本堂
誰にともなく言った。
「待ってないっすよ。ナデリさんなんか、まだ一回もまばたきしてないっしょ」
ウフルが、柱から顎だけを上げた。マシフは、何も言わなかった。
真ん中には、二人いた。
ハヤトは門下生の一人に右手を差し出し、綿の詰まった分厚いバンテージを拳から手首にかけて固く巻きつけさせていた。
巻き終えると、ハヤトは布の端をグッと歯で噛んで締め直し、何度も拳を握り込んでフィット感を確かめた。
「あいつ、人に巻かせておいて自分で締め直してるっすね」
「緩いんだろう」
マシフの声は、短く、床の下から来た。
「巻いたやつが下手なんすか?」
「下手ではない。あれの拳が、布の中で余るのだ」
ウフルが口を閉じた。柱にもたれた肩が、少しだけ柱から離れた。
この大広間での立ち合いは、上に挑む者が相手の得意な流儀(投げのみ、拳のみ)に合わせるルールだ。蹴りも組みも禁止された拳の戦いでは、手首まで重厚に巻いた布が相手を破壊から守る防具となる。下が上を打ち破り、世代が循環しなければ、この山は衰退してしまうのだ。
掟ができる前の年、上座に素手で挑んだ門下生が三人いた。三人とも、自分の足では石段を降りられなかった。そのうちの一人は、今も麓の村で、箸を左手で持っている。
かつてナデリの間合いを破れず屈したハヤトは、間合いを詰めて一撃を叩き込むために戻ってきたのだった。
対するナデリは静かにハヤトの正面へ立ち、無駄のない引き締まった体躯から独特の威圧感を放っていた。
壁際で、門下生の一人が隣へ身を寄せた。
「戻りが、いきなりナデリさんかよ」
「下で負けてきたんだろ。決勝で」
「負けて帰って、上に挑むのか」
笑い声にはならなかった。鼻から抜けた息が、二つ、三つ、板の間に落ちた。
敗れて戻ったハヤトにはセコンドすら付かず、彼の背後だけぽっかりと誰もいない板の間が広がっていた。
その並びの、いちばん端。末席で、太郎は膝を揃えていた。
揃えたのは自分だったが、揃えたまま動かせなくなったのも、自分だった。
板の間の冷たさは、尻の下からではなく、脛から上がってきた。誰も太郎のほうを見なかった。
上座のマシフは、太郎の目には、人より先に山に見えた。
末席で固まる太郎は、かつて共に歩んだハヤトの圧倒的な緊張感を前に、一歩も動けずに息をのんでいた。
山までの道を、並んで歩いてきた男の手が、今、布の中にあった。知っている手だった。それでも、膝ひとつ動かせなかった。
ジャヤは、ハヤトを見ていなかった。ナデリの肩を見ていた。それから、末席の小さい体に一度だけ目をやり、戻した。
「始めな」
ジャヤの声は、相変わらず柔らかかった。
太郎の喉が、鳴った。唾を飲んだのではなかった。飲む唾が、もう無かった。
ジャヤの静かな声を合図に、ハヤトは身体に染みついた間合いへサッと足を踏み入れた。
「左の踵が浮いてるっす。拳限定の日に、あの構えは要らないのに」
ウフルが、ハヤトの足元を顎で指した。
「癖だ」
マシフが言った。それきりだった。
一方のナデリは、頭部を左右に振りながら機械のような正確さで間合いを詰めてくる。
二歩だった。
二歩で、蹴りの距離は無くなった。そこはもう、拳の届く近さだった。
わずか二歩で打撃圏内に侵入され、ハヤトは思わず蹴りの動作に入りかけるが、間一髪で踏みとどまった。
ハヤトの左膝が、蹴りの形に、腰の高さまで上がりかけ。そこで止まった。この板の間では、脚は使えない。
その隙を見逃さず、ナデリの鋭い左ジャブが二発、ハヤトの顔面を的確に捉えた。
「膝出たぞ」
「ここ、下の大会じゃないぞ」
壁際から、今度ははっきり笑い声が出た。
ハヤトはガードを固めるも、ナデリの追撃の重さに半歩じりじりと押し戻されていく。
ハヤトは両腕を上げ、顔を守った。そこへ、また左が二つ。腕で受ける。受けた腕ごと、半歩押し戻される。
二つは、さっきと同じ角度で、腕の同じ場所に、同じ間隔で来た。三度目には、受けている左の前腕の一点だけが、熱を持ち始めていた。
頭をずらして交わそうとした先には、すでにナデリの拳が待ち構えており、ハヤトの頬骨を打ち抜いた。
ハヤトは頭を右へずらして、次の左をかわそうとした。ずらした先には、もうナデリの左が待っていた。拳は、ハヤトの頬骨を叩いた。追いかけてきたのではない。そこへ頭が来ると、先に分かっていたような打ち方だった。
ハヤトも右を返した。が、ナデリの頭は、揺れのひと振りで、その右の外へ出ていた。布の先が、ナデリの頬の前に構えた拳を、撫でただけだった。
ウフルは笑わなかった。ナデリの足を見ていた。
「ナデリさん、頭を振っているのに歩幅が一定で、板の目を寸分狂わず踏んでるっすよ」
波状攻撃は止まらない。腹へのボディから鮮やかな左アッパーが打ち込まれ、ハヤトの体が跳ね上がった。
ナデリの右が、ハヤトの腹へ沈む。ハヤトの肘が、腹を庇って下がる。空いた顎へ、ナデリの左が、下から短く突き上げた。ハヤトの踵が、板から浮いた。
思わず組んで投げへ持ち込もうとしたハヤトだったが、「離れろ」の声に即座に腕を解くしかなかった。
ハヤトは前へ潜り込み、ナデリの首に腕を回した。腰が先に回り、投げの形に入りかけ。
「離れな」
ハヤトは腕をほどいた。投げれば終わっていた形が、ここでは、どこにもつながらなかった。
無防備になった瞬間、再びナデリの容赦ない打撃がハヤトのガードと額を激しく揺さぶった。
太郎の目には、拳が通ったあとしか残らなかった。
壁際の誰かが、鼻から息を抜いた。耳の縁が熱くなった。熱くなったのは耳だけで、口は開かなかった。開けたら何を言うつもりなのか、自分でも分からなかった。
尻の下で、足の親指が板を掴もうとしていた。掴めるはずのない板を、指の腹で、何度も押していた。
「止め」
「そこまで」
試合中断の合図とともに、ハヤトは荒い息を吐きながら足元のお椀を取り、喉を潤した。
水は、口の中で一度ぬるくなってから、喉に入った。




