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深山幽谷  作者: 真亭甘
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本堂 2

ジャヤの「次」という合図で、第2ラウンドの合図が鳴り響いた。


異世界最強を誇る道場の四天王の一人、ボクサーのナデリ。その攻めは、1ラウンド目よりもさらに無駄がなく、容赦がなかった。右で腹、もう一度右で腹。激痛でハヤトのガードがわずかに下がった瞬間、下から顎を打ち抜く左アッパー。機械のように正確な三連撃が、執拗にハヤトを襲う。



「最後の一発、毎回同じとこっすね」



「同じところに来ると分かっていても、腕は下がる」



マシフは、膝の上で組んだ指を、一本も動かさなかった。



「腹の奥は、先に壊れる。顔より先にな」



門下生の誰かが、自分の脇腹に手を当てた。当てたことに気づいて、すぐに下ろした。


息を吸うたび、ハヤトの左脇腹の奥で肋骨が嫌な音を立ててズレた。吸う、ズレる。吐く、戻らない。呼吸をするだけで激痛が走り、体が内側から壊れていく。


顔面へまっすぐ伸びてきた左ストレートが、ハヤトの左目の上を切り裂いた。視界が真っ赤に染まる。床に落ちた血のひとしずくが木目に沿って滲んでいくが、拭う余裕すらない。


ハヤトは、布に包まれた拳の先を、一度だけ突き合わせた。

乾いた音はしない。湿った肉と餅を叩きつけたような、生々しく鈍い音が道場に響いた。


(・・・入る)


左足を、床の上で指二本ぶん前へ滑らせた。圧倒的な死線、ナデリの拳が届く間合いへ、自ら踏み込む。全身の体重を踵から親指の付け根へ乗せ、死力を尽くす。


ナデリの右が、また腹に来た。息が抜ける。それでも、足は滑らせた場所から下げなかった。


ナデリの頭が左へ振れ、戻ってくる。その途中を、ハヤトは狙った。

床を踏みしめた親指が膝を押し、膝が腰を回し、腰が肩を送り出す。下半身から湧き上がる全エネルギーを右拳に乗せ、渾身の一撃をまっすぐ打ち込んだ!

拳は、ナデリが顔の前に構えた左の拳と前腕に、正面から当たった。構えた腕の上からだった。


板の間に、重い俵を床へ落としたような、低く詰まった音がした。


拳は確かに当たった。だが、芯まで突き抜けるような手ごたえがない。厚い鉄板に極厚の布団を被せて叩いたような不気味な感触が、ハヤトの肘を痺れさせた。


壁際の声が、途中で切れた。

ウフルの肩が、柱から完全に離れた。



「・・・素手なら、腕ごと持ってかれてたっしょ」



誰も答えなかった。


ナデリは、一歩も下がらなかった。

右、左、右と刻んでいた頭の揺れが、そのとき一度だけ、ほんのわずかに遅れた。それから、また左へ振れた。


ジャヤだけが、まばたきを一つ、遅らせた。


ナデリの頭は、もう元の間隔で揺れていた。顔は、何も変わっていなかった。



「効いてないっしょ、あれ」



ウフルが言った。ジャヤは返事をしなかった。上座のマシフを、ちらとも見なかった。


太郎は、膝の上の手を握り込んだ。指のあいだから、汗が一筋、手首のほうへ下りていった。



「ハヤト・・・」



声は、喉の半ばで止まった。止まったぶんが、胸の奥で、固まりになって残った。


ナデリは、また右で腹を打ち、左で顎を打った。押されたハヤトの背中が、後ろの柱に、二度当たった。



「止め」



ハヤトは、自分の右の拳を見下ろした。布の綿が、拳の形のまま、まだへこんでいた。押すと、ゆっくり戻った。


(・・・綿ってのは、こんなに厚いもんかねぇ)


声には、しなかった。


水の碗を取ろうとして、指が一度、碗の縁を掴み損ねた。布はもう、手首まで汗を吸って、重くなっていた。左目の端の赤いところを、手の甲で拭う。拭った布に、血の色が、布の目に沿って滲んだ。

息を浅くすると、脇腹のずれは小さくなった。浅くしたぶん、次の区切りが、早く来るような気がした。

柱の脇の板に、汗が二つ三つ、拭かれないまま光っていた。





三つ目は、ハヤトのほうから詰めて始まった。


膝は、もう上がろうとしなかった。拳だけで、右、左と打った。どれも本気の拳だった。二つとも、ナデリの構えた腕に当たって止まった。

が、息を吸うたびに脇腹の奥がずれ、そのたびに、足で板を押す力が、腰のあたりで途切れた。


三発目の右ストレートが、ついにナデリのガードを突破した。構えた腕の上ではない。ナデリの左頬へ、完璧なタイミングで突き刺さった!


が。

しかし――。

頬の上でバンテージの綿が潰れる。ナデリの頭は一瞬だけ傾いたものの、まるで起き上がり小法師のように、何事もなかったかのように元の位置へ戻ってきた。


眉ひとつ、動かなかった。



「入ったろ、今の!?」



「嘘だろ・・・」



壁際の門下生が、膝を立てかけて、立たなかった。立てば、上座の誰かの視界に入る。



ウフルが、何か言いかけて、やめた。踵に乗せていた足の甲を、板に下ろした。


太郎の尻が、踵から浮いていた。いつ浮いたのかは、分からなかった。



「ハヤトォ! そのまま行けェ!」





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