、いっせいに同じほうを向いた。
軒の端の向こうで、砂がひと塊、宙に上がった。上がって、ほどけて、軒の影の中へ落ちていった。
女が、段の途中で止まった。
アミの胸が、リュックにぶつかった。ぶつかった勢いのまま、両手が、女の肩に乗った。乗せた手を、アミはどけなかった。
「急に止まると、危ないわねぇ」
「アミさん」
ユキの声は、一段上からだった。アミの手は、肩から二の腕のほうへ、ゆっくり降りかけていた。そこで止まった。
女は、振り向かなかった。肩の手のことも、言わなかった。軒の端を見たまま、片手を岩肌に置いていた。
「・・・始まったわね」
それだけ言って、女はまた降り始めた。アミの手が、肩から外れた。
マリが、ユキの横から、軒の向こうを一度だけ見た。
ランは、転がった勢いのまま、手を突いて起きた。
口の中に、砂が入っていた。吐かなかった。噛むと、奥歯の上で細かく軋んだ。
右の脇腹が、息を吸うたびに、内側から押し返してくる。ランは、吸うのを半分でやめた。
「一発で決まると思った? ハオハン相手に正面とかさ、普通やんないじゃん」
テフニカは、もう元の場所に戻っていた。ハオハンの左の肩の脇、半歩後ろ。腕まで、組み直していた。
ランは、また出た。
同じ道だった。同じ足で、同じ三歩目に、同じ拳を引いた。
ハオハンは、今度は低かった。一度目より、頭ひとつぶん低い。ランの拳は、肩口を外れ、ハオハンの額に当たった。
硬かった。拳の骨が、骨にぶつかった。手首から肘へ、痺れが一本、まっすぐ走った。
ハオハンの首は、少しも曲がらなかった。曲がらないまま、下からすくい上げた。
ランの体が、さっきより高く上がった。空が、一瞬、足の下へ回った。
背中から落ちる。ランは、体を丸めた。
肩が砂に着くより先に、テフニカの膝が、右から差し込まれた。右の脇腹の、一度目と同じところだった。
肺胞から強引に肺気が叩き出される。吐き出した空気が、二度と戻ってこない。
ハオハンは、もとの場所へ戻った。
避けようと思えば、避けられた拳だった。避けなかったから、重さが、まるごと額に来た。
首の後ろの筋が、すぐには元へ戻らなかった。ハオハンは、顎を引き直した。引き直すのに、さっきより少しだけ時間がかかった。
三度目――起き上がるまでに、まるまるひと呼吸を要した。
ランは、両の手を砂に突いて起き上がった。膝は、砂に着けなかった。
右の拳の、中指の付け根が割れていた。開いた皮の下から、赤いものが、ゆっくり滲んでくる。ランは、それを見なかった。
砂の上に、ランの踏み込んだ跡が二つ、並んで残っていた。二つ目のほうが、少しだけ深かった。
「おい、三度目だぞ」
「あいつ、まだ真ん中から行く気か」
左手の門下生が、組んだ相手の肩越しに囁き合った。




