本堂 3
総門へ続く谷道で、先を行くハヤトの背中に投げかけた声と、まったく同じ大きさだった。
その声は板の間に空しく落ち、そのまま吸い込まれるように消えていく。壁際に並ぶ門下生たちは、誰ひとりとして振り向こうとしなかった。
ハヤトの耳は、自身の荒い息の音だけで満たされていた。
ナデリの右拳が、ハヤトの左脇腹に深く沈み込む。脇腹の奥で何かがはっきりとずれ、途端に呼吸が半分も吸えなくなった。
ハヤトは、もう一度右を打ち込もうと足の親指で板の間を踏みしめようとした。
踏ん張れなかった。
だが、柱の脇の床は拭いきれていない汗で濡れていた。親指が空しく滑り、腰も膝も入れられぬまま、右拳はただ肩から先だけで繰り出される。ナデリは軽く頭をひと振りしてかわし、すでにその右の死角へと入り込んでいた。
空を切った右腕に引かれ、ハヤトの体が前へと泳ぐ。
ナデリはすっと膝を沈め、流れてきたハヤトの右脇の下へ頭ごと潜り込んだ。二人の胸が激しく激突する。その胸と胸の間には、拳ひとつ入る隙間すら残されていなかった。
潜り込みざま、それまで腹ばかりを狙っていたナデリの右拳は、すでに腰の位置まで下りていた。振りかぶることなく、その極小の隙間をまっすぐ真上へと突き上げる。拳は、ハヤトの顎先を巻布ごと下から跳ね上げた。
跳ね上がったハヤトの視界に、天井の太い梁が飛び込んできた。
「ハヤト――!」
戸口の方角から響いた声だった。
太郎の声ではない。壁際の門下生たちが、何人かハッと振り向いた。
戸口の手前に、ランが立っていた。マリアとリョクシが、その両脇にいた。
三人が大広間に上がってきたのは、ついさっきだった。中で何をしているのかも分からないまま、人の背中越しに覗いた。人の輪の真ん中に、見覚えのある顔があった。
ハヤトだった。
「……右で、顔か」
ウフルの呟きは、吐息に近かった。壁際の門下生たちに見えたのは、二人の胸がぶつかった衝撃と、次の瞬間ハヤトの顎が上を向いたことだけだった。
ハヤトの背中が背後の柱に激突する。だが柱は、その衝撃を受け止めもせず、跳ね返しもしなかった。
折れかけた膝が、中途半端な高さでかろうじて止まる。
それでもなお、ハヤトの右拳だけが執念のように上を目指していた。
ジャヤが、もうそこにいた。
上座の手前から柱の脇まで、いつ移動したのか、誰ひとりとしてその足取りに気づかなかった。ジャヤは上がりかけたハヤトの右腕ごとその胴を片腕でしっかりと抱え込み、空いた手のひらをナデリの胸元へ添えた。押すのではない。ただ制するように、置いただけだった。
ナデリの拳が、すっと下りた。
ジャヤは、首だけを、ランのほうへ回した。
「来たか! 遅かったなァ!」
「始めな」と告げた時の柔らかさは、微塵も残っていなかった。
ハヤトの胴を抱える腕は、鉄のようにピクリとも揺れない。
ジャヤの腕の中で、ハヤトの目は呆然と天井を見つめていた。視界の中で梁の木目が二本にブレ、また一本へと重なっていく。
ハヤトは崩れ落ちることも許されず、倒れきる前に抱きとめられていたのだった。
門下生が二人駆け寄り、ハヤトの両脇にひざまずいた。一人が手首の結び目をすばやく解き、もう一人が慎重にバンテージを引いていく。その手つきは、巻いたときよりも遥かに手慣れていた。
露出した拳には、擦り傷ひとつついていない。巻く前と変わらぬ皮膚に、ただ指の付け根あたりへ布の織り目がうっすらと赤く残っているだけだった。
拳には、擦り傷ひとつ無かった。巻く前と同じ色で、指の付け根に、布の織り目の跡が薄く残っているだけだった。
ハヤトは、己の拳を信じられない面持ちでしばらく見つめた。
布を解いていた門下生が何か言いかけ、口をつぐむ。
ナデリは、自身のバンテージを歯で噛んで荒々しく解いた。表情ひとつ変えず、丸めた布を握りしめたまま、上座の脇から奥の暗がりへと下がり始める。最初から最後まで、彼がハヤトの姿を視界に収めていたのかどうかさえ、誰にもわからなかった。
ナデリは、自分の布を自分の歯で解いた。顔を変えず、解いた布を手の中で丸め、上座の脇から奥へ下がっていった。最初から最後まで、ハヤトを見ていたのかどうか、やはり分からなかった。
張り詰めていた板の間の空気がわずかに緩むと、待っていたかのように壁際からひそひそとした雑音が這い出してきた。
板の間の空気が緩んだところから、壁際の声が這い出してきた。
「戻ってきて、結局これかよ」
「拳ひとつじゃ、こんなもんか」
「倒れずに立ってたのだって、ジャヤさんが抱えたからだろ」
先ほど肘を立てかけていた門下生が、あざ笑うようにひときわ大きな声で吐き捨てた。
ハヤトは、聞こえないふりをしたわけではなかった。すべて耳に届いていた。ただ、息を吸うたびに脇腹の奥が痛みに軋むため、言い返す息すら残っていなかったのだ。
ハヤトは、聞こえないふりをしなかった。聞こえていた。ただ、脇腹の奥が、吸うたびに一つずつ鳴るので、返す息が無かった。
「巻布のおかげで、綺麗な顔が残ってよかったっすね」
ウフルが再び柱に肩をあずけ、軽薄な声で言った。だがその鋭い視線だけは、ハヤトの解かれた右手から一瞬たりとも離れていなかった。
「・・・十年早い。が、十年は要らんかもしれん」
マシフは重々しくそれだけを口にすると、静かに目を閉じた。
ジャヤは、ナデリが消えていった奥の暗がりを凝視している。
ジャヤは、ナデリが下がっていった奥を見ていた。
「ナデリ」
暗がりの中で、華奢な背中が一瞬ピタリと止まった。
「……いや。いい」
背中は躊躇することなく、そのまま闇の奥へと呑まれていった。
ジャヤが何を言おうとしたのか、大広間にいる誰も尋ねようとはしなかった。それが触れてはならない領域であることを、誰もが本能的に察していたのだ。
浮き上がっていた腰は、いつの間にかかかとの上へと戻っている。冷え切っていた脛は、すでに冷たさを感じる感覚すら麻痺し、痺れ切っていた。
太郎は、自分の手元に視線を落とした。
固く力んでいたせいで、開くことすら忘れていた拳だった。そっと開いてみると、掌の真ん中にくっきりと四つの爪痕が並んでいた。幸いにも、血は滲んでいない。
太郎は、もう一度その手を力強く握りしめた。
今度はゆっくりと。指の一本一本が、掌のどこへ当たるのかを噛みしめるように確かめながら――。




